数学の証明は得意だったよ






トムは星を見ることが好きだった。夜、晴れると友人に貰い受けた望遠鏡を組み立てることもある。深緑に青を少しだけ混ぜたような色をしたVMCだ。それは確かに夜の匂いがする。普段望遠鏡は何かの取引でつかわれそうな銀色をしたケースに納められていて、脚は小さく折り畳まれ、部屋の隅でぶすくれていた。まるでオブジェのように二つはしんとしている。しかしひそひそと音がするほどには使い込まれていた。

今日は天気がいい。トム鼻歌混じりにトムはその脚を伸ばし、回りにくくなった錘をつけた。そうして望遠鏡を取り付け、大小のネジを回し、ファインダーをつける。一連の作業は流れるように行われたが、アイピースをつけるところだけは慎重になった。小さな古びた箱から取り出した円筒は黒々と鈍く光っている。そうして最後あたりに望遠鏡のバランスを確かめるとうまくいっていて、トムの鼻歌は一層夜空に吸い込まれた。トムは気分が良くて良くて仕方なかったので、静雄を呼ぶことにした。「なぁ星を見ないか」と携帯電話の電話口で。断られるという頭は無かったが、後々考えてみると恐ろしく妙だ。静雄は少し戸惑ってから「どこにいけばいいっすか」と。この時何があったのか、とにかく静雄も気分がよかったに違いない。


「あっちがアークトュルス、スピカ、デネボラ…で、繋げると春の大三角」
「スピカ…おとめ座っすか?」
「ああ、うん。これにコルカロリを足すと春のダイヤモンド」
「なんでそんなん知ってんすか」
「趣味」

トムの部屋はそれなりに広いのだけれど、二人は狭いベランダでひしめくようにしている。部屋は真っ暗にしているがのっぺりとした高層ビルが色々と煩い。猥雑なネオンの明かりが恐ろしく邪魔だった。けれど今日は月がそんなに明るくない。どうにか一等星くらいは目視できる。土星や火星も見えたが、火星は観測するには位置が高すぎた。トムは望遠鏡を少しいじって、土星に合わせた。これがもし2009年だったならもっと面白かった。

「ほら、土星」

静雄が望遠鏡を覗くと、本で見たような土星がそこにあった。けれどなんとコメントしてよいかわからなかったので、ただ「輪っかまでみえる」と呟いた。それから「すごいっすね」と。静雄が顔を上げるとトムが妙な顔になっていた。ほんの少しだけ後悔しているような顔だ。

「あ、なんで俺、呼んだんすか」
「…さぁ、なんとなく」
「星とか、すごいとしかコメントできないっすよ」
「だよな」
「…」
「悪い」
「いや、いいもん見れました」

トムは自分が卑屈になっているのがわかった。せっかくの気分が台無しになり、自然と無口になる。望遠鏡を微調整する指ばかりがせわしなく動いた。それだけだ。二人のいるベランダはすっかり夜に包まれる。天鵞絨のような空気が冷たい。気管にまでその冷たい手が伸びてきて、静雄は咳き込むようだった。現にひとつ咳をしてトムを困らせた。煙草をねだっているような咳だったからだ。

「なんで俺呼んだんですか」

そんなことをちょっと低い声で言うものだからいけない。トムはフランス人のするように肩を竦めて、「帰ってもいいんだぞ」と言った。静雄は全くそんなつもりがなかったので弁解しようとしたが、面倒でやめた。今晩はよくよく擦れ違う。トムはアルビレオをいれようとした望遠鏡をしまおうかと考えた。しかしながら一寸考えて、やめた。アルビレオは白鳥座だ。赤と青の美しい二重星で、今日は珍しく目視できる。少しだけ微動を回せば、ファインダーがそれを捉えた。この瞬間がトムは好きで好きでしょうがない。星を捕まえるというのはこういうものなのだ。小学生が虫取り網を夜空に向かって振り回すように、トムは望遠鏡を操作する。根本は変わらない。アイピースから覗く小さな小さな世界はトムだけのものだった。切り取られたそれを共有することに静雄を選んだのは簡単な理由ではない。それはトムにもよくわからない曖昧で不確かな要素が招いた結果だった。トムがアルビレオをいれた時には喉に詰まるような空気はどこかへいってしまっていた。喉がくつくつと笑いはじめるのをこらえるほどの幸福がそこにはあり、寄り添うようなアルビレオが疑問符を浮かべて
見つめかえしてくる。トムはよくよく悩んだ。この星は静雄に見せようか。なにせこの小さな世界はトムの世界なのだから。


END



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