なまえという感情






「伏見さん」

秋山は伏見を呼ぶときにいつも「伏見さん」と呼ぶ。それは当たり前のことなのになんだか不思議な心地がした。伏見は秋山を当然のように「秋山」と呼ぶ。それとはなんだか違うのだ。秋山はかけがえのないなにかの名前を呼ぶように、丁寧に「伏見さん」と呼ぶ。下の名前を呼ぶこともできるのに、秋山はそうしなかった。それは伏見のように惰性なんかではなかった。伏見にはそれがわからない。

「伏見さん」

名前というのは不思議なものだ。呼ぶことが当然であるのに、口癖のように移り変わることはなく、そこにある。あだ名のように変わることもなく、しっかりと、根をおろすように、そこにある。秋山はそれをちゃんとわかっているように、丁寧に伏見を呼ぶ。丁寧に、丁寧に、女性の肌をいたわるのと同じあたたかみを持って、そうする。

「伏見さん」

秋山がそう呼ぶと、伏見はああ自分はここにいるんだなぁと思う。仕事をしているときも、プライベートでいるときも、ふたりっきりのときも、たくさんの中にいるときも、セックスの最中であっても、そうだった。秋山は仕事よりもプライベートの時間よりも、ふたりっきりの時間よりも、集団でいる場面よりも、互の肌の体温よりも、ずっとずっとそれが大切だというように、そう呼ぶ。

「伏見さん」

汗の雫を光らせた秋山のしたで、それを見上げながら、伏見は、ああ自分はいまここにいて、秋山とセックスしているんだなぁと思った。秋山の頬にぺたりと手のひらを置くと、それはしっとりと湿っていた。輪郭をたしかめて、そうして秋山を確かめた。そうするとはじめて知ったことのように、秋山はここにいて、自分と肌を重ねているのだと思った。けれど同時に、肌を重ねているだけでないこともわかった。不思議な感覚だった。ふわふわと浮き出すようでいて、染みのように、ちゃんとそこにある。

「…あきやま」
「伏見さん」
「秋山」
「伏見さん」

伏見が呼ぶと、秋山ははじめてそこに生まれたように、存在した。そうして、あたりまえのように、かけがえのないように、また、伏見の名前を呼んだ。それはたしかに名前のかたちをして、降り注いだ。消えてしまいそうに、けれど確かに、ふたりの肌の隙間に、吐息の間隙に、あった。なまえのない感情のかたちをして、たしかに。

END



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