呼吸もできない
(あの時きっとお互いに確信したんだ、二人の様々なベクトルが全く別の方向を向いていることを)
雨が降っていた。夕方から降り始めて、真夜中になっていっそう雨足が強くなった。雨がちらちらとそこら中の光を反射する。暗い部屋から窓を開けてみると此方側だけ夜にどっぷり浸かっているようだった。
その日レッドはポケモンセンターに泊まっていた。雨の匂いが強い。窓のサンが濡れたので、窓を締めた。雨音が遠のく。カーテンまで閉めてしまえば、小波の音がするばかりになった。
ポケモンセンターのベッドは決して柔らかくない。部屋も6人が一部屋に押し込められる。けれど今日は随分空いていて、実質個室だった。他にも泊まっている人はいたのだけれど、違う部屋を割り当てられた。
レッドはこのベッドの硬さが好きだった。自分の体重を受け止めてそのまま押し返しているのがわかるからだ。いつもそうなのだ。レッドは様々の存在を確かめながらでないとどうにも落ち着かない。曖昧なものはあまり好きでなかった。曖昧な表情も答えも、何一つ望んでいないのだ。
真夜中に目が覚めた。軽い尿意があったので、暖かなベッドを抜け出す。シーツが纏わりついて、諦めたように音を立てた。リノリウムの床を裸足で歩くと、足の裏が少し粉っぽくなるような気がしたが、スリッパを探すのも面倒で、そのまま部屋を出た。
すると廊下の奥の方から変な声が聞こえる。ひきつれたような、ふざけた音だ。はじめレッドは誰かが遊んでいるのだと思ったが、どうもそうでないらしい。声のする方へ行ってみると人がうずくまっている。そしてよくよく見ると知り合いだった。
「…グリーン」
流石に驚いて駆け寄ると、グリーンは変な呼吸音をしてフルマラソンを駆け抜けたように喘息していた。相手がレッドだとわかると一層顔を歪める。レッドはどうしたのと聞く前に「ジョーイさん呼んでくるから」と言った。けれどそのレッドの腕をグリーンが掴んで離さない。驚くほど冷たい指先に、レッドは慄然とした。グリーンは激しい呼吸の曖昧にようやっと「いらない」と言う。レッドはどうしていいかわからなくて、とりあえずグリーンの背中を撫でた。背骨が浮き出ているようだ。これがグリーンなのだとレッドは少しずつ平静を取り戻していく。それと共にグリーンの呼吸もゆっくりとだけれどなだらかになっていって、10分も経つと普段と変わらないくらいになった。
「…治まった?」
「ああ、悪い」
「何もしてない」
「いてくれたから」
「……」
治まってからもグリーンはそこから動けないようだったので、レッドは何か身体の温まるものを持ってこようと考えた。頭をよぎるのはあの冷えた指先だ。思い出したかのようにリノリウムが冷たさを増している。足先の感覚はとうの昔に痺れてしまっていた。グリーンに一言「待ってて」とだけ言うと、レッドは厨房に忍び込んだ。
レッドが持ってきたのは二人分のホットミルクだった。二人して壁にもたれて床に座り込む。しんしんと床の冷たさが染み入ってくるのに、カップを持つ両手は暖かかった。グリーンはとても疲れた様子だった。本当にフルマラソンを終えたのではないかと思うほど。レッドが黙ってカップを押し付けると、軽く礼を言ってそれに口をつけた。
雨音が聞こえるほど辺りは静まり返っている。所々から零れる弱々しい蛍光灯の灯り以外の光源はなかった。先程までなにがあったかも忘れてしまうほど、廊下には寒気と静寂が満ち満ちている。
聞かないのかよ、と、グリーンは唐突に、籠もるような声で言った。
「別に。興味ないから」
「そうかよ」
「話したいの」
「そうでもない」
そのとき、グリーンの輪郭がぼやけて、まるで存在があやふやになっているように見えた。レッドは何故か、彼を失ってしまったような気がして慌ててホットミルクを飲み干した。いつの間にか廊下には静謐だけが横たわっていた。雨が止んだのだ。
END