こんなに広くて狭い場所で
僕は昔から人と話すことが苦手だった。誰かの考えていることに考えをめぐらせてそれでいて最良の返答をしなければならない会話が、いっとう苦手だった。たまに自分が考えていることですらわからなくなるっていうのに、他人の思考にまで気をめぐらせろだなんてむちゃくちゃな要求だ。けれど僕が言葉を知らないかといえばそれは多分絶対に違う。思考は常に言葉でもって進行してゆく。1日にいったいいくつの単語が文節が文章が泡のように浮かんでは消えてゆくのか皆目見当もつかない。そしてそれは誰だって同じで、誰しもがよくよく言葉を知っている。それがままなっているかどうかは、また違う問題なのだけれど。
ある晩のことだ。旅の途中でグリーンとばったり出くわした。その日は夏にしたら涼しい夜で、ねっとりと絡みつく熱気もそんなに気にならなかった。森の中だったがそこは少しだけ開けていて、僕が野宿しようと焚き火をしていたら、(勿論僕だとは知らず)それにあやかろうと思ったらしいグリーンが草木の間から顔を出したのだ。僕たちは仲が悪いわけじゃない。ただ磁石のように反発しているだけで、つまりは寄り添うことも容易にできる。ほんのすこしだけ、こそばゆいのだけれど。それは僕よりもどちらかと言えばグリーンの問題で、僕はただいつものように黙っている。何かいつもより喋ると事態は悪化してしまうからいけない。僕は喋らないのが普通で、普通にしていることが大切なのだと、お互い知っていた。だからグリーンは僕の分までよく喋った。それこそ口から生まれてきたんじゃないかってくらい。
焚き火は僕が用意したからとグリーンは食事を用意してくれた。簡単なスープとパンだった。おいしかった。ほうっておくと焚き火は小さくなり、灯りがなくなった。グリーンがリザードを出そうとしたけれど、やめてもらった。ラジオで聞いたのだが今晩は流星群があるらしい。だから森の中でもわざわざ少し開けたところにいたのだ。上を見上げると今にもこぼれ落ちそうな星々がちかちかと瞬いている。寝袋を引っ張り出して、ごろんと仰向けになった。グリーンもそうした。僕はまさか誰かと、それもグリーンと見ることになるとは思っていなかったから、少しだけ緊張していた。グリーンも喋らなくなった。不思議だ、僕もグリーンも喋らないのに、今はそれが心地良い。何もしなくても、僕とグリーンはぴったりと隙間無く寄り添っているような心地がした。するとしばらくして、しゅんと音がしそうな光の筋が夜空に浮かんで、消えた。
「あ、今流れた」
「うん」
「見えたのか、」
「うん見えた」
グリーンはそのあとはよく喋った。彼は僕より少しだけ星の知識があって、それは僕に自慢しながら分け与えてくれた。そんなことは別段、なんとも思わないのだけれど、僕はつくづく、話せなかった。言葉はほんとうにままならない。何万、何億という単語や文節を確かに知っているのに、僕にはこの夜の感動を表す言葉がどうしても見つからないのだ。結局、月がのぼってくるころに僕たちは目を閉じた。言葉を交わさずともそれぞれのタイミングで。
朝になって僕たちは当然のように別れた。簡単な言葉で別れを告げた。僕はもっとグリーンにかけたい言葉があったのだけれど、そればずいぶん漠然とした願望で、それがどんな言葉なのかはわからなかった。結局、ありきたりな言葉を投げたような気がする。きっと僕が一番伝えたい言葉は、一生をかけて探さなければ見つからないのだ。ただなんとなくそんな気がして、静かに帽子のつばを下げた。けれどそんな言葉を差し出さずとも僕たちは誰よりも近くにいる。次に逢った時は適当な話でも振ってみようと思う。多分、もう大丈夫だ。
END