二百七日目






金曜日の講義終わりに、緑間は高尾と会う約束を取り付けていた。高尾の大学のバスケ部は今日は練習がオフらしいのでそうしたのだ。高尾と緑間は前回と同じ喫茶店で待ち合わせをしていた。講義を休んでいる緑間は先に待ち合わせの場所へ着き、コーヒーを一杯注文した。ここのコーヒーはなかなかおいしい。そこらのチェーン店には負けないだろう。緑間がそのコーヒーを一口飲んだあたりに、高尾が「真ちゃん!」と声をかけてきた。講義終わりらしく大きなバッグを持っている。参考書が重そうだ。

「久しぶり!めずらしいね、真ちゃんから会おうって言ってくるの」
「…すこし相談があってな」
「相談?」
「俺は今右耳が少し聞こえづらいのだよ。こないだまでは全く聞こえなかった」
「え」

緑間の言葉を聞いて、高尾は驚いた表情になった。「またまたー」というセリフが喉元まででかかったらしいのだが、すぐに真剣な表情になって、「まじ?」と聞き返す。緑間はコーヒーを一杯飲んで、「本当なのだよ」と。

「なにそれ、病気?なおんの?」
「突発性難聴らしい。聞こえないところから聞き取りづらいところまでは回復したのだから、まぁ治るのだろうな」
「原因は?」
「…ストレスらしいのだよ」
「…バスケは?」

高尾の言葉に、緑間は持ち上げていたカップをソーサーに戻した。それから、「長くなるからお前も何か頼むのだよ」と高尾にメニューを渡す。高尾はそれどころじゃないというふうに投げやりにカフェオレをウェイターに頼み、すぐに「で、バスケは?」と聞き直した。

「今は部活を休んでいる。講義もだ」
「治ったらまたできるんだ?」
「そうだな」
「そう」

高尾は「よかった」というふうに前のめりになっていた身体を椅子に落ち着けた。緑間はつと視線を窓の外の方へ移して、「ここまでが事実で、ここからが相談だ」と言った。窓から差し込む午後の陽光に緑間の睫がきらきらと光っている。

「俺はいつまでバスケを続けるべきだろうか」

緑間の質問に、高尾は目を丸くした。その時に、ウェイターが注文のカフェオレをテーブルにことんと置いた。高尾は「どういう意味」とそれに口もつけずに、緑間に質問を投げかける。緑間は目を伏せてコーヒーを口にしながら、「言葉通りの意味なのだよ」と。高尾はいくつか言葉を選んで、それからよく考えた。考えなければいけない質問だとわかっていた。高尾はカフェオレを一口、二口飲んだ。その間、二人の間には沈黙が横たわっていた。高尾はもうこれ以上は考えられない、というくらい考えた。緑間の近況はだいたい聞いている。講義が忙しいことも、レポートが多いことも知っていたし、それらとバスケの両立で緑間が悩んでいるだろうこともなんとなく察しがついていた。高尾はカンはいい方なのだ。しかし、緑間がここまで悩んでいるとは思いもしなかった。せいぜい、あと一年後くらいの話だと思っていたのだ。それまではまだ緑間は当たり前のようにバスケをして、当たり前のように人事を尽くしているものだと、そう思っていた。だから悔しいと思った。親友の悩みをちゃんと聞いてやれない自分の今の立ち位置や、察しの悪さを。

「俺は、バスケしてない真ちゃんとか、想像できない」
「…」
「でも、これから真ちゃんはそういう、俺の想像できない真ちゃんになってくんだと、思う。今みたいに、人をちゃんと気遣えたりとか、家事が案外得意だったりとか、料理が得意になってたり、とか」
「…そう、か」
「そう。でも、俺個人としてはまだ、真ちゃんにバスケしててもらいたい。わがままだけど。だって、真ちゃん、俺が今すぐやめろって言って、やめれんの?バスケ。真ちゃんにとってバスケってそんな軽いもんじゃ、ないじゃん」
「そうだな…」
「けどさ、けど、やっぱ、限界って、あるんだろうね」
「そうだな」
「じゃあ、その限界って、どこ?」

緑間は少し考えてから、「二年からは実験が入るのだよ。実験が入れば、毎回レポートを提出しなければならない」と言った。つまり、二年には嫌でも、バスケにのめりこむことはできなくなるということだ。

「じゃあ、今年はさ、今年度は、バスケしよう。それだけ決めよう。二年になったらやめるなんて、そんなネガティブなことはいったん忘れて、今はバスケしていいってことにしよう。二年生になったら、またこうやってさ、お茶でも飲みながら、そんとき決めよう」

高尾はへらりと笑って、そう言った。大学生のような答えだと、緑間は思った。大学生なのだから間違いはないのだけれど、そのとりあえず苦しいことは先延ばしにして、許された今を楽しもうという姿勢が、大学生らしいと思った。それから、それに少なからず救われている自分も自覚した。緑間はやっと、ほっと一息つけたのだ。黄瀬とはこういう話ができない。具体的に、いつやめるだとか、今は続けるだとか、そういう話はできない。あまりに現実的すぎるし、お互いに影響され合ってしまうものだから。

「高尾」
「なに、真ちゃん」
「お前がいてくれてよかったのだよ」
「なにそれ、恥ずかしいよ。あと、俺がいるのは当たり前じゃん」

緑間は右耳に少しふれてから、くすりと笑った。すこし、さっきよりも聞こえがよくなったような気がしたものだから。


END


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