スプリングスプリング
都会というものは猥雑なにおいがしていけない。花のほころぶ季節になろうと梅の強い香りすらせなんだ。田舎の道路に覆い被さるように枝をのばす梅はむっとするような匂いをはなっている。匂いをシャボンにつめこんで、それをうまく通行人の鼻先で割っているのかもしれない。また都会は雑踏に会話、携帯の着信音とノイズに溢れているからウグイスや雲雀なんかが鳴く声音なんぞも聞こえない。春らしいものがなんにもないからといって春がこないわけではないのが静雄は少しだけ面白いと思っていた。すれ違う女子高生のスカート丈は春めいているか、答えは否だ。年中無休でパンツがのぞける。これが京都あたりにゆくと長い。だがそれが春めいているかと聞かれればやはり否である。女子高生のスカート丈に春を求めてはいけない。一歩間違えれば春を売られてしまう。静雄が何で春を感じるかというと、上司のつまんでいるお菓子をわけてもらう時である。そのカラフルなパッケージに「春限定」だとか「桜」だとかがこれ見よがしに書かれていると「ああ春だ」と思う。トムは限定ものを好んで買う質だから、それはしばしばあった。
「なんだ、食べたいのか」
「いや、」
「遠慮すんな」
「…どうも」
桜味のチョコレートというものは随分おかしなものだ。桜らしい香りが鼻から抜ける。しかし桜の香りというものを、静雄はまだしっかりと嗅いだことがない。従ってそうか桜とはこういう匂いのする花なのかと納得しながら食べることになる。トムの掌上の可愛らしいピンク色のパッケージを見つめながら、うまいのか否か判別できないチョコレートを咀嚼し、飲み込んだ。何か言わねばなるまい。
「…桜って食えるんすね」
「普通は食わねーべ」
「なんでチョコレートに混ぜるんすかね」
「春らしいからじゃねぇの」
「そうなんすか」
「まぁ、どうせ桜が入ってるわけじゃねぇと思うけど」
トムはさっさと空になった箱を近くのゴミ箱に捨てた。静雄が食べたのが最後だったらしい。いつも最後の一つを静雄にくれるトムは、なかなかにできた男だ。
「トムさん」
「ん」
「…あー…なんでいっつも最後の一個、俺にくれるんすか」
トムはきまりが悪い顔をした。結局は自己満足のような行いだったので、これといった理由はない。だからちょっと冗談混じりに「一番うまいところはお前にやりたい気分になる」と笑ってみせた。静雄はそんな冗談が見抜けるほどには子供でなかったので、「くさいっす」と返した。ポーカーフェイスを気取る頬が悲鳴を上げる。その冗談を突き詰めるだけの強かさが、静雄にはあった。かといって、この微妙なグレーゾーンからつま先さえも出す気はなかった。欲望と願望は二分されるべきで、妄想と現実の間にも壁がある。結局はそういうことだ。何も知らない春が二人の間を行き過ぎる。寡黙に、憮然として。何回も何回も。
END