大人になりたいと宙を仰いだ
保健室のベッドはいつだって清潔な匂いがする。消毒液と、柔軟剤の匂いが混ざったそれが、藤は好きだった。ごろりといつものように寝転がっていると、カーテンがすらりと開けられる。
「先生」
「藤くん、そろそろ授業の時間ですよ」
逸人は藤がベッドを使っていると、決まって授業の前には声をかけた。それに藤が従ったことは今までに一回もない。一回もないのに、逸人はちゃんと毎回声をかける。それが藤はうざったいようで、面倒くさいようで、なんだか申し訳ない気分になった。
「お腹痛いんだ」
「…そう、ですか。薬ありますよ。それとなにか温かいもの、お腹にあてると楽になるかもしれません。持ってきます」
「いいよ」
「でも」
「いらないよ、先生」
「そうですか」
藤が少し語調を強めると、逸人は少し悲しそうな顔をした。ずきんと、別にお腹なんかいたくなかったのに、そこに近いどこかが痛んだような気がした。保健室のシーツはいつも清潔だ。藤は毎日同じベッドを使っている。なのに次の日にはちゃんと新しいシーツが敷いてあって、ぱりぱりに糊まできいている。毎日毎日、別に具合が悪いわけでもない藤のために、逸人は洗濯機を回して、ぐるぐるぐるぐる、その光景をみつめているのだろうか。ぴきぴきと頬に走る亀裂が、なんだか藤を責めるようで、いたたまれなかった。
「先生」
「なんですか」
「そのほっぺたのやつ、痛くないの」
「え、ああ、これですか」
「痛いの?」
「え、藤くん」
藤は逸人の頬に手を伸ばした。かさついた皮膚に走る亀裂をなぞると、逸人が少しだけ顔をゆがめて、ぱきりと音がする。指先が触れる頬はちゃんと人肌なのに、なんだか乾き過ぎて、違うもののようだった。冬場の踵のような、それ。あわてた逸人がバランスを崩して、藤の腰掛けるベッドに片手をつく。そうすると、二人の距離がぐっと近くなって、少し首をのばせば、キスできそうだ。藤は腕をのばして逸人を引き寄せ、ずっと近い距離で彼の皸をじっとみつめる。その隙間からは彼のどうしようもない過去や、今や、未来がごちゃごちゃに混ざりあったものがのぞいているような気がした。その痛々しいそれを、どうして彼はふさごうとしないのだろう。埋めようと、しないのだろう。藤は困惑する逸人に構わず、そこにそろりと舌を這わせた。突然の暴挙に、逸人は藤と距離をとろうとするが、藤はそれを許さない。ぐっと逸人の腕をつかんで、離さなかった。ぬるりと濡れた舌で、逸人の皸をなぞる。唾液で少しずつ、丁寧に、それを埋めるように。けれど、しばらくそうしていて、やっぱりどうにもならないと、わかった。逸人の腕をようやっと離すと、彼はやはり困惑した顔をしていた。
「埋めようと、思ったんだ」
「藤くん」
「だって、あんまり、痛そうだから」
「藤くん…」
「でも先生、ごめん、無理だった」
逸人は泣いたような、笑ったような顔をした。そうして、「ありがとう」と言った。ふわりと、逸人から消毒液と、柔軟剤と、それから、少しだけ大人の男の匂いがした。藤はそれが悔しくて、悲しくて、どうしようもなく、辛かった。
END
title by 彼女の為に泣いた