だけど彼は神なんかじゃなかった




壁際に追い詰められた淡島はしかし、そうした伏見を冷静な表情で見据えていた。彼女が手に持っていた資料は無残にもばらばらになって床に散らばっている。資料室の床は珍しくホコリが積もっていて、その事実だけが淡島にとっての面倒であった。「離れなさい」と普段から一ミリも動かない凛とした声音でもって伏見に命じると、伏見はその言葉をどう受け取ったのかにやにやと気色の悪い笑みを浮かべた。まるで淡島の反応を楽しんでいるようなそれに、彼女はつるりと美しかった眉間に不機嫌を塗りつけた。両腕は彼女の身体の前できっちりと組まれている。伏見はそれをちゃんと確認して、ああこの人も防衛本能だけは一人前に備わっているのだなぁと思った。男と二人きりで狭い部屋に入る事に対してはなんの危機感も抱かなかったくせに、意識の遠く及ばない根底では伏見という男としっかり距離を置きたがっている。その腕一本ぶんの距離さえつめるように伏見は淡島の背後にある壁に腕を折り曲げ肘をつけた。伏見の胸元はだらしなく寛げられており、そこから冷ややかな男の匂いがした。香水のような人工的な香りではなく、伏見が生まれた時から今までに作り上げてきた男の匂いだ。まだ幼さの残るようなそれはどうにも淡島の鼻につく。それに対して淡島の胸元から首筋に至るまでは女性には珍しくなんの香りもつけられておらず、ただ清潔とほっそりとした美しさを保っていた。柔らかな肌はどこまでも肌理が整っており伏見をそこに鼻を近づけようとする。

「もう一度だけ言うわ。離れなさい」
「…俺が従うとでも」
「これは命令です」

淡島の態度にも声音にもどうして恐怖というものは微塵も混ざり込んでいなかった。伏見は揶揄するように「命令、ねぇ」と呟く。その瞳が眇められ、口端はにたりと音が出そうな具合で歪められた。もとより男と女の隙間に命令なぞ入り込む余地があるだろうか。それは上司と部下の間柄にあって初めて形式を完成させるものだ。男女のあいだに上下の軸が存在していない以上それはどうしようもなく滑稽な言葉の寄せ集めのように感じられた。伏見はそのとおり嘲笑うように淡島の首元に唇を寄せる。彼女の肌がぞわりと粟立つのがわかった。舌で舐れば組まれていた腕がほどかれ、伏見を押し返そうとつっぱってくる。伏見の身体は十分細かったが、それによってはびくともしない。伏見はその腕を難なく捕まえ、壁に縫い付け、淡島の耳をがじがじと噛むように「もっと必死で抵抗してもいいんですよ」と言った。淡島が目一杯の力でどうにかしようとも伏見はそれを嘲笑うかのようにどんどん彼女の肌を暴いていく。腕をひとまとめにされ脚の間にはいられてはもう淡島に抵抗のしようはなかった。そこで初めて淡島は伏見を恐ろしいと思った。その恐怖のためか喉が震え「室長」と弱々しい声が溢れる。それが気に入らないと言わんばかりに伏見は淡島の唇に自分のそれを重ねた。「今怖がるのは室長じゃなくて俺でしょう」と、ゆっくり息を重ね、口の中を蹂躙して離れると、淡島の瞳は弱々しい潤みを見せた。伏見が心底楽しげに淡島の胸元に顔を埋める。その隙間からにたにたと気色の悪い笑みがこぼれた。

「ああ、女のにおいがするよ、あんた」

あんたもまだ女だったんだなぁと、伏見が呟く。ぷつりぷつりとボタンが外される音とするりするりという衣擦れの音だけが部屋の中に響いていた。どんなに淡島が耳を研ぎ澄まそうと、彼女の望む人の足音は、聞こえない。


END


title by 彗星03号は落下した



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