二百一日目






黄瀬が帰国して一日が経過したが、黄瀬は時差ボケがうまく治せず、まだ変な時間にねむくなったり、変な時間に目が覚めてしまっていた。今日も、1コマ目から授業があるというのに夜中に目が覚めてしまって、黄瀬は頭を抱えていた。しかし寝ようとするにもなかなか寝付けず、むしろどんどん目が冴えていって仕方がない。しょうがないので朝まで起きていようかと、もはや朝の午前4時にベッドから起きだして、熱いコーヒーでも飲もうかとキッチンへ降りた。すると、まだ暗いそこに電気がついていて、黄瀬は誰か徹夜でもしているのかと、そこを覗き込んだ。そこはぴんと張りつめていた。なんにも音がしていなかった。誰か電気を消し忘れたのだろうかと思ったが、黄瀬が見ると、そこには緑間がいた。緑間はキッチンで参考書を読みふけっていた。集中しているのか、黄瀬がキッチンに入っても、参考書から顔を上げない。黄瀬は「緑間っち、おはよう」と声をかけたが、緑間は顔を上げなかった。目をあけたまま寝ているのだろうか、と、黄瀬は首をかしげるが、緑間はぱらりとページはめくっている。黄瀬がまた「緑間っち!」と声をかけても、やはり反応はなかった。キッチンはしんとしている。黄瀬は、なんにも届いていないような緑間の反応に、こわくなった。こわくなって、緑間の肩を叩いた。するとびくりと驚いたような反応が返ってきて、黄瀬は困惑した。そうして、「緑間っち?」と首を傾げると、緑間も妙な顔になって、首を傾げた。黄瀬もどうしたのだろう、と首をかしげる。そうしてから、緑間が周囲を見渡して、本を軽くめくってみて、本を閉じてみて、耳に手を当てた。黄瀬もなんとなく事態がわかってきて、緑間の目の前で、ぱちん、と指を鳴らしてみせた。緑間にはなんにも、届いていないようだった。

「緑間っち、耳、聞こえないの?」

黄瀬の口が動く様を見た緑間の目が大きく見開かれて、そこに困惑の色が滲んだ。黄瀬も、どうしよう、という顔になって、それを見つめ返す。黄瀬はこわくなって、緑間の右耳と左耳のそばで、指を鳴らした。右耳の時は反応がなかったけれど、左耳の時、緑間の指がかすかに動いた。どちらもまったく聞こえない、というわけではないらしい。黄瀬は緑間の左耳に唇を寄せて、「しゃべれる?」と聞いた。緑間は困惑しながら、小さな声で「きこえる」と言った。その顔は青ざめていて、目の焦点もどこか遠くへ行ってしまっていた。

「今日、病院あいたら、病院、行こう…。えっと、聞いたこと、ある。突発性難聴って…大丈夫っスよ…きっと、大丈夫…」
「…黄瀬…」
「なんスか?」
「誰にも、言わないでくれ」

黄瀬は、緑間がどうしてそんなことを言いだしたのか、わからなかった。まずはじめに、自分の心配をするよりも先に、そんな言葉が出てくる緑間を、不思議に思った。けれど、そういうものが、緑間を追い詰めてしまったのだとも、思った。緑間の声は震えていて、時々裏返っていたり、やけに大きかったり、小さかったりした。それくらい、聞こえていないのだと、黄瀬は思った。そうしてから、「少し寝よう」と緑間に言った。

「寝たら、もしかしたらよくなってるかもしれないし」
「…」
「聞こえない…っスかね…なんか、書くもの…」
「寝たら、全部聞こえなく、なっているかもしれないのだよ」
「…そんなことないっスよ」

黄瀬は冷たい緑間の手をぎゅっと握って、「きっと、大丈夫だから」と根拠のないことを言った。カミサマは、きっとそんなことはしない。そんな残酷なことって、ない。緑間がいつも信じているものが、そんなにこわいもののようには思えなかった。緑間はいつだってカミサマを信じていた。信じるものはきっと救われるはずだ。けれど、黄瀬はずっと悩んでいる緑間を見ていた。緑間は悩んでいた。バスケをとるか、勉強をとるか。どっちつかずの緑間から、カミサマが両方、奪ってしまったんじゃないかとも、思った。でもそんなのってない。

しんと静まったキッチンで、二人は静かに、呼吸だけしていた。ぼんやりと、朝焼けが差し込むまで、ずっと、眠っているんじゃないかというほど、静かに。黄瀬にはかすかに緑間の音が聞こえていたけれど、緑間の方には、なんにも聞こえていないらしかった。それがとてもこわくて、さびしい。どちらともなく、たったひとりでいるみたいで、なんだか、とてもさびしかったのだ。


END

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