秋山と弁財






弁財が目を覚ましたのは午後から出勤らしい秋山の立てた物音でだった。身体も頭もすっきりとして、随分身体が軽い。ベッドサイドを見てみると当たり前だが日高はそこにもういなくて、申し訳程度に布団がたたんであった。その上に適当な紙に書いたらしいメモで「弁財さんわりとよく寝てたみたいなんで起こさないでおきました。俺、仕事行ってきます。昨日はわりと楽しかったです。また修学旅行しましょう。日高」と下手くそでぎりぎり解読できるような文字が並んでいた。弁財は修学旅行、という文字に少し笑ってから、「俺も楽しかったよ」とぽつりと呟いた。そうしてから、未だにまだ温かいような左手をじっと見つめて、少しだけ、辛くなった。日高はきっと、誰にでもこうしてしまうのだと、わかってしまったものだから。日高はやさしい。不器用で、どうしようもなくて、愚かしいまでにまっすぐだ。それが例え弁財でなかったとしても、日高はこうして隣にいて、手を握って、眠りについて、朝にはメモを残してくれるのだろうと、思った。自分だからではないのだ、とわかったときに、弁財はひとつ、頭を振った。気持ちを切り替えなければいけない。昨晩の暖かさに似たなにかのせいで、錯覚をおこしてしまいそうだった。このまま日高に寄りかかって、瞼を落として、そうして、全部全部なかったことにしてしまいそうで、恐ろしかった。そんなことは許されては、いけないのだ。弁財は日高に何も、大切なこと、重要なことを教えていない。そんなずるいことは、許されていいはずがない。もしも弁財が日高に過去のことを話したなら、日高はどうするだろうと考えて、やめた。涙のようなものが、目の裏側をぐっと押したような気がしたからだ。髪に隠れた左耳が少しだけ、鈍く痛んだ。

弁財が部屋から出てくると、秋山はコーヒーを飲んでいるところだった。甘ったるいような匂いが立ち込めている。匂いはこんなに甘いのに、舌の上を転がすと深みのある苦味が際立つのだから、不思議だ。

「あ、起こした?ごめん」

秋山はふらりと寝室から出てきた弁財を見ると、少しだけ申し訳なさそうな顔になる。時計を見てみると午後の一時で、弁財は改めて自分がずいぶん長く眠っていたのだと驚いた。

「いや、久々に、よく寝た。なんだかだらしないな」
「そんなことないさ。最近疲れてたんだろう。なら、いいんじゃないか」
「そう・・・か。今日、午後からなのか」
「うん。でも、書類だけ作って提出したら、すぐ帰れる」

秋山は弁財がなんとなく不安そうな面持ちをしてるのを見て、そう付け足した。弁財は秋山がほんとうはそれほど情に深い男ではないことを、ちゃんとわかっていた。けれど、弁財にだけは、こうして優しさを傾けてくれる。弁財だって、そうだった。二人は二人だけで世界が完結している。お互いに支えあって、寄りかかって、今、ここにいる。それをちゃんとお互いが、わかっている。けれど、ずいぶん長く、そうしてしまったせいで、お互いに踏み込んではいけないところも、わかってしまっていた。親友と呼べる間柄であるがゆえに、絶対に他人を立ち入らせない場所を、守らなければいけない。二人はよく似た部類の人間だった。だから、一緒にいる。踏み込むことも、手を離すこともしないで、けれど、暖かさを感じられる距離で、ずっと、一緒にいる。

「今日は、随分顔色がいいな」
「・・・ああ、なんだか、身体が軽いんだ」
「そう、なら、よかった」
「なぁ、秋山」
「なに」
「・・・なんでもない」
「そう、か」

日高は弁財とは違った人種だと思っていた。正反対とまではいかなくても、誰にでも優しくできる、打算で行動しない、温かい男だと、思っている。日高と一緒にいると、自分がどうしようもなく臆病で、狭量で、なんの取り柄もないようなひとに思えて、ならなかった。劣等感のようなものを、抱いてしまう。そうして、日高に寄りかかってやすらぎのようなものを感じている自分が、こわかった。一人では立っていられないような気がしてきて、おそろしかったのだ。けれど、それを秋山に相談することも、なんだかはばかられた。弁財は少なからず、秋山に罪悪感のようなものを、抱いてしまったのだ。秋山には絶対に立ち入らせない場所に、日高が触れてしまったような気がして、そして、自分がそれをやすやすと許して、あまつさえ心地よさを感じていることに、戸惑っていた。

「なぁ、弁財」
「なんだ」
「俺たち、随分長く、一緒にいるな」
「・・・そうだな。もう、ずいぶん」
「それはきっと、俺たちがどこか、似たような部分を持ち合わせているからなんだろうなって、俺はなんとなく思ってる」

どうしてこんなに突然、秋山はそんなことを言い出すのだろうと、弁財は少し変なことを勘ぐってしまう。こういう警戒じみたことをする自分も、なんだか情けなかった。

「俺、前にも言っただろう」
「・・・なにを」
「俺じゃなくてもいいって」
「それ、は」

日高のことを言っているのか、とは、言えなかった。喉を塞がれたようになって、言葉が出てこない。けれど、秋山も弁財も、ちゃんとわかっていた。わかっていたから、弁財は申し訳なくなった。

「長く一緒にいるってことは、長く一緒にいるために、お互い、一番いい距離がわかってるってことだと、俺は思う」
「・・・そうだな」
「けど、俺と弁財の距離じゃ、きっと俺は弁財を助けられないんだろうなぁとも、思ってる」
「・・・」

秋山は少し時間を置くように、コーヒーに口をつけた。秋山は仕事初めにはいつもブラックを飲む。疲れているときには、フレンチシュガーをふたつ、そこに落とす。そこまで、弁財は知っていた。

「だから、俺は日高に声をかけたんだ。お前と日高がどれくらいの距離になったって、弁財と俺の距離が、かわるわけじゃ、ないだろ」
「秋山、」
「もしも弁財が俺に引け目を感じてるなら、そんなのは気にしなくていい。ずいぶん長く、俺たちは一緒にいるだろう。きっと、これからもずいぶん長く、一緒にいると、俺はそう思うよ。弁財は、ちがうのか」

弁財は少しも間をおかずに、「ちがわないさ」と薄く笑った。きっと秋山と弁財は、これからもずいぶん長く、一緒にいるだろうと思った。それほどに、ふたりはぴったりと、噛み合っている。お互いの領土を犯すことなく、侵食することなく、けれど、隙間風が吹くほどのズレもなく、ぴったりと、噛み合っている。

「なぁ、秋山」
「どうしたの」
「俺は、自分はずいぶんずるい大人だと、思っている」
「・・・そうだな。そんなもんじゃないのか、みんな」
「きっと、日高を利用してしまうような、気がするんだ」

うまく、自分を誤魔化すために、傷口を塞ぐために。ぱっくりと空いた傷口に絆創膏を貼り付けるように、そうしてしまいそうな気がして、怖い、と。ちゃんと塞ぐためではなくて、応急処置のように、傷口を見せずに、とにかく隠して、じわじわと血が広がるのも構わずに、そうしてしまいそうだった。そうして、血を吸った絆創膏が、いつかぱたりと剥がれ落ちてしまうように、日高も、いつか自分から離れていってしまいそうで、怖かった。けれど、傷口を縫う勇気もなくて、それが、弁財の臆病さだった。

「なぁ、不思議だな」

秋山は、少し嬉しさに似たものさえ含ませて、そう言った。弁財は「なにがだ」と首を傾げる。

「だって、お前も俺も、きっとそこまで他人を思いやれるほど、情け深い人間ではないと思ってた。わりと、人間関係もそつなくこなして、うまいこと利用して、利用されて、生きてきたんだと、思ってたよ」
「・・・そうだな」
「俺も一人だけ、そういう人がいるよ」
「そ、れは」
「誰とは、言わないけど。俺は多分、その人のことが、好きなんだと思う。友情とか、そういうベクトルではなしに」

弁財は秋山がそう言ったときに、なんだか違うことを言われているような気がして、ぎゅっと胸のあたりが苦しくなったのが、わかった。けれど、それを認めてしまっては、いけないような気がした。左耳が疼き、腰のあたりにある火傷のあとが、引き攣れたような気がした。自分は、随分汚れている。あんなに、きらきら、まぶしい人物が手を差し伸べてくれる価値のある人間では、ないのだ。それを弁財が、一番、わかってしまっている。だから、辛かった。

「秋山」
「うん」
「俺は多分、お前と一緒にいるよ」
「・・・そう、か」
「なんだか、仕事前から重い話になったな」
「俺が振ったんだ。弁財が申し訳なく思うことなんて、ないさ」

ここが、ラインだった。超えてはいけないと、お互いにわかってしまっている白線が、ここにあった。超えないことに、不満はない。むしろ、超えてしまったら、きっと、どこかでズレが生じてしまう。べったりとひっつくような関係とはちがう、ただ、お互いがお互いを必要としているぶんだけ、そこに、他より少しだけ、甘さや思いやりを乗せてじぶんを差し出すのが、二人の関係だった。何度も何度も、確認している。それが、心地いい。秋山とは、それでいい。それを誰と比較しているのかは、考えなかった。ぴったりと、蓋をする。変なものがこぼれてしまわないように。けれど、そういえば秋山の前では一度も泣いたことはなかったかもしれないと思い出して、弁財は小さく、唇を動かした。その唇が何を紡いだのかは、本人にも、わからない。


END

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