ぬるま湯につかるように恋に落ちた夕立の日
雪男はフルーツをそのまま凍らせたようなアイスキャンデーが夏のうちで一番好きだった。
修道院にいた頃はアイスキャンデーを食べるのは随分な贅沢で、特に雪男は遠慮というものが得意なので、あまりそういった機会はなかったのだが、兄はたまにアイスキャンデーを美味しそうに頬張っていた。それがとてもとても羨ましく、にくらしく、子供臭く見えていた。きっと兄は何も知らないのだ。何も考えてはいないのだ。そう思い、静かに、いやらしく自分を慰めていた。雪男は文房具や祓魔師の道具を買うのに忙しかった。それが唯一、雪男を支えていたのかもしれない。まだ十二歳を数えたばかりなのに、大層なことだ。
毎年近所ではお祭がある。その日になると藤本が自腹で子供たちにわずかながらお小遣いをやり、子供たちはわくわくしながら太鼓の音の中に消えてゆく。その年、雪男は燐と一緒に出店をまわった。出店をまわるといっても、雪男はただぼんやりと祭の雰囲気をたのしむだけだ。あの言い様のない高楊感と、ソースの焦げる香ばしい匂い。それから人混みの目まぐるしさと、胸を突き上げてくるような太鼓の音。変わりに燐が色々やってくれるのだ。数合わせに綿あめ、たこ焼きに水風船。見るまに燐の両腕は極彩色の様々でいっぱいになる。みんな修道院の子だと知っているのでまけてくれたり、タダでくれたりする。雪男はそれが好きでなかった。情けをかけられるのが疎ましかった。雪男はただ握りしめた千円分の楽しみだけで充分なのに、それを越えて大人たちが楽しみを与えようとするのが我慢ならなかった。自分を優しく心の広い大人であると、他人に満足感を与えたくなかったのかもしれない。雪男はひねくれた可愛くない子供だったのだ。
散々出店をまわり、燐は最後に金魚すくいをした。雪男は散々とめたのだけれど、あの真っ赤な魅力にとりつかれた燐に押しきられ、閉口した。逃げ惑う金魚はあまりに憐れだ。雪男はどうしてか、金魚に自分を重ねてしまい、しくしくと少し泣いた。燐は何を勘違いしたのが、躍起になって金魚をすくい、三匹ほどビニルの巾着にいれてもらい、二人で飼おうな、と笑うのだ。純粋で残酷な子供というキャッチフレーズがぴったりな笑顔だった。雪男は兄を水槽に閉じ込めてしまいたい気分になった。けれど金魚はこのお祭りが終わったら適当に処分されてしまうことを雪男はちゃんとわかっていたので、金魚の命が延びたのだと思うことにした。雑菌にまみれストレスに苛まれる金魚が、そんなに長く生きるとはどうにも考えられなかったのだけれど。
夕方には家路についた。燐があんまり巾着を乱雑に扱うので、雪男はまた泣けてきた。燐は金魚の気持ちがわからないのだろうか。雪男はなんだか自分が息苦しくなって、胸のあたりをぎゅっと掴んだ。
藤本は燐の金魚を見ると、綺麗な水色の鉢を用意した。室内用ので、直径が五十センチくらいあった。それにビー玉やおはじきをざらざらといれて、水をはると、藤本は優しく丁寧に金魚を鉢へうつした。金魚は解放されたようにすいすいおよいだ。外の明かりが水面やビー玉に反射してきらきらととても綺麗だ。なのに雪男はやっぱり泣けてきて、ぐっと唇を噛み締めた。藤本はそんな雪男に「お前は正しいよ。けれど燐が間違ってるわけじゃあないんだ。そこは間違えちゃいけない。雪男ならわかるだろう」とあとでこっそり言ってきて、雪男はベッドの中で少しだけ自分を責めた。
燐はしばらくしばらく金魚をながめ、いとおしそうに顔をほころばせていた。何度も何度も、何度も何度もそうしていた。雪男はちくちくと胸に刺さる痛みに悩まされた。金魚が疎ましかったからだ。
あの金魚は一週間もしないで死んでしまった。燐は白い腹をみせてぷかぷか浮かんでいる金魚を見て、一体どんなにか悲しかったろう。夏の日差しをうけて、水面はきらきらきらきら、とても綺麗だった。それをずっとながめてから、網で金魚を優しく掬って、優しく優しく、土に埋めた。雪男は手をかさなかった。ただ、じっとそれを見ていた。すると兄がぐっと大人になったのがわかった。びっくりするほど、兄は成長していた。なんだかとても怖くなって、雪男は兄を駄菓子屋へ引っ張っていき、こないだのお小遣いでアイスキャンデーを買ってあげた。すると燐はいらないと言うのだ。雪男はもうどうしていいかわからなくて、ただ立ち尽くした。燐は先に帰ってしまったから、雪男は一人で道端に突っ立っていた。ブドウよりも紫色のアイスキャンデーはあっという間にとけて、雪男がそれを食べようとする前に地面に落ちた。それから夕立が降って、全部全部流されて、ただ雪男だけがそこに立っていた。兄よりもまだ自分が大人であることはわかりきっていたので、そんな陳腐な自
尊のためにそうしたのではないのだ。ただ、ただ、雪男はなんだか燐に見捨てられたような気がして、辛かったのだ。幼い愛情は静かに進化し、雪男をすくませた。燐がそうしていたのよりずっと大人びた感情だった。金魚はいつのまにか燐を雪男のあたたかな水槽から連れ去ってしまったのだった。そのために雪男は、ひとつ失恋をしたのだ。
幼い日の思い出なんて、そんなものだ。雪男は随分晴れた日の午後に、思い出していた。ちょうど、こんな暑くて、真っ青な日のことだったからかもしれないし、兄と並んでアイスキャンデーをなめていたからかもしれない。とにかく雪男はそのことを思い出して、兄もそれを思い出しているだろうことを確信していた。今日行ったショッピングモールのイベントで金魚すくいをしていたからだ。燐はそれをみて、微妙な顔をした。それだけで、雪男は充分だった。満たされた。なんだか褒められたような気持ちになって、やっと、安心してアイスキャンデーを食べることができた。
「金魚可愛そうだったなぁ」
ぽつぽつという雨音に紛れて燐がそう言った。雪男はそうだね、と答えた。雨足が強くなる。ざあざあと降りだす頃には、二人は部屋へ戻っていた。今日はなんだか変な日だ。なにかいやらしいことをやり直している気持ちになる。とろりと心地好い部屋の外ではざあざあと雨が雪男を責める。金魚は、もういない。
END
企画:under the rose様へ捧げます