ミッドナイトスコール
夜が形を持って蠢いているようだった。有利は大きすぎるベッドの隅で身体を小さく小さく丸めていた。まるで初めてこの城で眠った夜のように。指先に触れるのは硬い岩壁ではなく柔らかなシーツで、アニシナの魔動なんとかが働いているお陰なのか空調も完璧だった。けれどそういえば、こっちの世界には電動のシャンデリアも、ホテルによく置いてあるスタンドライトのような類もなかった。外からはしとやかな雨音が響いてくる。この世界はまだ暗い。充分すぎるほど暗かった。
「眠い」
なぜこんな台詞を言ったのか、わからなかった。有利は上半身をバネ仕掛けの人形よろしく起こすと、ひやりと冷たい大理石に足をつけた。時計がない。愛しいデジアナGショックは今回のスタツアの際携帯していなかった。時間もわからない。どういった思考があったのか、サマータイムという単語が頭をよぎる。つまり時間とは所詮太陽の満ち欠けということだ。夜に何時と名前を付けようと、夜は夜だ。染み込むような夜が、有利は恐ろしかった。こっちの世界だとそれが顕著だ。しかしこんなにも自分は病んでいたのか。有利は嫌な驚きと自覚を覚える。ぼんやりしていたのか、毛足の長い絨毯に躓いて、転んだ。
「どうされました?…ユーリ?」
コンラートは地獄耳で有名だったか。有利は未だ絨毯とじゃれあうようにしている。彼の持つランプが部屋をぼんやりと浮き上がらせる。その時だ、有利がえもいわれぬ恐怖にひやりと頬を舐められたのは。心臓が早鐘を打って、呼吸が不自然な音を立てる。頬に触れているのは絨毯の筈なのに、埃臭い石壁に頬を押し付けている気分だった。
「コンラッド、見えない」
「…え、」
「見えないよ」
有利はさっき「眠い」と呟いたのと同じ調子でそれを転がした。途端に空気が張り詰めて、コンラートは一歩だけゆっくりと踏み出し、そのあとは倒れるように有利に駆け寄った。遮幕を破り捨てるような動作が、有利には手に取るようにわかる。空気が流れて、すぐに暖かい手が有利を抱き起こした。ランプがすぐ横にあるので、まるで二人は舞台上にいるようだった。どこか中世を舞台にした映画を見ているようでもある。首の後ろを支える彼の腕は演技がかっているようにさえ思える。
「目を見せてください」
「違う、ごめん、見えてる。見えてるんだ」
「ユーリ?」
「なんだろう、癖みたいに…。ごめん、コンラッド、ごめん」
そういう意味じゃないんだ、と呟いて、泣きたくなった。誰かに心配して欲しかった。有利はもう充分すぎるほど周りに心配されていて、寧ろ心配をかけたくはなかったのだけれど、そういう心配ではなくて、渋谷有利を心配してくれる誰かが欲しかった。可哀想だと思われたかった。だがそれとは別に、「あなたはそういう人じゃないでしょう」とも言って欲しかった。身体が重たくて、だるくて、動きそうにない。
「…見えるんですね?」
「見えるよ。コンラッドがいる。目の上の傷まで」
「なら、よかった。念の為ギーゼラを寄越しましょうか?明日の朝になりますが」
「いい、いらない。ちょっと躓いただけだ。心配ないよ」
コンラートは「暗くて見えなかった」と捉えたようだった。有利は縋るような目で彼を見て、すぐにそれをやめた。自己嫌悪に押し潰されそうだった。他人を巻き込む自己満足を欲する自分がとても低劣なエゴイストに思える。有利はコンラートを少し、不快を与えないくらいの強さで押して、立ち上がった。
「そろそろ寝なきゃな。おやすみ、コンラッド。騒いでごめん」
「いいえ。では、おやすみなさい、ユーリ」
小さな小さな音を立てて扉が閉められた。有利は耐えられなくなって、目頭をおさえた。ベッドに戻ってもただ膨大な¨夜¨が押し寄せてくるばかり。何をして朝まで時間を潰そうと考えた時にまた「眠い」と呟いた。「見えない」と呟いたかもしれない。それがどんな感情の代用句なのかはわからなかった。本当にわからなかった。足先が冷たい。目尻を濡らした液体は確かに涙か、確認せずにいられない自分が恐ろしかった。
END
ベタな話も書きたいじゃないか。