日高





結局、弁財が復帰するまでの残り二日間で日高と弁財が顔を合わせることはなかったし、タンマツをとおしてなにかやりとりがあったかというと、そうでもなかった。日高からなにかしら連絡をしてみようかと思うこともあったのだけれど、なんだかおしつけがましいような気がしたし、五島との会話のせいもあって、結局何を言っていいかわからなくなってしまった。メールの画面を開いては二言三言書き連ねて、少し考えて、消した。それを何度か繰り返しているうちに遅い時間になってしまって、今日はもうやめにしよう、と。それを二日続けた次の日にはもう弁財は顔を出していて、タイミングを逃してしまった。そういえば書置きはちゃんと見てくれただろうかとか、そういうのを確認するのも気恥ずかしくて、そしてなにより書置きの内容も恥ずかしくて、その日の朝も弁財に声をかけることはできなかったし、弁財から日高に声をかけることもなかった。そうしていたらいつの間にか昼になっていて、終業時間になっていた。弁財の様子だけはちらちらとうかがっていたのだけれど、とりたてて体調が悪そうな様子はなかった。いつもどおり、休んでいたぶんの業務の引き継ぎをして、今日は特になにもなかったので普段通りの仕事をこなし、定時には帰っていた。オフィスのドアの開閉についても以前よりはずっと気にしていないようだった。ときおり大きな音がするとびくりと身を竦ませていたのだけれど、それだけだ。前のように顔色を悪くしたり、何度もドアのあたりに視線を彷徨わせていたりはしていない。それに日高はほっとしたのだけれど、そういえばどうして、弁財はこんなにも狭いところや扉の開閉を気にしているのだろうと考えたときに自分がなにも知らないことを思い出して、やるせなくなった。そういえば、自分は弁財のことをなにもしらないなぁと、今更なことを思う。

部屋に帰って、よく五島に馬鹿にされるセミダブルのベッドにごろんと寝転がってみても、なんとなく弁財のことばかり考えてしまう。そのくせ、その人のことをあまりよく知らない。なんだか、なつかしい初恋のような味がした。けれど、それをなんとなく噛み締めていると、なかからどろりと濁ったような苦いものが出てきて、それとは違うのだと、すぐにわかった。そんな、手放しに誰かを好きになれるような年ではなくなってしまったのだなぁと、思った。友情にしろ、愛情にしろ、好きなら好きでそれでいいと思えるほど、子供ではなくなってしまったのかもしれない。高校までは、それでよかった。けれど、なんだか社会に出てからはそういうことがとても難しくて、きらきらと光って見えるようになった。よくよく自分は馬鹿だとか、単純だとか、わかりやすいと言われるのだけれど、日高はなんだかそんなわかりやすいらしい自分のことが、最近わからなくなってしまっていた。

弁財の性格や、人間としてのタイプのようなものを上げ連ねていくと、ほんとうに、日高の苦手なタイプなのだ。弁財は物事を冷静に捉えて、客観視して、自分の感情はとりあえず置いておき、一番合理的でみんなが納得する方を選ぶ。そうして規律に厳しく、何事も堅実で、そつがない。日高は自分が納得できなければ絶対にその決定には従えないし、合理性よりも感情の方を優先してしまう。堅実なことはなにより苦手だったし、ダメならダメなりにやってみればいいんじゃないかと思っている。そつなくこなすのはまず苦手だ。こうして考えてみると、本当に、合わない人なのだなぁと思った。けれど、弁財というひとを見たときに、日高はどうして、頬が緩んでしまうのだ。猫アレルギーで五島が近づくたびにびくびくしているし、猫舌で熱い飲み物には口を尖らせて丁寧に息を吹きかけている。それから舌がびっくりするほど短くて、口の外にはあまり出ないくせに、滑舌だけは綺麗で、いつもぴしっとした言葉遣いをしていた。そうして、狭いところが苦手で、過去に、なにか酷いトラウマを抱えている。

「なんでだろうなぁ・・・」

弁財と秋山が昔少しどころでなくやんちゃをしていたという話を聞いて、はじめはたしかに驚いたのだ。驚いたのだけれど、それで弁財という人を嫌いになったかというと、そうではなかった。むしろこの人にそんな過去があったのか、と下世話な興味ではあったのだけれど、弁財という人が気になるようになった。けれど、そのせいで日高は弁財のことを少なからず、傷つけてしまった。弁財のトラウマが一時とはいえひどくなったのが、なんだか自分のせいのような気がしていけない。秋山には違うと言われたけれど、きっと、そうなのだ。

思い出すだけで胸の締め付けられるような過去なんて、いくらでもある。日高にもちゃんとそれはあって、けれど、どうにかして向き合っていかなければいけないことなんだろうなぁとも、思っていた。仕事で大失敗をしただとか、飲み会の席で誰かにゲロをかけてしまっただとか、そういう赤面するような思い出したくないことではなくて、もっと黒く凝って、自分の中に抱きかかえてしまっているような、それ。どろどろとして、ともすれば口から吐き出してしまそうなのを、いつも必死で飲み下している。外に出しては、いけないものだ。自分の中でちゃんと向き合って、どうにか整理をつけて、そうして、その黒いのを少しずつ、少しずつすすいで、いつか、そんなこともあったと、少し悲しくなるくらいにまで、薄めていかなければいけない。日高のそれはどうしても、忘れてはいけないものだったので、そうして、ゆっくりと時間をかけて、いまも、じりじりと眉間に皺の寄る思いをして、抱きかかえている。抱きかかえて、縛られて、まだ、先へ進めない。進んではいけない。

けれど、弁財のそれは、絶対に、そんなものではないのだろうなぁと、わかっていた。忘れることができるのなら、それが一番なのだと思う。けれど、絶対に忘れることなんてできないから、弁財はあんなに苦しんでいるのだろうなぁということも、ちゃんとわかっていた。こういうことは、ほんとうに、時間をかけないと、どうしようもない。どうしようもないけれど、自分がそばにいて、何か馬鹿なことをしてでも弁財を笑わせて、そうして、ほんの一時であったとしてもそれを忘れさせることができるなら、そうしたい。そう、したいのだ。けれど、弁財がそれを望んでいるだろうかと考えたときに、どうしても自信が持てなかった。過去のことを少しとはいえ知ってしまった日高がそばにいることで、弁財がもっと苦しくなるなら、それくらいなら、また以前のようにただの先輩と後輩でいいような気も、する。

自分の中でたくさんの感情がぐるぐると渦を巻いて、そのくせいくつもに分裂して、ばらばらにからだを引き裂いていくような気がした。くるしいなぁと、思った。こんなに苦しく、ひとのことを考えたのは、たぶん、はじめてだ。だから、どうしたらいいのか、どうすればいいのか、わからない。これからちゃんと向き合って、逃げることなく、考えていくしかないんだと、わかっていた。わかっていたけれど、広い海の真ん中に、ひとりぽつんと取り残されたような気がして、歩き出すこともできなくて、こわかった。とても、こわい。



END

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