二百三日目






緑間が病院から帰宅すると、そこには心配そうな顔をした黄瀬がいた。今朝、少し眠って目を覚ましたら、左耳はそれなりに聞こえるようになっていたのだけれど、右耳は全くといっていいほど聞こえなかった。医者の診断では、黄瀬が言っていたように突発性難聴ということだった。緑間はとりあえず様子を見ましょう、と、一週間分の薬を受け取り、帰宅したのだった。

「どうだったんスか?」
「…突発性難聴だそうだ。十分な休養をとれば回復する可能性が高いらしい」

そう言った緑間の声は朝よりしっかりしていて、それが黄瀬を安心させた。

「左耳はいつもどおり聞こえる。右耳が聞こえないのだよ」
「じゃあ、左側から話しかければ普通に会話できるってことっすか?」
「まぁ、そうなのだが、片耳からずっと音を聞いていると頭が痛くなるのだよ」

緑間は病院へ行ってここまで帰ってくるまでに相当なストレスを感じたらしかった。右耳が聞こえないので、右側からくる人に気が付かなかったり、周囲の音をうまく拾えず、神経が弱ってしまったりした。突発性難聴は原因が様々あげられるが、わりに多いのはストレスらしい。また治療法も確立されているわけではなく、とりあえずの治療薬が存在するだけだ。早期に医者にかかれば治る確率もかなり高くなるらしいが、それでも絶対治るというわけではないらしい。

「とりあえず、一週間は部活には出られない。講義は左耳だけでどうにかするしかないのだよ」
「え、休養が必要って…」
「…すまない、黄瀬、少し大きな声で言ってもらえると助かる」
「あ、えっと、休養が必要ってことはできれば講義も休んだ方がいいんじゃないっスか?講義ってわりと耳つかうし、集中しないといけないし」
「…中間テストが近いだろう」
「いや、そうなんスけど…でも教授とか学務課にかけあったらどうにかできるんじゃ…俺もわりとレポートで代用とかしてるし。病気なんだったら、診断書あれば普通に配慮してくれるっスよ」
「…そうだな」

緑間は色々と気をはっているらしかった。黄瀬はどうしてそこまでしてかくしておきたいものなのだろうかと考えた。部活を休むなら、講義だって休むべきだ。講義を休まなければ、他の面子が何かあったのだといやでも気が付くだろう。部活だけなら補講が入っただとか、実習が入っただとか、いくらでも嘘をつくことができる。緑間が講義を休みたがらない原因はそこにあるらしかった。黄瀬はどうして、と考えたときに、こないだの紫原との一件を思い出した。緑間はきっとまだバスケを続けていたいのだ。緑間と黄瀬にとってバスケは、いつか手放さなければいけないものだった。けれど、どうしてそうしなければいけないのかまでは、まだはっきりとわかっていなかった。だから手放せずに、今も続けている。誰かに許されて、バスケをしているようだと黄瀬は思っていた。きっと、遊びでならいつだってバスケができる。けれど、黄瀬も緑間も、まだ遊びでバスケをする気にはなれなかった。本気でバスケをしていたいのだ。しかし二人には他にもやらなくてはいけないこと、やりたいことがある。もっと違う世界へ行こうとしている。そこにバスケを持ち込むことはできそうになかった。どちらかを本気にして、どちらかを道楽にしなければならない。人生が二回くらいあればいいのにと黄瀬は思った。そうしたら、バスケを選ぶ人生と、仕事を選ぶ人生、どちらも選べる。人間の人生が一回しかないというのは不便なものだ。

「診断書はもらってきたのだよ。念のためにな」
「緑間っち、夕飯とか、そういうときどうするんスか」
「…そうだな…少し疲れた。寝てから…考えよう…」
「今から寝たら夜眠れなくなるっスよ。一時間くらいしたら、起こしにいくっスか?」
「いや、アラームで…」

そこまで言ってから、緑間はかぶりを振った。そうして「ノックはしないで入ってきてかまわないから」と断って、二階へとのぼっていった。黄瀬はその後ろ姿を見てから、自分はほんとうに、この秘密をみんなに打ち明けずにいていいのだろうか、と考えた。自分のストーカー事件のときのように、みんなで緑間を助けてやることはできないのだろうか。けれど、それとこれとは性質を全くの別にしていることを、黄瀬はちゃんとわかっていた。わかっていて、誰にもなにもできないのだということが、ただただくやしいと思った。もうすぐ、中間テストがあって、それが過ぎたら、文化祭がある。どんどん忙しくなる。それに押しつぶされるようにして考えていかなければならない。いつ、どちらを選択するのか。いや、それでは正しくない。いつ、バスケをやめるのか、考えなければならない。今この瞬間にだって。


END

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