こちらエスカレーターの存在しない世界でございます




家賃が安いだけが取り柄のアパートと、賃金が安いだけで人間を酷使するばっかりの会社とを行ったり来たりする生活が、同田貫はとてもとてもつまらなかった。このあたりは毎日どこかで人が死んでいるか殴られているか、ものが盗まれているか、なにかしらの事件が起こっていたけれど、不思議なくらい同田貫にはそれらが降り注がなかった。繁華街の路地裏でヤクザかチンピラか、まぁどちらでも同田貫にはどうでもよかったのだけれど、その喧嘩か、薬の売買の現場を見ることはあったが、なにもかもが他人事で、それは本当に一切、同田貫とは関わりがなかった。だから同田貫は機械のように、家に帰って、コンビニで買った適当な夕飯を食べて、風呂に入って、眠り、朝起きて身支度をして、会社へ向かう。それは無限ループのように同田貫を浸食し、いつしか同田貫は休みの日に何をしていいかわからなくなった。そんな時期の話だ。
同田貫のアパートは、安いくせにエレベータはついている。五階まであるので、きっと引っ越し業者が使うのだろう、だからそれは人が一人で乗るにはかなり広かった。その日の夜、同田貫はエレベータのボタンを押して、ああ、またこの空虚ばかりが幅を利かせる箱に閉じ込められなければならないのか、と、それが一階に降りてくるのを、エレベータと同じくらいの広さしかないエントランスで待っていた。そうしてその空虚は落ちてきて、同田貫の前に薄暗い影を落とす。同田貫はその暗い中の、やけに光る「閉じる」のボタンを押そうとした。けれど、長身の影がエントランスに入ってくるのが視えたので、同田貫は律儀に「開く」のボタンを押した。これはもう会社で沁みついたクセだ。だから同田貫は、その男が様相を表して、血濡れのネイルハンマーを片手にして、頬にあびた血飛沫を拭っている、やたら上背があって、やたら顔のうつくしい男とわかっても、その男がエレベータに乗ってきても、「何階ですか」と、さも当然のように訊いた。これは脳みそにプログラムされている言葉だった。
「……三階。ありがと」
「いえ」
同田貫は四階だったので、三のボタンを押してから、自分の四のボタンを押し、やっと、「閉じる」のボタンを押した。それから、そういえば、会社には、こんなかんばせをした男なんて、いなかったな、と、先に降りるからか、広いエレベータでボタンの前に立っていた同田貫のわざわざ横に立った男の、その暴力的なまでにうつくしい横顔を、ゆったりと視た。眼が蕩けるほど、瞼がゆったりと落ちるほど、うつくしかった。ただ、うつくしかった。鈍い紅がかすかに残るその横顔に、ひどく、ぞっとした。怖いと思うべきところを、なにか違う感情で蓋がされて、不思議と、それに類似したり、追従する感情は、わからなかった。男は目線に気が付いて、「……今まで会わなかったの、変だね」なんて、そのうつくしいまんまの顔で、そこにするりと笑顔をかぶせて、言った。同田貫はつられて、「そうだな」と返した。会話はそこでぷつんと落ちて、三階にたどり着いた。男は当然のようにそこから降りて、「じゃあね」なんて、生臭い人間の血と、かすかな香水の香る背中で言うから、同田貫はそのなんとも言えない空気だけ、すっと胸の奥に仕舞って、静かに、静かに、気が付かれないように、「閉じる」のボタンから、指を離した。
そして、翌日は休日だったのだけれど、ぼんやりとクセのように身支度をしていたら、ドアベルが鳴った。出てみると、すぐに警察とわかる服装をした二人組で、やっぱりすぐに「県警のものですが」と名乗った。その男どもは、このアパートの203号室と、305号室で殺人事件があったと、同田貫に説明をした。同田貫は「はあ、そうですか」と返して、それから、なにか、そこになにか、あの男の、あのうつくしい男の香水の匂いが残っているんじゃないかって、少し思った。ほんとうに、すこし。すぐ下の階だったが、なにもかもが他人事で、けれど、それはひとりの男で繋がっていて、それが不思議だった。警察が「なにか知りませんか。物音がしたとか、声が聞こえたとか」なんていうものだから、同田貫は反射的にすとんと脳みそのブレーカーを落として、「いえ、何も」と答えた。同田貫にとって、あの男はただただ、きれいなだけの、少し生臭い、そして甘いような、すっとするような、香水の香る、ただの、うつくしい男だ。それで、警察は念を押すように、「本当に何もご存知ないと」と尋ねてきたので、同田貫は僅かな、不思議な願望を押し込めて、「ええ、なんにも」と答えた。問答は、それぎりだった。
その事件から一ヵ月と経たないうちに、警察は他の捜査に忙しいのか、別の場所で証拠か何か見つかったのか、このアパートからは引き上げていった。同田貫もまた、機械に戻り、エレベータの「開く」ボタンだけを、押していた。不思議と、「閉じる」ボタンは押さなかった。その数十秒の間、同田貫は少しだけ、あの香りを、血腥さと一緒に、思い出す。
そうして、その日も同田貫がエントランスでエレベータの「開く」ボタンを押して、空虚に閉じ込められようとしたときに、やたら上背のある影が見えたので、同田貫は「開く」のボタンを、長押しした。その男の顔はやはりうつくしくて、今回は甘いけれど、どこか深い深いものを抱えているような香水の匂いをさせていた。そして誰でも着ていそうな上着に、誰でも着ていそうなジーンズで、ネイルハンマーの代わりに、片手にはシンプルな長財布を持っていた。その男はやはりうつくしく笑って、「ありがと」と言いながら、エレベータに入ってきた。それから、「ねぇ」と声をかけてきた。
「このアパート、二件も殺人があったけど、怖くないわけ」
同田貫は別段、何も思っていなかったことなので、すこし首を傾げて、「まぁ、他人事だから」なんて、曖昧な返事をした。それからその男は、同田貫が見たこともないような、ぞっとするほど、いいようの無いかおで、その笑顔で、「なんにも言わなかったんだ」と、現実と非現実を結び付けた。同田貫はその男の香水の匂いを吸って、ああ、これが非現実の匂いなんだ、と、思った。そうして、「知らないものは、まぁ、言えないからなあ」と、その日のことを、このうつくしいだけの男を思い出しながら、言った。
「あんた、変わってる。……死にたいの?」
やぶからぼうに転がされた質問に、同田貫は少し考えなければならなかった。自分が機械になっていく感覚と、この非現実的な匂いと、安いだけが取り柄のアパートと、安い賃金と、銀行の残高と、治安が悪いこの街を、一瞬で思い描いて、少し笑った。
「ああ、いや、どうだか……このまま生きるのも面倒だなあ。かといって、自分から死ににいくのも、面倒なだけ……ああ、うん、それくらい」
同田貫がそう言った時に、チン、と安い音がして、三階にエレベータが止まった。そうしたら、すうっと長い腕が、背後から伸びてきて、長らく押されることのなかった、「閉じる」のボタンを押した。男はいつの間にか同田貫の後ろに立っていて、その高い背を曲げて、同田貫の耳に、甘く、吐息を吹き込むように、それこそ、睦言でも言うかのように、「じゃあ、俺が殺してあげよっか」と、言った。同田貫は、その声に脳みそが浸食されて、その甘やかさにほだされて、ぐらりとよろめき、男の胸に、背を当てた。甘い香水に紛れて、かすかに、血の匂いがした。同田貫にしか、わからない、そんな香り。
男は四階の同田貫の部屋に上がり込むと、質素で物が少ないそこを見渡し、「……綺麗にしてる」と言って、それから、「俺、御手杵っていう。あんたは」と聞いてきた。同田貫はただ、「同田貫……正国」と答えた。うつくしい男、もとい、御手杵は同田貫の狭い部屋のベッドに座り込んで、今晩の晩飯は何にしようかみたいなノリで、「一瞬でいけるのと、くるしみながらいけるの、どっちがいい?」と聞いてきた。同田貫は少し考えてから「くるしい方」と答えた。御手杵はちょっと意外そうな貌になって、「どうして」と聞いてきた。
「あんたのかお、きれいだから、長いことくるしみながら、ながめてたい」
「……ふうん……」
「ああ、ロープとか、ないな。包丁くらいならあるか。長いこと使ってないから、切れるかどうかわかんね。ハンマーとか、工具はないな。あんたいつもどうしてんだ」
「ケースバイケース。まあ、片手あれば、人間なんて、簡単に殺せるんだ。ほんとうに簡単なんだ」
御手杵はそう言って、包丁を取り出してきた同田貫の首に、すうっと、指からゆっくり、てのひらを這わせた。同田貫はそれだけですっと苦しくなって、そうするように、そうなるように組み込まれているように、首をのけ反らせた。御手杵は同田貫の喉仏のかたちを確かめるように撫でて、「これだけだと、気持ちいい。なのに、力いれると苦しいの、なんでなんだろうって、たまに考える。俺は、されたことないんだけどさ。こうやって、両手で、首を絞めると、みんな、俺の手の甲に爪を立てて、苦しいような顔になって、よだれ、だらだら垂らして、なんならおしっこ漏らして、冷たくなってく。不思議なんだ、それが」と、言いながら、同田貫の首に両手をかけ、それに少しばっかり、力を入れた。同田貫は恍惚とするように眼を細め、小さく、「あ」と声を漏らした。きっと、普通なら声が詰まって、「ん」とか「う」とかになるのに、同田貫は、「あ」と、まるで処女のように、ほんとうに驚いたのでもなく、そうなるとわかっていたけれど少し動揺したように、そんな風に、声を漏らした。御手杵は変なかおになって、それは少し獣に似ていて、「どうせ死ぬんだ、ねえ、あんたのこと、あんた殺す前に抱いてもいい?」と尋ねてきた。尋ねるでもなくそうできたのに、尋ねてきた。それくらい、同田貫は一切の抵抗をする気がなかった。
「べつに、好きにしてくれ。でも、あんた、ゲイなわけ。俺、男だけど」
「……あんたが今ここでホモって言ってたら、すぐに殺してたかも。俺、その単語だけ、なんでか嫌いなんだ。三階のやつは、それで殺したんだっけ。もう顔も思い出せないけど。名前なんて、知らなかったけど。……うん……どうだろう、興味がないんだと思う。男だとか、女だとか、そういうことに。誰かとか、誰がとか、個人が特定できないって、そういうのと、おんなじくらい」
「まぁ、なら、男、抱いたこと、あんだ」
「あるよ。安心しなよ。全員殺したから」
「俺は抱かれたことねぇからなあ」
「いいよ、そんなやつ、いっぱいいた」
「そうか。ならいいけど、シャワーとか、浴びるもんなのか」
「……あんた、童貞?」
「そうなるな」
「好きな人とか、いないわけ。まあ、未練くらい残すような」
「……そうさなあ……ああ、うん、強いて言えば……あんたが好きだな」
「……ふうん、俺は、別に、なんとも思ってないけどね」
「ああ、別に、どうだっていいんだ、そんなのは」
会話の間に、同田貫のネクタイは抜かれ、上着は脱がされ、首から、胸のところまで、御手杵のゆびが入り込んで、すぐに、同田貫をベッドの上に、引き入れた。包丁は行き場をなくして、そこらの床に、不自然に転がった。二人の恰好の方が不自然なのに、同田貫は自分の部屋の床に包丁が転がっていることの方を、不自然に思った。
ベッドに倒されながら、同田貫は、ただ、いつ洗ったか忘れたシーツの香りに、御手杵の香水か、御手杵そのものの香りなのか、とにかく、御手杵の匂いが混ざるのが、不思議で、非現実的で、けれど、とても、リアルに感じた。御手杵の手は、指は、みかんの皮を剥くようにたやすく同田貫の衣服をいでいって、それとおんなじくらいのスピードで、つまりゆるゆると、御手杵の衣服もいでいった。同田貫はそれをなんとなく助けようと、御手杵のベルトに指をかけたけれど、その指を御手杵が掬って、唇をつけてから、「なあんにも、しなくていいよ」と、言った。だから同田貫はまどろむように、枕に頭をのせて、手はどこぞ邪魔にならないところに投げて、されるように、されていった。御手杵は、首や胸や、脇腹に手を這わせながら、唇や舌を這わせながら、静かに、「ずっと殴って殺そうかなあ」「首を絞めたら、あんた、どんな顔になるんだろう」「切れない包丁で、急所を避けて、ずたずたにしたら、あんた、どんな声出すかな」「水に頭突っ込んで、何回もそうして、息継ぎさせて、また息ができるって思った瞬間に、ぐっと頭押すの、好きなんだよなあ」と、こんなシチュエーションには向かない、ひどく物騒で、けれど日常で使われる「こんにちは」だとか「いつもお世話になっております」という言葉どもと同じトーンで、そんなことを呟いた。そのたびに、同田貫はそうされる自分を想像して、御手杵の手のひらの硬さとやわらかさと、舌の熱に、じわりじわりと、息の温度を上げて、声をこぼして、だんだんと、自分が興奮、というより、熱狂してゆくのを、自覚した。ここは非現実の世界で、退屈と一番遠いところにあって、そうして、幸福ともずっと遠いところにあるんだと、バラバラなことを、思ったか、思ってないか、わからないくらい、身体をかき混ぜられ、脳をゆさぶられ、言葉を取り上げられていった。
そうして、お互い裸になって、肌を合わせてみてはじめて、お互いの輪郭がわかった。退屈の皮を脱いだほんとうのかたちがそこにあって、それには御手杵の方も、驚いたようだった。だからなのか、なんなのか、御手杵は同田貫の口に舌を差し入れながら、同田貫の首を少し、締めた。そうしたら同田貫の舌が自然と出てきて、御手杵の口の中の味を知った。苦しいのに、おかしいくらい気持ちがよくって、同田貫はやっと眼を開けて、甘く瞼を持ち上げて、だらしない声を出した。それを吸い取ってから、御手杵は手から力を抜いて、「なんか、へん」と言った。同田貫も、じっさい、そう思った。
それからなんとなくの愛撫をして、御手杵の薄い唇が同田貫の不自然に腫れたそれにキスをして、うつくしい歯並びの中に吸い込んで、同田貫はえもいわれぬ感覚に、「あ、あ……」と、知らない声を出した。そうしたら御手杵に、「男にフェラされてんのに、きもちいんだ。気持ち悪い」と、不思議な声音で言われて、「あ、あ、……はは、そう、だな」なんて、薄くわらった。そうしたら御手杵がむっとしたように、ひどく気持ちよくしたので、同田貫は身体が驚くほど弛緩して、すぐに、ぎゅっとそれらを強張らせた。そうして吐き出された白いのを、御手杵は「はは、不味い」と言いながら、べっと手のひらに吐き出した。同田貫はそれを見て、その自分の身体から排泄されたものも、御手杵のてのひらの上では、うつくしく見えて、不思議だった。上がった息が、戻らない。もっとずっと、苦しくして欲しかった。息をしすぎて、息ができないようにしてほしかった。
御手杵の指が、後ろに差し込まれて、捻じ込まれて、痛いのに、ひどく熱狂した。御手杵はなんにも気持ちいいことなんてしてくれていないのに、それがどうしてか心地よくて、やっぱり御手杵に、「あんた、へんだ」と言われた。御手杵は御手杵のためだけにそうしているのに、その御手杵のかたちに、しぐさに、同田貫のかたちがぴったりとあてはまってしまって、扉の鍵のように、それはそうで、結局、御手杵はドアの鍵穴に鍵を差し込むように、同田貫のなかに、自分のそれを差し込んだ。そこからはがちゃがちゃ、合わない鍵を鳴らすような仕草じゃなくって、すうっと開いてしまう扉を、開かないように、開かないように、丁寧に調節するように、それを動かした。
ゆっくり、じっくり、そうするものだから、御手杵の額から汗が伝って、頬をなだらかに滑り、顎から落ちて、自然、同田貫に降りかかった。ぴとん、とそれが、ゆさぶられる身体のどこかに落ちるたび、同田貫は自分の何かが、ひとつずつ、ひとつずつ、死んでゆくのがわかった。ゆっくり、ゆっくり、死んでゆくのがわかった。そうして、御手杵のそれが終わって、胎のナカがぬるくなったとき、全部が全部死んだのに、全部が全部満たされて、同田貫はあたたかい吐息を、御手杵の同じようなそれと、重ねた。
「……あんた、へん」
「……どこが。へんに死にたがらないくせに死にたがりなとこか?」
「……俺さ、殺したいって思うこと、沢山あんだ。そして、すぐ殺すんだ」
「……へぇ」
「でも、誰かに殺されたいって思ったの、はじめてだ」
「……なんで、」
「わかんね」
そうして御手杵は、突っ張っていた腕を緩めて、同田貫をゆったり、抱きしめ、「すき」って言うみたいに、「俺のこと、殺して」って、言った。
「……俺はあんたに殺される気でいて、あんたに、殺されたいのに」
「でも俺もあんたに殺されたい。……不思議なんだ。殺そうって思って殺すのは簡単で、誰にだって簡単に、本当に簡単にできるのに、誰かに殺されたいって思って殺されるのは、難しいんだなあ」
同田貫は自分の叶わなかった願いのようなものを静かに呑み込んで、「そうだなあ」と言って、御手杵の背中に、手を這わせた。そうして広い広い背中に、ひどく寂しいような、あのエレベータくらいの広さをした背中に、静かに、静かに、ひとすじの赤い線をひいた。
「……殺して」
「いいよ。でも、殺して」
「……いいよ」
それが告白で、それぞれの想いで、血腥くて、愛も溶けて腐るような、そんな、簡単で、むつかしい、言葉だった。ただそれだけがふたりを繋いで、切り離して、ひとつにした。同田貫にとってただただうつくしかったかおが、いつの間にか御手杵のかおになったように、御手杵にとって大衆のうちの誰かもわからない誰かだった男が同田貫正国個人と特定されて、それがふたりの輪郭になって、それをふたりでなぞりあって、少しだけわらった。ここがきっと、エレベータだ。最上階まで続く、なんのボタンもない、エレベータ。

END


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