選択の自由
※おてたぬサイコパスパロ
悪の対義語が正義であるというのは、一般に満ちた、間違った解答である。悪の対義語は善であり、太陽と月がごとく、それは対局に存在している。ではどこから悪の対義語が正義であるなどという誤った認識が持ち出されたのか。それは文化の根本に深く絡みついている。うつくしい文学作品のどれをとっても、どこかに悪役が存在し、それを排除する正義が存在する。光があれば影があるように、それらはひっそりと寄り添い、数多のストーリーを悲劇的に、もしくは喜劇的に盛り上げてきた。それによって人々が感動するものだから、認識の奥深くに、悪の対義語は正義であると、根拠のない思想が潜り込んだ。それは無意識に人々を侵食し、その行動を制御する。よくない行いは悪となり、よい行動は正義となる。大衆は正義のもとに集い、悪を裁くというシナリオに酔っている。前後不覚に陥るほどには、深く。
御手杵はベッドの上で目が覚めた。右腕には点滴の針が刺さり、そこから管が伸びていた。御手杵は身体が思うように動かないのを確かめると、またか、と唇だけで呟いた。すると、「まただ」と、近くから声がした。昔は同僚で、今は上司になってしまった男の声だ。御手杵が目だけ動かすと、ベッドサイドには同田貫がいた。声の主だ。
「犯罪係数、289」
同じ声が、いっそう低く、御手杵の犯罪係数を告げた。なぜ同田貫が御手杵の犯罪係数を知っているのか、御手杵はちゃんと知っている。御手杵が気絶する前、ドミネーターを御手杵に向け、「執行」したからだ。パラライザーによって、御手杵はそこで気を失い、このベッドにまで運び込まれた。そうなるだけの理由がちゃんとあった。御手杵は執行官で、同田貫は監視官だ。御手杵の行動を正しく監視しなければならない。それが正常な業務を逸脱することがあれば、それを力づくで止めなければいけない。御手杵は正常な業務を逸脱する行動をとった。その結果、同田貫がドミネーターを使用し、御手杵を力づくで、止めた。
「次はないかもしれない」
「うん」
「俺の銃が、アンタを殺すかもしれない」
「うん」
「わかってるのか」
「うん、わかってる……ごめん、そんな顔、させるつもりはなかったんだ」
同田貫の眉はぎっちりとひそめられ、歯は音がしそうなほど、噛み締められていた。御手杵の腕が持ち上がれば、その顔に手をやって、ゆっくりと、ほぐしてやることもできたかもしれない。けれど御手杵が今できるのは、すこし、話を逸らすことだけだ。
「昔はさあ、一緒になって、いっぱい議論したなぁ」
「なんだよ、きゅうに」
「犯罪係数が何に基づいて計測されるのかとか、犯罪の定義とか、シビュラ・システムについてとか、あとは、そう、正義って、なんだって、話」
「議論がしたいわけじゃない」
「シビュラってなんだか、覚えてる?」
同田貫は諦めたように、ため息をついた。
「……神の言葉を告げる信託の巫女の名前だ」
「神はたくさんいる。神様の中でも、アポロンの言葉だ。うまく名付けたもんだなって、思った時期も、俺にはあったよ。でもさ、不思議なんだ。神様ってやつが、シビュラ・システムを経由して、ドミネーターを介して、俺に、あいつを殺せって言った時に、違和感があった。こんなの神の言葉じゃないって、思ったね」
「神なんか、いない」
「そう、あるのはシステムだけだって、話。じゃあ俺たちは何を信じて、何の上に立って、この社会で生活してるんだ。怖かないか。実態のない正しさだけがここにある」
「行為の正しさは幸福を生み出すことにある。最大多数の最大幸福が実現されてるこの世の中で、シビュラを悪と判断することは難しい」
「ミルの理論だ。じゃあ俺はこう返すよ。『満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい』」
「なにをもって満足、不満足とするかによるだろう。たしかにアンタは、そう、不満足な人間であり、不満足なソクラテスかもしれない。けど、それによって他者の幸福の価値と、基準を勝手に選定することはできない。幸福は正義と共にある」
「『正しいものに従うのは、正しいことであり、最も強いものに従うのは、必然のことである』。シビュラには力があるだけだ。力に正義が宿ることはなく、正義に力が宿ることもない」
「同じ書籍から引用してやろうか?『正義と力とをいっしょに置かなければならない。そのためには、正しいものが強いか、強いものが正しくなければならない』」
「力のあるものが正しいとしてしまったあとに残るのは暴力と圧政だ。混沌とした無秩序が広がるだけだ」
「けれどそれが正義の実情だ。うつくしい言葉で飾っておいて、正義を論ずる時には必ず、力が付随してくる。正義には幸福も付随する。最大多数の最大幸福を実現するには、正義がなければいけない。必ず」
御手杵は少し黙ってから、頭の回転を、少し、緩めた。
「ただしいって、なんだ。あんたが、次に俺に銃口を向けた時、おんなじことが、言えるのか」
「……」
「それが答えだろ」
同田貫はぎゅっと拳を握って、震える声で、「そんなこと、二度とない」と言った。そうして、御手杵に近寄って、ひっそりと、唇を重ねた。御手杵はちょっと考えてから、「この感情はただしいのか」と聞いた。同田貫は、答えなかった。
「御手杵!止まれ!!」
同田貫が叫ぶ。御手杵は止まらない。遠くへ駆けてゆく。このままではだめだとわかっていた。御手杵が、遠いところへ行ってしまう。ドミネーターの明るい、青い光が瞳を照らす。照準はきっちり、御手杵に向けられていた。それを握る手は、祈るようなかたちをしていた。
『犯罪係数300、刑事課登録執行官、任意執行対象です。執行モード、リーサル・エリミネーター』
神はきっと、死んだのだ。
END