冷たくても呼吸できるよ




光忠は他の刀より少しばかり早く起きる。出陣の無い日は朝餉の支度を任されているからだ。当番制ではあったけれど、料理に通じている刀は少なかったし、そういう刀たちが料理を任されたって、うまくできやしないって、わかっていたから。だから光忠はできるだけ台所に立つようにしている。それははじめ歌仙もそうであったし、他に料理の心得のある刀や、覚えた刀も務めてそうしているようであったけれど、光忠ほど熱心な刀はいなかった。だから、光忠は出陣の無い日は努めて、早く起きる。それが何日続いたのかわからなくなるくらい、そうしていた。

光忠は朝、まだなかなか軽くなってくれない瞼のために、コーヒーを一杯、飲む。ミルはなかったけれど、新しい曳かれた豆を丁寧にドリップして、熱いまま、口をつける。それが日課だ。日課になってしまった。けれど、その日は違った。

間違いなく、光忠はドリップされたコーヒーを飲んだ。それなのに、熱いばかりで、なんの風味も、においも、味もしなかった。光忠は黒くなりきれないカップの液体をまじまじと見て、それを流しにためらいなく捨てた。それから、もう一度、コーヒーをドリップした。間違いのないように、ドリップした。けれど、それすら、味がしなかった。光忠は冷静に、「ああ、これが味覚障害というやつか」と、感心をした。どこか他人のことのようでもあった。光忠がコーヒーを二回ドリップしている間にも、誰も厨に入ってこなかった。今日は歌仙は出陣であったし、他の刀もきっと、何かしらの事情があるのだろうと、光忠は思った。

味覚がどうにかなっていたって、身体は料理のこさえ方を嫌というほど知っている。光忠はいつものように、いくつもの大きな炊飯器のタイマーが鳴る前に、出汁巻き卵を作り、味噌汁をつくり、昨晩の余りを少しアレンジして、朝食を用意した。炊飯器のアラームが鳴る頃になってやっと、何振りかが「今日も精が出るねぇ」なんて言いながら、完成された食事を、広間へ運んでゆく。光忠はただ、料理をするだけでいいのだ。

そうして朝餉を摂ったのだけれど、出汁巻き卵はスポンジを噛んでいるようなものだったし、味噌汁は味のない、異物の混ざった汚い水を飲んでいる感覚だった。白米なんか、味のない虫が口の中を這いずり回っているような感覚で、とてもじゃないが、食べられるものではなかった。だから光忠は自分が箸をつけていても頓着しなくて、大食らいの刀どもにそれを押し付けた。もとより、朝はそんなに食が進まないのだ。自分で作った料理を自分で食べるというのも、あまり好きではなかった。なんだか、気持ちが悪いのだ。けれど、広間に集まった刀は口をそろえて「おいしい」と言ってくれる。いや、今は雑談ばかりだ。いつからだろう、光忠の料理に、感想がつかなくなったのは。それは光忠にも思い出せない。

皿洗いは誰でもできるので、光忠の役割は本当に食事の用意をすることだけだった。だから、朝餉のあとの厨はよく賑わう。朝のしんとした空気とは大違いだ。光忠は味覚障害のことを審神者に報告でもしようかと思ったが、やめた。そうしたらきっと食事を作る当番を、誰かに奪われてしまう。あの厨に立つことができなくなってしまう。それはなんだかとても悲しいことのように思えた。けれど、光忠はそれがどうして悲しいことなのか、よくわからなかった。

光忠が朝餉を終えて、特にすることもないので、縁側でのんびりと、どうして突然味がわからなくなったのかを、考えた。神様ってやつが、光忠から味覚を奪ってしまったのだろうかと、自分も神のはしくれのくれにそんなことを漠然と思った。それから、なんの匂いも感じられない。すぐそこに庭があって、その庭には香りの強い金木犀の花が咲いているのに、その香りが全くわからない。すれ違う他の刀も、練り香水をつけている刀もいれば、いつも甘未を持ち歩いている刀もいるのに、それがわからない。光忠は、なんとなく、これが一時的なものだと思っていた。最近少し疲れていたのかもしれない、と、思った。その疲れからきた一時的なもので、明日か、一週間もすれば、治るものだと、なんとなく思ったのだ。けれど、最近自分は何か疲れるようなことをしただろうか。

そんなふうに光忠が縁側でぼんやりとしていると、もうすぐ昼餉の準備を始めなければならない時間になった。光忠はそういえば、昼餉も自分の当番になっていたんだっけ、と、そこを立とうとした。けれど、その肩に手が置かれ、なんなら力を込められて、光忠はすとんと元の位置に戻された。後ろを振り返ると、大倶利伽羅がいた。腕も、大倶利伽羅のものだった。大倶利伽羅は静かな面持ちで、「なにもしなくていい」と言った。

「え、どうして?もうすぐお昼だよ。出陣してた部隊のみんなも帰ってくるよ。準備しなきゃ」
「……誰かがやる」
「え、誰が……」
「お前以外の、誰かだ」
「……」

光忠にはそんなこと、思いもつかなかった。光忠は「誰もやらないかもしれない」とぽつり、こぼした。大倶利伽羅は「あんたに強制的に与えられた役割でもない」と答えた。それから大倶利伽羅は、「どうしてさっき、後ろを振り返ってから、俺の名を呼んだ」と尋ねてきた。光忠は当然のように、「誰だかわからなかったから」と答えた。

「今朝の朝餉は誰が作ったんだ?」
「僕だよ」
「一人か」
「うん」
「あれはあんたの料理じゃなかった。どこにもあんたがいなかった。空っぽの、味だけして、腹だけ満たす、ただの物質だった」
「……なに、それ……」
「不味かったって、言ったんだ」
「……嘘だよ。みんなの顔見ればわかるもの。いつも通りだったよ。おいしくないなんて誰も言わなかったじゃない。特に歌仙さんなんかは味にうるさいから、おいしくなかったんなら、絶対指摘するよ」
「ほかの奴らには美味しい朝餉だったんだろうが、俺は不味いと感じた」
「……なに、それ……」

大倶利伽羅はかがんで、燭台切の顎を掴み、無理矢理に口づけをした。そうして、僅かな隙間から舌をねじ込んで、燭台切の口の中を長いこと、舐った。そうしてから、茫然とする光忠に向かって、「なあ、俺の味はしたか」と尋ねた。

「……したよ。どうして、そんなこと聞くんだい」
「どんな味だった」
「……水に、生ぬるい、生きた人間の、少し生々しい、肌のその下の味」
「……見ろ」

大倶利伽羅は、べっと舌を出して見せた。それは真っ赤に濡れていて、それがケチャップだとか、豆板醤だとか、そういったものの色ではないことが、光忠にはすぐにわかった。血だ。大倶利伽羅は光忠と口づけする前に、頬の内側をこれでもかと噛んでいたのだ。

「これで鉄の味がしなかったと答えるやつは、いないだろう」
「……ねえ、どうして?どうしてこんなことするの?」
「お前が、壊れてたから」
「……どこも、壊れてなんかないじゃない。どこにも傷なんてないよ」

大倶利伽羅は浅黒い人差し指をすうっと伸ばして、光忠の胸に、とんと置いた。

「ここに何があるか知っているか」
「……肋骨……心臓……血管……」
「……こころだ」
「伽羅ちゃん何言ってるの?心は脳みそにあるんだよ。全部科学で証明されてる。脳みその機能が心なんてくだらないものをあるように見せかけてるんだ。そんなところにはないよ」
「俺が指さしているのは、俺と、お前の、境界線」
「……え、」
「地球上に、人間が一人だけいたとする。生まれた時からひとりだ。その人間は言葉を発しない。話す相手がいないから。その人間は思考をしない。する術をだれにも教わることができないから。そしてする必要もないから。その人間は本能だけで生きる。そこにこころは生まれない。こころというものは、ひとと、ひとの間で初めて生まれるんだ。誰かに何かを伝えたいと思う、誰かを好ましく思う、逆に疎ましく思う、誰かを愛おしいと思う、誰かを助けたいと思う。『思う』というのは、『腹が減ったから食べたい』『眠いから寝たい』『昂ったからヤりたい』とは違う。それは欲求だ。思ってはいない。思うのはいつだってこころだ。あんたのこころは壊れてる。メシを作ることを、本能にしようとしている。だからこころがストップをかけた。味覚と嗅覚を奪って、お前のこころが、お前を救おうとしたんだ」
「……でもこころはひとつしかないじゃない。食事を作ることを本能にしようって心が、それにストップをかけるなんて、おかしい話だよ。これはちょっとした脳の誤作動なんだ。ただ、それだけだよ」

大倶利伽羅は少し怖い目で、光忠を見た。それから、少し、疲れた顔をした。

「なあ、俺はお前……光忠が、好きだ」
「……めずらしいね。伽羅ちゃんが、そんなこと言うの。付き合って、何回目なんだろう」
「なあ、光忠、お前は、メシを作ることと、俺、どっちが好きなんだ」
「…………そんなの、伽羅ちゃんに決まってるじゃない」
「即答しなかったな」
「だって、急な質問だったから。当たり前のことでも、吃驚したら、言葉に詰まるよ」
「昔のお前なら、即答してたんだ」
「……昔って、いつ……」
「さあ、忘れたな。さて、昼餉の準備、そろそろ始めないと、間に合わないが、俺はお前の部屋で、お前を待っている。昼餉の時間になったら、広間に行く。昼餉の準備は、半刻で終わる。誰かがやればな。けど、俺はお前を待っている。お前だけを、待っている」

大倶利伽羅はそう言うと、縁側から立ち上がり、すたすたと光忠の部屋の方へ、歩いて行った。取り残された光忠は、茫然と、大倶利伽羅が言っていた「こころ」っていうものが、真っ二つに、正確には四分の一と、三に分かれるのが、わかった。厨に行かなければという気持ちが三で、大倶利伽羅の待つ自分の部屋に行こうという気持ちが、一だ。それを自覚してから、ああ、自分はほんとうに壊れていたんだなあとわかった。恋人より、他人の、誰もおいしいなんて言ってくれない料理を作りにいく気持ちの方が、ずっとずっと強いなんて、おかしい話だ。光忠以外にも、昼餉を作ってくれる刀は、いくらでもいる。それなのに、四分の三の心が、本能になろうとしている。たった一人、光忠を心の底から想ってくれている待ち人の元へ行きたいという残りの一を食い尽くして。

光忠はその縁側から動けなかった。どこも痛くなんかないのに、どこも傷なんてついてないのに、なんにも、苦しいことなんてないはずなのに、なんにも、辛いことなんてないはずなのに、ぽろぽろと目から涙が落ちて、落ちて、止まらなかった。

前に出陣したのは、いつ。みんなが自分の料理を最後においしいと言ってくれたのは、いつ。朝餉の支度に誰も来なくなったのは、昼餉も、夜も、たったひとりで厨に立つ頻度が上がったのは、いつ。もうなにもかもが思い出せない。それなのに、なんだか、胸のあたりが痛い。このこころは、誰との境界線なんだろう。この本能は、誰が作り上げたものなんだろう。

「ねえ助けてよ。痛いよ。苦しいよ。こんなのいらないよ。こんなの重いよ。楽にしてよ。ねえ、『誰か』助けて」

そのときに大倶利伽羅の名前を呼べなかった時点で、光忠は、もう。


END

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -