ぼくらだけのラブソング
丸くて白いボールだけ追いかけてた頃が1番幸せだったんじゃないかって、大人になってしまった御手杵は、何度も思う。多分あの頃が、人生の絶頂で、あとは転がり落ちていくだけなんじゃないかって、ずっと、それこそ2000年を超えた今でも、そう思うから。
1986年、小学6年生だった時の、夏の大会だった。御手杵と同田貫は同じ野球チーム、といっても、小学校がやっているスポーツ少年団だけれど、とにかく同じチームにいて、2遊間を任されていた。御手杵がセカンドで、同田貫がサード。大会は決勝戦で、試合は9回裏、3‐2で2人の所属するチームが勝っていた。2死で、走者は1人。そこへ、最後になるだろうバッターが、ボール球をひっかけてくれて、御手杵は「あ、これで優勝……」なんて思いながら、高く上がったボールを捕ろうとした。そうしたら、同じようにその白球を追いかけている同田貫と目が合って、脚が止まった。ポトン、と、ボールが落ちる音と、進塁の音がして、試合の流れがすごい勢いで持っていかれるのがわかった。声も出せずにいると、続くバッターにサヨナラホームランを食らって、気が付いたら試合が終わっていた。あの時に見た白い球と、それとおんなじくらいまんまるな同田貫の眼を、御手杵はずっと、忘れられない。その時にきっと、赤い実がはじけた。
高校の3年生の夏に、御手杵は暑さにやられたのか、なんなのか、自分がゲイだってこと、親しい友達のうちの1人に打ち明けてしまった。そして、同田貫が初恋で、今もずっと、好きなんだって、ことも。もしかしたら、中学と、今までに、自分ばっかりで抱え込んできたことを、どうにかしたかったのかもしれない。修学旅行とか、ちょっと男子が集まったときとかに話題にあがる女子のスカートがどうとか、胸が、とか、そういう話題にはついていけなかった。御手杵は男が好きだ。そういう風に生まれたんだって、小学6年生の時に、わかってしまった。でも、普通に生活していくぶんには、問題が起こらなかった。同田貫がそばにさえいなきゃ、どうにでもなった。けれど同田貫とは小さい頃からの友達で、親友で、いつでも一緒で、だから中学の半ばくらいで、同田貫をオカズにしてしまった。その時の罪悪感とか、なんにも知らないで親友やってくれてる同田貫への日々の視線のやり方とかで、御手杵の腕はもう抱えきれないもので埋め尽くされていた。だから、ポロっと言ってしまったのだ。
それが間違いだったんだって、1週間もしないうちに気づかされた。御手杵がゲイだってことは学校中の噂になっていて、なんなら意中の相手が同田貫だってことも1部の生徒は知っていて、御手杵はズドンと人生のどん底に落とされた気分になった。クラスやそこらから聞こえる「俺も狙われたらどうしよう……」という笑いの含まれた言葉や、「恰好いいから好きだったのに……」なんて自分勝手な女子のセリフがぐるぐる渦巻いて、吐きそうだった。御手杵の周りには以前はそれなりに人がいたのだけれど、今はもう誰も近づかなくなって、近づいてきても興味本位で、御手杵はもう死んでしまいたいと思った。そうして教室の隅で、無駄にデカい図体を小さくしていたら、違うクラスになっていた同田貫がやってきて、「おい、昼飯食うぞ」と、弁当を御手杵の目の前に出してきた。
体育館裏の、涼しいとこで弁当を咀嚼しながら、御手杵は砂を噛んでるみたいだ、と、思った。同田貫はなんでもない話題を転がしてきたけれど、御手杵はそれに「ああ」とか「うん」しか返せなくて、泡に消えた。なんとか弁当を食べ終わったあたりで、御手杵がやっと、「なんで……」と呟いた。学校中の噂だ。同田貫の耳に入らないわけがない。なんなら、意中の相手が同田貫だってことも、真っ先に知らせが入っただろう。それなのに、どうして。
「……なんでだよ。……なんで俺に近づくんだ……もう、……知ってるだろ……」
同田貫はまだ口をもごもごさせながら、左上を見て、それから、空があるあたりを見た。
「……知らねーよ、そんなの。まぁ、俺ら、親友だろ」
そのセリフで、御手杵は、ああ、自分は振られたんだなって、わかった。親友って言葉を持ち出されたら、もうどうしようもない。これから先一生、親友なんだ。それ以上にも、それ以下にもなれない、ただの、親友。
それから御手杵と同田貫は普通に卒業式を迎えた。お互い、志望の大学に受かったことを喜び合って、それから、距離が遠くなるなあなんて、寂しいことも言った。御手杵は東京の大学で、同田貫は岩手の大学だった。そうして2人は当たり前のように、住所を交換して、同田貫が「電話ひっぱったら、そこの住所に電話番号書いた手紙送れよな」と言った。当たり前のように。御手杵はそのメモが、なんだかとても重たくて、冷たくて、でもなんだかあったかくて、泣きながら、「うん」と言った。
御手杵は法学部で、同田貫は社会文化部に進学したのだけれど、2人は週に何回か、黒電話を耳にあてて電話をした。もっと最新のやつもあったけれど、中古で安かったし、なんだか懐かしかったから、御手杵はこれにした。聞いてみたら同田貫も貧乏で、黒電話にしたらしい。「別に使えりゃそれでいいだろ」と、きっと狭い6畳の部屋で言った。御手杵は都会なぶん、さらに狭い4畳半で風呂もない部屋で、へらへら笑いながら「そうだなあ」なんて、ありきたりなことを言った。2人の会話はほんとうになんでもなくって、レポートの締め切りがヤバいけどバイトがなあ、とか、こっちは人混みがすごくて嫌になる、とか、そういうありきたりなのばっかりだった。話題がなくったって、夜が混んできたら、電話をかけた。つながらなくても、電話をかけた。この日はバイトだったかなあなんて思いながらかけたら、案外繋がったりもしたし、レポートの締め切り明日だコラ死ね、なんてガチャ切りしたり、されたりすることもあった。この電話は、地味に燻っていた学生運動とか、経済とか、地震とか、そういう重要なとことはひどく遠いところにあって、恋愛とか、思慕とか、愛情とか、そういうところからも、かけはなれたところにあった。
それから1997年になったら、同田貫は大学を卒業して、東京の、それなりの企業に就職した。御手杵は同じ大学の同じ法学部の院生になった。そして、当時流行りだった携帯電話を、同田貫は就職祝いにと親に買ってもらい、御手杵も進学祝いに、と、親に買ってもらった。黒電話はもう部屋のオブジェになって、御手杵は少し、溜息をついた。御手杵の携帯電話には、登録順で同田貫が1番上にくるし、同田貫の携帯電話も、登録順で御手杵が1番上にくる。けれど、なんだか、この電話からかけたら同田貫のほんとうのところには着信しない気がして、御手杵は、同田貫からの電話を待つばかりになった。
それでも週に1回は電話をして、近況を報告したり、無駄な話をしたり、昔話をした。そんなことをしていたらいつの間にか2年が経とうとしていて、御手杵は1回も同田貫に電話をかけないまま、来年、司法試験を受けることになった。
丸くて白いボールだけ追いかけてた頃が1番幸せだったんじゃないかって、大人になってしまった御手杵は、何度も思う。多分あの頃が、人生の絶頂で、あとは転がり落ちていくだけなんじゃないかって、ずっと、それこそ1999年を超えた今でも、そう思うから。
1999年の7月31日に、御手杵ははじめて、自分から同田貫に電話をかけた。もしかしたら今日で世界が終わるかも、なんて、そんなことを考えたら、弾けて、ぐちゃぐちゃになって、踏まれて、それでもアスファルトに、あの球場の砂にこびりついている赤い実を掃除しておこうと思ったのだ。携帯電話も新しくなったけれど、登録順ではやっぱり同田貫が1番上にくる。同田貫も、多分そうだ。そうして、同田貫の仕事が終わっただろう時間帯に、携帯電話を耳にあてた。窓を開けていたから、夜の風と一緒に、暗い空気までなだれ込んでくるようだった。つながるまでの音がずっと続けばいいなあなんて思っていた矢先に、「はい同田貫」なんて、社会人くさい文句が耳に刺さった。御手杵はたくさん用意して、選んで、これにしようって思っていた言葉どもを全部投げ捨てて、泣きそうになりながら、「なあ、俺たちさ、ずっと親友だよな」と、言った。同田貫は電話口で、「あー……それさ、まだ引きずってた?」と返してきた。
「……わかんない」
『俺もさあ、わかんないんだよなあ』
「……今日で世界、終わるかもって思ったら、明日がないかもって思ったら、電話かけてた。わかんなかった。今もわかんない。なんで俺、いつまでもこんなんなんだろうなあ……」
『え?……あーあれか、ノストラ……なんとかの大予言。御手杵、あんなん信じてんのか?あと何時間で明日だっつー話だよ』
「……うん……」
『……あー……うん、あれだ、俺もさあ、わかんないんだよなあ。でも、あんたの、泣きそうな顔とか、泣いてる顔とか、あんま、見たくねえから、今晩、あんたん家、行っていいか?』
「……もう泣いてる……」
『だから行くんだって』
「……四畳半しかない」
『あのさあ、俺に会いたくねーの?』
「……会いたい」
御手杵は涙声で、また、「あいたい」と、繰り返した。そうしたら同田貫がため息もつかずに、「じゃあ、待ってろ」と言った。御手杵は泣きながら、うん、と頷いた。そんなの、言葉にしなきゃ、電話じゃ伝わりゃしないのに。でも、同田貫には伝わったんだって、わかった。そしたら余計泣けて、もう切れた携帯電話握りしめながら、わんわん泣いた。同田貫が「不用心だな、鍵かけとけよ」って、玄関から入ってくるまで、ずっと、泣いてた。
その後御手杵は司法試験に1回落ちて、2回目の合否を、東京で待っていた。そんな9月の、残暑が厳しい夏に、飛行機の雨が、アメリカに降り注いだ。御手杵はそのあたり結構忙しくて、なんなら今朝は徹夜明けで、事件が起こってから数日ののちの、明け方のニュースで「はー大変だなあ」なんて思いながらそれを見た。そうしたら別室から出てきた同田貫の「大変なんてもんじゃねーのに、あんたは何寝こけてんだ」というセリフに、「いや、寝てない」と返した。ここは2人の新居で、2人は同棲していた。御手杵が1回目の司法試験に落ちて、予備校に通うにしたってお金の工面がなあなんて同田貫に相談したら、「じゃあ俺と一緒に住めば?埼玉なら家賃低いし、予備校、埼玉からそんな遠くないんだろ」となんてことないように言ってきた。それもこれも、あの地球の滅亡がかかった日に、御手杵がどうしようもない顔で、どうしようもないはじめての告白をした時に起因している。
その日、地球が滅亡するかもしれない最後の日、2人は23時頃に顔を合わせて、同田貫は御手杵に「なんて顔してんだ」って、途中で買っただろう冷えたビールを差し出してきた。それから、「言い残すことあったら言っとけよ。あんたが言うとこの最後の日なんだから」と言った。狭い四畳半でふたりは暑いのにぎゅうぎゅうによっかかって、電気代節約で暗い部屋の、深夜テレビだけつけて、それをノイズにして、ひそひそ、話した。
「……ごめんなあ」
「何謝ってんだよ。あんた、なんか地球最後の日に謝るくらい悪いことしたのかよ」
「こんな風に生まれて、何年もあんたのこと騙して生きてた」
「そんなのはもう気にしてねーし、あんたはあんただし、別に騙してはねーだろ」
「……中学の時、オカズにしてた。高校でも」
「……マジかー……。それはちょっと……うーん、でもそれは人それぞれの自由だしなあ」
「なんなら一昨日も」
「地球最後の日の一昨日にオナれるんならあんたの神経相当図太てーよ」
「……今も結構ヤバい」
「……あのさあ、あのな?あんたさあ、ほんと順序とかわかってねーな。オカズ報告とかオナニー報告とか強姦予告の前に言うことあんじゃねーの?こっちはさあ、駒込の本社から山手線使って、さらには新宿なんて飲み会でしか使わない迷宮で使ったことねー中央線使ってまで会いに来てんだよ、このクソ狭い四畳半に!テメーは女か!?女はオナニー報告なんてしねーよなぁ!?」
「……うん、ごめん」
「だからさあ……」
「……好き」
「……うん」
「……ずっと前から、好き」
「うん」
テレビの時報が鳴って、地球最後の日が終わった。同田貫は「あ、ほら、今日から8月。大予言、大外れ」なんて、笑った。だから御手杵も、まだぐずぐず言いながら、ビール飲んで、へらへら笑った。
「まあなあ、俺は女が好きなんだけどさあ、今まで付き合ったやつなんていねーんだよなあ。あやしい店にも行かねーし……あ、キャバクラ接待は別な?だからさあ、女がどうなのかも、男がどうなのかももちろんわかんないんだけど、多分いや絶対男は恋愛対象として好きじゃないってのを、高校の時から、わかってたんだよ」
「……うん」
「でもさあ、あんたはなあ……振ったら、携帯電話から俺の名前削除するだろ?ていうかもはや縁切るレベルで避けるだろ?」
「……うん」
「それに、多分今力任せに既成事実作ろうとしたら作れるだろ?」
「……体格差的に」
「ムカつくとこ突いてくるな。いやまぁ俺も空手やってたからさあ、あんたくらい結構簡単にぶちのめせるんだけどさあ、でもあんた、俺が空手やってなくても襲わないだろ」
「……あとビール20本飲まなきゃな」
「んな飲んだら勃たねーだろ」
「……うん」
「で、一応俺も調べたんだけど、あんた、タチなの?ウケなの?まぁ俺を抱きたいか抱かれたいかによるんだけどさ……これ、自分で言っててアレだな……」
「……抱きたい」
「ふーん。ならまあ、どうにかなっかなー。いや、俺は男相手じゃ勃たないから、まぁウケしかできないと思ってたんだよ。いや、まぁその前に色々あるけど、……あんたなら、いいかなあって、さ、地球が滅亡しなかったら、言おうと思ってた」
「……ちゃんと言葉にして」
「あんたがそれ言うのかよ」
「……じゃないとわかんない」
「俺もあんたが、好きだ。……多分」
「……ビール1本分の既成事実作っていい?」
「……うん、多分」
テレビに映し出された同田貫の顔はうっすら青みがかっていて、それに自分のおんなじような顔を重ねて、ちょっとの間だけ、唇を合わせた。今時中学生でもしないようなキスだ。そうしたら御手杵はふと、「苦い」って言ってしまって、同田貫は「ビール飲んでるからなあ」って、2人して、久々に馬鹿笑いした。
そんなことがあったから、今がある。埼玉のそれなりの物件に、貧乏を口実にして野郎2人で住んでいる。片や仕事、片や勉強の毎日で、そんなに顔を合わせない月とかもあったけれど、普通だったらどっちかが先に帰ってて、おかえりって言って、どっちかがただいまって言う、なんてことない生活。今日も今日とて、同田貫は自分の分の朝食を作りながら、御手杵のぶんの朝食も用意していた。
「司法試験の合否発表いつだっけ」
「んー9月の半ばには出るんだけどなー」
「そしたら弁護士?」
「いや、弁護士になる前に1年間司法修習」
「いつまで学生やってんだよテメーは。早く社会に出て波に揉まれろよ」
「それ言われるともうなんも言えないんだけど……あ、昨日あんたで抜いたから」
「オーケー。今日の晩飯と洗濯当番あんたな」
「うん」
いつの間にか元号どころか世紀まで変わっていた。21世紀になって初めての大ニュースがこれかよ、と、御手杵は今後の世界を憂いた。いや、その前になんだか名前だけは聞いたことがる俳優の訃報が世間を賑わせた気がしなくはないが、同田貫に「なあ、今年に入ってから死んだ俳優の名前覚えてる?」と聞いたら「んなの何人死んだかもわかんねーよ」と返ってきた。それもそうだ。けれど自分たちはきっとそんな風にニュースに取り上げられることもなく死ぬんだろうなあって、御手杵はそう思った。それから、普通に首謀者とかその国の情勢からして、ああ、これ戦争起こすな、アメリカなら、と、冷静な分析もした。正義だ報復だ愛する人を失った人がなんだ言ってるけど、軍事国家は戦争がないと貧しくなるし、大統領も政権全体も支持率が欲しいだろうし、それには明確な敵がいないとなあ、でもベトナム戦争で痛い目見てる国でもあるよなあと、それにしたって何人殺した上に成り立ってんだこの世界、と、まじめなことを考えた矢先にふと同田貫が「……最近なんか俺オカズのオナニー頻度高くないか?」と言ってきた。御手杵の脳みそがピンクな方向に切り替わる。
「……いや、うん、妄想のネタが……」
「そんな妄想するくらいなら社会情勢でも勉強してろ。戦争はじまんだぞ」
「日本は永世中立国だろー?」
「それは……あーどこだっけ。あ、スイスだ。日本は平和主義国家なだけ」
「まぁ、平和主義っても、簡単に言うと憲法に戦争しません、って書いてあるだけなんだけどなー。その憲法も第二次世界大戦後にGHQが作ったやつだからほぼアメリカの作った憲法で、なんで日本が永世中立国になれないってーと……」
「その話長い?」
「……あー俺もこの先はよくわかんない」
「じゃあ朝飯食って、寝ろ」
「うん、ありがと」
同田貫は「なんでこんなバカがあの大学の院卒なんだ」とぶちぶち言いながら焦げた目玉焼きをつついている。それだけで御手杵は「あー平和だなー」なんて考えて、これから戦争が始まる世界の中でも、この部屋だけはすっぽり平和なんだって思った。でもアメリカが戦争はじめちゃったら、冷戦は終わったけど、まぁ日本に飛び火する確率もゼロじゃないよなあ、まあ、相手はアメリカの飼い犬にしたってこんな極東の国に空襲しかけるわけないし、協力する国なんてないだろうし、あ、いやフランスとかロシアは武器輸出してるよな、それに石油輸出国だしなあ、でも表立って協力はしないだろ、まぁ根性で犠牲は増やすだろうけど、なんて、少し残酷なことを思った。それから、じゃあこの部屋が平和じゃなくなる確率もゼロじゃないよな、と、思って、御手杵は同田貫に「なぁ、明日休みだったよな?で、今日仕事早く終わりそう?」と尋ねた。そうしたら同田貫は「あーまぁ、この時期は仕事ねーからなー」とあくびをした。そうして御手杵の前で普通にスーツに着替え、ネクタイを締める。御手杵はああ、そのネクタイ、色々使えるよなあなんて考えながら、その背中に言ってやったのだ。
「じゃあ、20本、ビール買ってきて」
END