ヨアケインザウォーター
※現パロおてたぬ
俺って結局、何者にもなれないまんま大人になって、そうして、ちっぽけな命を終えるんじゃないかって、大学三年の就活の時期になってから、思い始めた。岩手のちっぽけな公立大学で、俺と御手杵は出会って、あくせくレポートを提出して、課題をやって、それから遊んで、サークル活動をして、それなりに充実した大学生活を送ってきた。でも、なんだかとても不安だった。練習用のエントリーシートを書き連ねるうち、俺って今まで何してたんだろうって気持ちが強くなって、約20年間を無為に過ごしてきたような気分になって、ダメだった。学科の専門とは全然関係ない企業にもエントリーして、とにかく数を稼いで、自分が何になりたいのかもわからないで、ただ暗闇の中でみんなとおんなじことをしてちょっとだけ安心してるって、そういう感覚。一緒にエントリーシート書こうぜって御手杵の家で二人して使い慣れないボールペンを走らせていたときに「俺たちってなにになるんだろうな」ってぽろり、言ったら、御手杵も「多分なんにもなれない気がする」って言ったから、おんなじなんだなって、わかった。そうして、俺たちのボールペンは、ローテーブルに転がるだけの役立たずになった。時刻は零時で、俺は今日、御手杵の家に泊まるつもりでいた。
「なあ、どっか行かない?」
言い出したのは、御手杵だった。明日は土曜日で、授業もない。飲みにでも行くのだろうか。しかし金曜日の居酒屋は混んでいて注文が遅いし、ガヤガヤうるさいことこの上ないし、御手杵の家から大通りまではバスか車を使わなければキツイものがある。この時間、バスは終わっているし、御手杵は車を持っていたけれど、代行は高くつく。
「居酒屋とかは無理だろ、もう」
「いや、そういうんじゃなくってさ。……あ、海行こう、海」
「は?」
「俺、茨城出身だって言ったじゃん。それでさ、ちっちゃい頃に一回だけ大洗の海水浴場行ったことあんだよね。国道使って車で。広い砂浜でさ、夏だったから足の裏火傷すんじゃないかってくらい砂が熱くて、でもそんなに人いなくて、水はびっくりするくらい冷たくて、気持ちよかった。なんも考えなくても楽しかった。そういうとこに行きたい」
「今、冬だぜ?なんなら雨降りだしたっぽいし、茨城までなんて無理だって」
俺はカーテンの向こうの小さな音に気付いて、そう付け足した。それにここは岩手だ。なんなら滝沢市だ。茨城までどれくらいかかると思っている。
「別に茨城まで行こうとかそんなレベルの話じゃないんだって。同田貫は岩手出身だろ?沿岸だったろ?だからそこらの海に行こうって話」
「……俺のほんとの出身は熊本で、高校の時に親の転勤で岩手の高田に住んでただけなんだけど。海とかあのへんはなんつーか、砂浜っていうより砂利っていうか、磯だし」
「そのへんに砂浜とかないかなー」
御手杵はそう言うと、スマホでぱっぱっと検索をかけはじめる。御手杵はいつもこうだ。何かを思いつくとすぐに実行にうつす。そういうの、エントリーシートに書けるんだろうな。長所のところで。俺もどっかそういうとこあるにしろ。けど今日はなんだかテンションがダメだ。
「あ、ここいいんじゃねーの。砂浜だ。えーと、三陸町の綾里海岸」
「三陸町?どこだ?あー合併とかで岩手の地理ぜんぜんわかんねーんだよな」
「高田のすぐ南なんだけど」
「大船渡じゃん。そんなピンポイントで町名出されてもわかんねーよ。大船渡なら行ったことある」
「うん、じゃあ、行こうか」
御手杵はそう言うと、まるでコンビニへ行くみたいに支度をはじめた。財布とスマホだけ持って、モッズコートを着て、マフラーを巻いた。すぐ車に乗るから、手袋はポケットに突っ込んでいる。俺は「もう一人で行けよ」なんて薄情なことは言えなくって、仕方なしにダッフルコートを着た。やっぱり、持ち物は財布とスマホだけ。ほんとうに、コンビニに行くだけみたいだ。
御手杵の車は黒に不思議な青を落とした色のセダンだった。車種はカローラフィールダーだったか、学生のくせにハイブリッドでしかも軽自動車だとかコンパクトカーだとかそういうんじゃない、乗用車。親が大学の入学祝いで買ってくれたとか言っていたが、大学祝いで二百万以上出す親がいるってどんなボンボンだよ。御手杵の車は禁煙だったので、アパートを出る前に台所の換気扇の下でラッキーストライクを一本吸った。俺もセブンスターを一本、吸った。こんな10ミリ越えの重い煙草も、いったいいつまで吸ってられるんだろう。家を出る頃には零時半を過ぎていて、昼間すこし寝たにせよ、これから夜道の、それも雨天での運転なんて大丈夫なんだろうか、と、俺は思った。
御手杵の車はいつも綺麗に片付いている。余計なものが一切ない。何かにカバーをかけるとか、飾り立てるとか、そういうのが嫌いらしかった。だから御手杵のスマホはいつもなんのカバーもされていない。落とした時のこととか、考えられないんだろうか。俺は助手席に乗ってシートベルトを締める。嫌味なくらい座り心地がいいシートだ。それから、御手杵は運転もうまい。バック駐車も女が惚れるくらいにはすとんとこなすし、御手杵の運転で酔った経験はないし、スピードもそう出さない。理想的な安全運転だ。俺はナビ役だったので、スマホでルートを検索する。まず県道233号線に入って、そこから東北自動車道に乗る。そして宮守インターチェンジで降りて、そっから下道をナビしなければならない。そう言ってもスマホが勝手にしゃべってくれるので、俺は別段の苦労をしないだろう。
車を発進させてから、御手杵が「あ、同田貫、俺のiPod車につないで、運転用のプレイリスト流して」と言ってきた。俺は言われた通り、御手杵のiPodをいじって、そのプレイリストを流した。ロックの解除コードも、もうずっと前に暗記した。シャッフルで一番初めの曲は、俺たちが高校の頃にヒットしてたバンドの曲だった。もう解散して、ボーカルは新しいバンドを組んだらしいけれど、他のメンバーはどうなったかわからない。俺も結構好きなバンドだったので、少し黙って、その曲に耳を傾けた。そうしているうちに最初の交差点で、御手杵が「そういえばさあ」と、なんでもないように、口を開いた。雨の交差点って、事故が多そうだなぁとか考えていた俺は少し返事が遅れた。
「俺の親って、実はそれなりの企業の社長なんだよね」
「……ん?……ああ、みんなそうなんじゃねーかって話してたな。ほんとだったのか」
「うん。それで、俺、今普通に就活してっけど、十年かそこらしたら結局最後は親の会社継ぐんだよ。最初は社会経験つんで、そのあとに親の会社に入って、実務経験積むんだって。べつに、継ぎたくないんだけど、俺一人っ子だし」
「ふうん」
「同田貫はさ、そういう、なんかどうしようもないことってある?」
「……あー……うーん……これまでの人生?俺は逆にそういうバックボーンみたいなのがないから、空っぽだなって」
「俺だって空っぽだよ。エントリーシートに書くことなんもねーもん。最終地点がわかってて、そこまでエスカレーターだから、なんか、他の事知らないっていうか」
「そういうもんか」
「……うん。それでさあ、話変わるんだけど、こないだ合コンでやった面白いゲームあんの」
「お前よく人数合わせに呼ばれるよな」
「うん。みんなぶっちゃけ俺の性癖知ってるのにな」
「あ、そういえばそうだっけ」
御手杵の性癖っていうのは、サディストだとかマゾヒストだとかそういうとこでなくって、恋愛対象が男だって、そういう話だ。LGBTについては大学でも特別講義があったし、俺はそう偏見がない方というか、興味がない方だったので、そういえばそうだったくらいにしか覚えてない。俺に女の好みがあるように、御手杵にも女の好みがあって、俺に女友達がいるような感覚で、御手杵にも男友達がいる。サークル内の頭も顔も悪い男は御手杵を気持ち悪がったりしたし、女はがっかりしたか嘘かだと思ったらしかったが、俺はそういう話題にはのらなかったなぁと思い出した。
「まぁ俺がゲイだってことはおいといてさ、その合コンでやったのが『もしかしたらゲーム』って言うんだけど、同田貫、知ってる?」
「あー……知らない」
「えーっと、このゲームの前提に、『もしかしたら』で語れる話は今そうじゃなくても確率がゼロじゃないんだって。人間の想いってそれだけでパワーを持ってて、さらにそれを言葉にすると本当にそうなりやすくなるんだって話があってさ。だから『もしかしたらゲーム』っていうのは、ありえねー!みたいな『もしかしたら』をどんどん言ってくゲームなの」
「ふうん」
「ちなみに、その合コンで俺のかけもちサークルの部長はもしかしたら……えっと名前忘れたわ。まあとにかく『もしかしたら目当ての子と付き合えるかもしれない』とか言って、結局目当ての子と少なくとも一晩はメイクラブできたんだよなー。案外、そういうもんなのかもって」
「で?男二人でそのゲーム?」
「……うん。眠くなっちゃうから。でもまぁ、じっさいそう思いつくもんでもないし、交差点ごとにしよう。かわりばんこに、もしかしたらって夢みたいな、こうなって欲しいなってこと、言う」
「まぁいいけど」
「あ、交差点。信号青だけど。どっちから?言いだしっぺの法則?」
「たのむ」
「じゃあ、……『もしかしたら、俺は親の会社を継がなくていいかもしれない』」
俺は御手杵がそう言った瞬間に、ああ、そういうこと、と、このゲームと、小旅行の趣旨を理解した。そのうちに流れる曲が切り替わる。俺の知らないバンドの曲だった。なんかのCMか、ドラマの主題歌だったかもしれない。聞き覚えはあるけれど、タイトルまではわからない。それがなんのCMだったか、なんのドラマだったかって考えて、結局御手杵に聞こうとしたら、雨をはじくワイパーがかき消すことのできない赤信号が見えた。交差点だ。カローラフィールダーがゆったりと停車する。
「同田貫の番」
「ええと……『もしかしたら俺は……こういう時面白い夢みたいなのを語れる人間になるかもしれない』」
「同田貫、冗談とか夢語るとかそういうの苦手だもんなあ」
「ああ、そうなんだよな」
俺がそう返事をしたら、信号は青に変わって、カローラフィールダーはまた動き出した。そこから自動車道にのるまで、もしかしたらの話はどんどんふくれていった。『もしかしたら大手企業から内定が簡単にとれるかもしれない』だとか『もしかしたら明日には恋人ができてるかもしれない』だとか『もしかしたら将来日本に欠かせない人材になってるかもしれない』だとか『もしかしたら俺と御手杵が付き合うかもしれない』なんて、そんな話。最後のもしかしたら話を俺が言った瞬間、車のスピードが一瞬だけ早くなった。ワイパーはそれなりの速さで動いていて、それと同じくらいのスピードで、俺の心臓も動きはじめた。
「あ、悪い、なんつーか、なんか、その、思いつかなくなって」
「いや、いいんだけどさ、それ、ほんとになっちゃったら困るの同田貫だろ」
「どうなんだろ。困るかな。実際、そうなってみねーと、わかんねーだろうし」
「だって同田貫ストレートだし……あ、もう高速か」
「ストレートって何?」
「んー普通に女の子が好きってこと。ノンケと同じ意味」
「ああ、なるほど。でも俺、女と付き合ったことねーし。いや、好きなのは女だけど。……高速入ったら信号ないな」
「……うん」
車のスピードがぐんと上がって、道路がずっとまっすぐになった。目的地まで、あとだいたい2時間だ。俺はどうして自分がそんなことを言いだしたのか考えなければならなかった。だから黙ったら、御手杵も黙って、車内には御手杵の選んだ曲が流れるばかりになる。今はちょっとマイナーなバンドの、アップテンポなラブソングが流れていた。それがなんだかちぐはぐで、すこしばかり、こわかった。
そんな思考の中で、人生って、案外交差点ばっかりの、一本道じゃないもんなんじゃないかって、そう思った。でも間違いのないように交差点を選んでいったら、それは結局一本道で、そうしたらそこからは高速道路みたいに、もうどこで降りるか、みたいな。結婚のパートナー選びは助手席に誰を置くかで、子供は後部座席に乗せてあげて、ある程度になったら自分の車を与えてあげる。最初はおもちゃの車で、次は三輪車で、その次は補助輪つきの自転車で、みたいな。そう考えると少しだけ、楽しくて、虚しい。俺たちは歩くことだってもちろんできるのに、便利で早いからって、自動車を選ぶ。そういう手段でしかないものが、いつか目的になって、俺たちは何者にもなれないまんま、まっすぐに思える高速道路を突っ走ることしか、しなくなってしまうんじゃなかろうか。
「なぁ御手杵」
「……ん、何?」
「高速降りたらの話、交差点で、またゲーム再開な」
「わかった」
「でも、順番、俺からにして」
「……いいけど、なんか面白いの、思いついた?」
「面白くないけど、もしかしたらそうなったら面白いんじゃないかってのは、思いついた」
それから俺たちはまっすぐに思える高速を、結構なスピードで駆け抜けた。雨だったし、そこまでのスピードは出ていないのだろうけれど、俺にはすごい速度に思えた。そうして、宮守インターチェンジで高速を降りて、国道107号線に入った。そうして、青信号の交差点を迎える。俺はぼんやりと、センチメンタルな気分で、「『もしかしたら』……」と口にした。
「もしかしたら、俺と御手杵が、結婚するかもしれない」
隣から小さく、悲鳴みたいな調子で、「えっ」と、声がした。俺は前を見ていたから、御手杵の表情は見えなかった。御手杵も前を見なければいけないだろうから、俺の顔は見えないだろう。自分でも、自分が今どんな顔をしているか、わからなかった。興味本位だとか、そういう世界を知ってみたいとか、マイノリティステータスとか、そういうことで言ったんじゃ、なかった。ただ、なんていうか、もしかしたらってのを突き詰めていって、そうしたらそこに御手杵がいたらいいなって、御手杵の運転する車の助手席にずっといられたら、それって幸福かもしれないなって、なにかになれるんじゃないかって、そんな気がしたんだ。
そうしたら、交差点を待たずして、御手杵が、「もしかしたら、同田貫は俺をからかってるかもしれない」とぼそぼそ、呟いた。俺はまた少し考えてから、「もしかしたら、俺は御手杵の好みじゃなくって、幻滅されたかもしれない」と言った。
「もしかしたらそんなことはなくって、むしろ俺は同田貫がずっと好きで、でも友達じゃない関係を持ち出すのが怖くって、怯えてたかもしれない。……もしかしたら、これは夢かもしれない」
「もしかしたら俺たちはもう友達に戻れないかもしれない」
「……もしかしたら同田貫は俺の事気持ち悪いって、思うかもしれない」
「……なんで?」
「だって男同士だぜ」
「べつに、俺、そういうの気にしたことない。すげー薄情かもだけど、お前がどんな性癖だろうと、どうでもいいって思ってた。俺に女の好みがあるのと同じで、お前にも男の好みがあるだろうし、俺に女友達がいるのと同じ感覚で、お前に男友達がいるんだろ」
「……うん」
「俺、お前のこと結構好きだぜ。なんか、触ってみたいし、触ってほしいし、こうやってずっと、車の助手席に乗せておいてほしい」
「まって、まって、ちょっと動揺がやばくて運転できない。ちょっと止める」
「交差点前だぞ?」
「この時間、誰も走ってないから大丈夫」
そう言うと、御手杵は黄色く点滅している信号のすぐ前で、車を道路脇に止めた。そうしてハンドルに突っ伏して、「なんで急にそんなこと言うわけ」と、こもった声を出した。
「なんか急にそう思えてきた」
「……錯覚だよ」
「もしかしたら錯覚じゃないかもしれない」
「……じゃあたしかめる?」
「どうやって?」
「……1回キス、したら、だいたい、わかる」
「いいぜ」
俺が御手杵の方に「ん」と顔を向けると、御手杵は「目、閉じろよ」と念を押した。そういえば、俺はこれ、ファーストキスだ。御手杵は何回目のキスなんだろう。あ、リップクリームも何も塗ってないから唇かさかさだ。少し舐めといた方がマシだろうか。俺がそう少し口を開けたときに、御手杵のおんなじようにかさついた唇が重なった。あ、こいつ怯えてやがる、と、一瞬でわかるキスだった。ちょっとだけ触れて、それで離れようとしたので、俺はシートベルトに抗いながら腕を伸ばし、御手杵の襟を掴んで、ちゃんとキスした。舌入れるって、AVとかでしか見たことねーけど、だいたいこういうかんじかなって、舌を出したら、御手杵の舌が逃げてくのがわかった。俺が「おい」と息継ぎの合間に言うと「だって」と御手杵が言い訳をした。俺はもう1回御手杵を引き寄せて、キスして、どうすればいいかわかんねぇくせに舌を絡めるだけ絡めてみた。御手杵ってこういうとこほんとうに煮え切らないやつだ。まだ逃げる。俺が追いかけると、御手杵はやっと観念して、舌を出してきた。俺の頬に手を添えて、角度を変えて、やりやすいようにして、なんならシートベルトを外して、俺たちはキスをした。舌を絡めて、軽く噛んで、吸って、ああ、御手杵の味ってこんなんなんだなって、思った。かさついた唇がこすれて、でも唾液が出るからしめってきて、これ、いつ終わりにすればいいんだろうって思った矢先に、御手杵が俺の下唇を軽く吸った。あ、ここか、って、わかった。
「……わかった?」
「気持ち悪くない」
「……ほんとに?」
「ほんとに。ところでさ、これ、俺ら付き合うってことでいいのか?」
「同田貫がそれでいいんなら……」
「なんでキスしたのに断るんだよ。あ、でもこれじゃ、どっちが告白したかとか、どうする?」
「俺今そんなこと考えてる余裕ない。なんで同田貫はそんな余裕なわけ?」
「いや、1周回って冷静っていうか、そんなかんじ」
「……そっか。じゃあ、俺、あと5分……いや10分で一周回すから、それまでくだらない話、なんか振って。そしたらまた運転できるから」
「わかった」
それから俺は10分間、くだらない話をした。ずっと前に観た映画の話とか、少し前にあった同じサークル内でのトラブルとか、ほんとうにどうでもいいことを、雨がフロントガラスを叩く音にのせて、つらつらと語った。御手杵はたまに大きな雨粒がぼとんと落ちるのとおなじくらいの間隔で、「うん」とか「へー」とか、ありきたりな返事をした。俺たちの日常みたいなのが、そこにはあった。普段は大抵逆だけれど。でも、そういうもんなのかなって、思った。新しく付き合うって、そういうことの繰り返しだ。非日常がずっと続くわけじゃない。はじめは日常と、非日常を行ったり来たりして、それに戸惑って、だんだんと非日常が長くなって、それが日常になる。いつか俺も、御手杵とキスしたり、手を繋いだり、それ以上の事をするのが、日常になるんだな、と、思ったら、少し、動揺をした。俺が動揺したら、御手杵が一周回ったらしくって、「よし、また行くからナビよろしく」なんて、言ってきた。雨が少しずつ、弱まっていく。
暗い中と、雨の中をずっとずっと、田舎へ田舎へと進んでいって、そうして、家なんかもう無いんじゃないかって山を抜けて、俺たちは海岸線を目指した。時刻は3時になっていた。雨はもう降っていないのに、ワイパーがまだ動いていて、俺が「ワイパーもういらなくね?」と指摘すると、御手杵があわててそれを止めた。まだ動揺しているらしい。そうして結局、俺たちは目的地に着いた。綾里海岸って、俺は結構近くに住んでいたらしいし、それなりの観光地らしかったのだけれど、1回も来たことがない。街灯がなんにもなくって、真っ暗だった。近くに住んでいた俺は予想できていたけれど、都会っ子の御手杵は街灯がないっていうのが珍しいらしかった。
「朝までなんもできねーぞ。外、寒いし、真っ暗だし」
「えーと、日の出は……あれ、ここauの電波無いんだけど。嘘だろ、どんだけだよ」
「俺ドコモだから電波ある。えーと、だいたい六時半だって」
「あと3時間もあんじゃん」
「なにしてような」
「……雑談?」
「ずっと車のエンジンかけてたらバッテリーあがらねぇ?」
「三時間くらいならギリ大丈夫」
「まぁこのあたり民家もないし、騒音とかは大丈夫か」
「言うほどこの車うるさくないしな。ハイブリッド舐めんな」
「お前の金じゃねーだろ」
「うん、まぁ、うん……」
それから俺たちはちょっと黙った。少しケツが痛い。背筋も伸ばしてみたかった。それから、そうだ、少し前から雨が晴れている。これで雲が無ければ、田舎でなくば見られないものが見られる。俺は御手杵に「ちょっと外出てみる。歩くとかじゃなくって」と言って、ドアを開けた。そうして外に出て、上を見上げる。文句なしの晴天だった。月ももう沈んでいる。俺は運転席側のドアに回って、窓をとんとんとノックした。
「ちょっと外出てみろよ」
「なんで?」
「いいから」
俺がそう言うと、御手杵は車のエンジンを止めて、白い息を吐きながら出てきた。俺は「上、見てみろよ」とそれを指さす。御手杵は頭にクエスチョンマークを浮かべながら、それを見た。瞬間、御手杵の息が止まるのが、俺にはわかった。
そこには満天の星空があった。冬ではあったけれど、今見えているのは春の星座だ。俺が「な、すごいだろ」と御手杵に言うと、御手杵は「うん」とだけ返した。春の大曲線だとか、大三角だとか、そういう等星が小さな星もわからないくらい、たくさんの星がひしめき合っていた。大気中の埃も塵も雨にさっぱり洗い落とされて、全部が全部、きらきらと輝いている。こういう星空ってのは、星を結ぶのは野暮だ。綺麗なものは綺麗で片付けてしまえば、それでいい。それだけでうつくしい。何かの関係を持たせなくったって、星はそこにあるし、何光年も離れた場所から、いつの時代のものかもわからない輝きをそそいでくれている。
俺たちは静かに、言葉もなく、それを見つめていたけれど、しばらくして、手袋をしていない手が冷たくなっているのに気が付いた。そうしたら自然と手が手を求めて、手を繋いでみた。最初に笑ったのは俺で、「なんだよ」と、すねたのが御手杵だった。
「……寒かったから」
「ああ」
「……寒かったら、こうするだろ」
「じゃあ夏は手ぇ繋げないんだな」
「……同田貫ってそういうとこあるよな」
「……お前だって、言い訳がましいとこある」
「……うん。知ってる」
「でも俺、お前のそういうとこ結構すきなんだよ」
「……ありがと……俺もすき」
そうしたら、あとは簡単だった。暗がりの中でお互いの顔の位置を確かめて、満天の星空に見せつけるようにして、キスをした。細かい説明がいらない、ただ、そこに相手がいたからっていう、贅沢な、キス。
夜が明ける時間って、どうしてこんなに綺麗で、頭がすっきりするんだろう。6時を回ったころからあたりがだんだん明るくなってきて、薄紫がかった黎明の空が、カローラフィールダーの中にまで沁み込んできた。車は防波堤の前に止めてあったので、ここからじゃ海は見えない。俺たちは明るくなってきた頃合いを見て、やっぱり手袋をしないで、外に出た。
防波堤の途切れている扉の部分から、砂浜に入ると、ずっとただよっていた海のにおいが、ぐっと濃くなるのがわかった。おれたちは今海に来ているんだって、わかった。砂浜までは少しの階段があって、そこのところで御手杵が「手、つなご」と言ってきた。俺は「お前、そういうとこあるよな」と笑いながら、御手杵の手をとった。
砂浜は海を囲むように湾曲していて、夏ではないので掃除されておらず、それなりの流木やごみがあった。それがまたそれらしくって、おれたちはさくさくと、冷たい砂の上を、スニーカーで歩いた。目的もなく、俺は地平線を眺めていたし、御手杵は水際を眺めていた。そういうもんだ。
「やっぱ、寒いな」
「そりゃ、そうだろ」
「でも、なんだろう、来てよかった」
「……ああ」
「……なあ、同田貫」
「なに」
「俺たち、……結婚できるかな」
「『もしかしたら』できるかもしれない」
そうして、俺たちはどうしようもなく寒い冬の海で、もう白くもならなくなった息を吐いて、鼻を赤くしながら、さざ波の押し寄せるままに、笑った。そうしているあいだに日が昇る。俺たちは海のにおいと、太陽のにおいに包まれて、手を繋いで、あてどなく、歩いている。今ならなんにでもなれるって、そんな気がした。
END