都会病に取り憑かれてもう一歩も動けない
俺が高校二年生の時に、家族で住んでたマンションの隣にそいつは引っ越してきた。埼玉の、そう高級でもない家族向けのマンション。噂好きのお母さんから聞いた話、高知から遥々埼玉まで越してきたとのことだった。そいつとは学校も同じになったけど、学年は同じでもクラスは違くて、話したことなんて一度もない。でも遠く離れたクラスからの噂で、そいつのことはなんでかよく知るようになってしまった。スポーツ万能で、編入できるくらいの脳みそはあって、父子家庭で、明るくて、転校してすぐクラスの中心になって、埼玉に来て半年経っただろう今でも、土佐弁が抜けない。はじめて廊下ですれ違った時、「あ、こいつだ」って、すぐにわかった。ヘンに浮いてて、でもそれが馴染んでて、別のクラスの奴でも、なんかあったら軽い挨拶くらいはするんだろうなって、そう思った。そいつの名前が陸奥守だってこと、俺はそれから少ししてから、知ることになる。
俺は陸奥守とは別の意味でクラスで浮いていた。一年の頃からそうだった。女子みたいに爪にマニキュア塗って、化粧をして、何度も生活指導に怒られて、それでも懲りずに自分を飾りたてていた。持っているものも中性的か女性的で、べつに女になりたいってわけじゃないんだけど、そっちの方が好きって価値観で、かわいくしときたいってもののとらえ方で、そういう自分を曲げなかった。親はそういうのに理解があって、何度学校に呼び出されても、その時は謝るけれど、俺にどうこうしろって言うことはなかった。もともと校則がゆるくって、法に触れるようなことをしなくて、それなりの成績があれば退学にはならない学校だったってのもある。進学校だったけれど、俺は将来、服飾関係かヘアメイク関係の仕事につきたかったから、大学ではなく専門学校へ行く予定だった。まぁ、先生にそんなこと言えないから進路志望には適当な大学を書いて提出してるけど。
進路志望の話といえば、陸奥守は卒業をしたらバックパッカーになりたいとか書いて、進路指導の先生に呼び出されてたって話、聞いたことある。この学校でテストの成績は上位五十人まで廊下に貼りだされるんだけど、その中に俺の名前もあったし、陸奥守の名前もあった。一学年三百人くらいいて、その中の上位なんだから、模試でもそれなりの点数を出しているんだろう。俺はその話を聞いた時、ふざけた奴だな、なんて、思わなかった。持ったのはどっちかっていうと、同類意識。頭がいいから大学行かなきゃいけないって価値観を持ってなくって、自分に正直なところ、ちょっと似てるかもって、思った。どこか、おんなじにおいみたいなのがする。でも、だからって話しかけたりしないし、別のクラスだから挨拶もしないし、すれ違っても視線を合わせない。都会の大きな学校って、そんなものだ。
その日の俺はこの上なくついていなかった。学校に着いてから、スマホを家に忘れてきたことに気が付いて、放課後、早めに家に帰ろうとしたら、今度はそのスマホのケースの中に家の鍵を入れていたことに気が付いた。母親は今日はママ友の会だかなんだかがあって、父親はいつも通り残業で遅いし、俺の財布の中には百円しか入ってなかった。今日発売の初回購入特典付きCDがバッグの中に入っているからだ。俺は途方に暮れて玄関のドアの前に座り込むしかなかった。親に連絡しようにもスマホがない。季節は秋で、冬よりはマシにしろ、薄手のコート一枚では肌寒さを覚えた。夜になればさらに冷えるのだろう。
一時間もそうしていただろうか。俺の前を少なくとも三人、同じ階の住人が通り過ぎた。皆一様に俺を見ないふりして、それぞれの部屋へと吸い込まれてゆく。ま、そういうもんでしょって、俺も思うから、恥ずかしくも悲しくもない。俺はただ暇だなって、日本史Bの教科書を引っ張り出して、黙読していた。旧石器時代からおさらいを始めて、読んでいただけだったから安土桃山時代のあたりまで進んだ。そういえばこういうのも習ったなって、溜息をしたときに、「なにしゆうがか?」と頭上から声が降ってきた。
「え、」
「なにしゆうがかと聞いちゅう。ほがな風にドアのがけに座り込き。入れないがか?」
陸奥守と話すのははじめてだった。ほんとうに土佐弁なんだ、と、遠くから聞いていて知っていたはずの事実に、ちょっと感動した。
「う、うん。鍵……家の中に忘れちゃって……」
「おんし頭ええくせに案外ドジなとこあるんじゃなぁ!わしのこつしっちゅうがか?同じ学校なんじゃが」
「……知ってるよ。陸奥守……だっけ?有名だもん。そっちこそ、俺のこと知ってたんだ」
「そりゃあ有名やき。名前は清光じゃろ。入れんのやったらおんしの親帰ってくるまで、わしの部屋来んか?ここよかましじゃろ」
「え……なんで?いいの?」
「だっておんし、困っちゅうやろう。そういう時はお互い様やき」
俺はなんの気もなく差し出された手を、茫然と、握ってしまった。俺の手は冷えていて、陸奥守の手はあったかかった。
陸奥守の家は男二人で住んでいるだけあってそれなりに汚れていた。俺は掃除が得意だったけれど、ただの顔見知りの家の掃除なんて普通するか、と思ってしまって、なんにも言えなかった。通されたのは陸奥守の部屋だった。陸奥守の部屋はもうひどいありさまで、雑誌が積まれ、ごみはなかったけれどなんに使うのかわからないものが散乱していて、使っているだろうスペースだけがぽっかり、空いていた。
「汚くってすまんな。ま、空いてるとこ座るか、物どかして座るかしてくれ」
「……うん」
俺は促されるまま、動かしても大丈夫そうなものをどかして、ローテーブルの近くに腰を下ろした。そうして見回してみると、どうも、この部屋には陸奥守の夢みたいなものが詰まっている。カベには書き込みのされた大きな世界地図が貼られていたし、地球儀もあった。積まれた雑誌もそういう類のものだったし、それらには付箋がついていた。バックパッカーになりたいって夢は、本当らしい。
「なあ清光、コーヒーとか飲むがか?」
「え、いいよ。喉乾いてないし、飲み物ならペットボトルの残りがあるから」
「ほうか。いや、まあ客が来たらなんか出すのが礼儀ゆうもんやが」
「いいよ。お客さんとか、そういうのじゃなくって、俺が一方的にお世話になってるだけなんだし、そんなに気を遣わなくって」
「ほうか。ならまぁ宿題しながら話でも」
「……するような話ある?」
「あるじゃろ、おんなし学校なんやし」
「でもクラス違うよ」
「今おんなじ部屋おるんに、まだ他人なんか?」
「……どうとも言えない」
俺たちの今の関係って、いったいなんなんだろうって思った。気まずくなって、俺はバッグから数学の教科書とノートと参考書、ワークブックを出す。陸奥守も豪快に座る場所を確保して、ローテーブルの向かい側に座った。
「まぁええじゃろ。いやー今日はこじゃんと宿題が出てどうしようとおもっちょったが、清光がおるんは助かるの」
「こないだの校内模試の成績、陸奥守の方が良かったじゃん」
「その前は清光のが成績良かったじゃろ」
「よく覚えてんね」
「お互い様じゃ」
「陸奥守は転校生だからわかるけど、俺ってそんなに浮いてる?成績チェックされるくらいさ」
「浮ちゅうゆうか、目立っとる。綺麗な顔して、持っちゅうものもきれえだって女子も男子も噂しちゅう。ほき頭もいいくせに、友達作りたがらんへごな奴ってみんなゆうてる」
「……へご?」
「……うーん、らぁてゆうんろう。そうじゃなぁ、ここらの言葉で『変』とか『変わってる』って意味やと思う」
「ふうん……」
あんまりにも想像通りの返しで、俺はちょっとがっかりした。周りからの評価なんてどうでもいいけれど、本当に予想した通りだと面白味がない。もう少し尾ひれ背びれついて、ゲイだとか、オカマだとか言われててもよかったのに。それか陸奥守が遠慮してそういう部分は伏せたのかもしれない。いや、これだけ遠慮のない陸奥守に限ってそんなことをするだろうか。ワークブックの空欄を埋めながら、俺はちらっと同じように教科書やらなにやらを開いている陸奥守の手元を見た。シャーペンはさらさらと動いている。やっているのは英語らしかった。
「でも、わしはおんしのことへごだとは思わなかった。らぁていうか、おんなしにおいみたいながを感じた」
「……におい?」
「うん。何てゆうか、自分に素直な奴なんだな、みたいな。おんなじ奴がいないから一人でいるばあなんろうなって」
「陸奥守はクラスの中心だって聞いてるし、人気者に見えるけど。俺と違って」
「ほりゃあふとい声でしゃべっちゅうばあやき。しょうまっこと仲がいい友達は一人もいやしやーせんよ」
「……ふうん……。クラス違うから、そこまでは知らなかった」
「おんしとは仲良くなれそうだなって、ずっと思ってたんやけど、話す機会がなくってな。わしもそれなりに忙しうて、それどころじゃなかった」
俺のペンがちょっと、止まった。数学の証明問題の半ばで、ほんとうに中途半端なところ。どうにも、俺はこういうのが苦手だ。
「……忙しい?」
「うん。わし、バイトしちょるんよ。先生に許可もらうがやき、成績上げないといけなかったり、バイト始めてからは休み時間使って勉強しなきゃいけなかったりでな。廊下やかれ違っても、おんし、目も合わせてくれんかったし」
「……へぇ、バイトしてるんだ。なんでまた」
「卒業後のためちや。世界一周しやーせんといけんからな」
世界一周、と聞いて、俺のシャーペンがまた止まる。陸奥守の言う世界一周っていうのが、なんていうか、お金持ちの道楽旅行とかそういうんじゃなくって、綺麗なとこだけじゃなく汚いとこも全部見て回って、そうして、自分の中に世界地図を持つことなんだって、なんでかすぐわかった。
「……バックパッカーになりたいって話は聞いたことあるけど、世界一周とまでは聞いてなかったな」
「わしの夢やきな。世界をこの目で見てまう。大学なんか行っちゅう暇ないよ。世界はいよいよ広いんやき。なぁ、なぁ、清光の夢はなんなんだ?教えてくれ。無いとは言わせん」
「……こういうこっぱずかしい話、苦手なんだけど」
「部屋代ちや」
俺は止まっていたシャーペンを、親指の上でくるりと回した。そうして、陸奥守になら話してもいいかな、という気持ちになっているのに、驚いた。驚いた拍子に、「デザイナーとか、ヘアメイクとか、そっち方面に進みたいって、漠然と考えてる」と、口を滑らせた。
「デザイナーっても、美大とか行く方じゃない。服飾とか、そっち」
「ええなあ、それ。おんしらしうて」
「……そうかな」
「だってぎっちりきれえにしてる。清光がもっときれえになったら、いよいよ嫁に行けるかもしれん」
「……俺そういう趣味じゃないよ」
「そうか。ほりゃあ残念だな。わしは清光が嫁じゃったらええなって思ってたとこじゃったがやき」
「え、」
「世界一周するにも、いぬる家はほしいじゃろ。そのいぬる家に清光がおったらいいなって、ずっと思ってたちやな」
「……自分が何言ってるか、わかってる?」
「友達からはじめやーせんかって、そういう話ちや」
「え、いや、そうじゃなくってさ、陸奥守って、」
「あ、いや、ゲイとかそういうのやないやき安心してくれ。清光やき、えいがだ」
「待って、話がかみ合ってない。でも噛み合わせたらダメな気がする。えっと、どうしよう、俺、もしかして告白されてる?」
「まぁ、そうじゃ」
俺はもう宿題どころじゃなくなって、やっと、陸奥守の顔を見た。そうしたら陸奥守が「ようよう見てくれた」と笑った。自分の顔が赤くなるのがわかる。こういう時、どうしたらいいかって、学校じゃ一切、教えてくれなかった。
「俺、ダメだよ。男は好きになれない、と、思う。そういう、意味、では。陸奥守も俺がこういう見た目だから勘違いしてるだけだって。それに俺、陸奥守が思ってるより性格悪いよ。それに、なんていうか、陸奥守のこと嫌いじゃないけど、俺、陸奥守と仲良くしてる自分が想像できない。クラス違うし」
「都会じゃクラスが違ったら仲良くしちゃいけん決まりでもあるかえ?」
「そういうわけじゃないけど、変、でしょ」
「卒業したらクラス一緒じゃったってみんなバラバラになるがやき、クラスが違うってばあで何が違うっていいゆう?わしは清光の気持ちが聞きたいちや」
「……俺は、俺の気持ちがまだ、よくわかってないから……ていうかすごく、混乱、してる……」
俺がそう言った時、隣の部屋のドアが開く音がした。俺の家の方だ。多分父親か母親が帰ってきたのだ。陸奥守は「ほうか、ならしょうがない」と、これ以上俺を追い詰めることをしなかった。俺は「俺の家、親、帰ってきたみたい。いさせてくれてありがと。俺、もう帰るね」と、そそくさと荷物をまとめた。そうして玄関まで逃げたところで、陸奥守がドアノブを握って止めて、「なあ、わしはおんしを好きなままでえいがか」と聞いてきた。
「……俺がどうこう言う問題じゃないから」
「ほんならこれから毎日話しかけてええか。すれ違ったら挨拶したちええか」
「……うん、……俺も、そうする。でも、まだわかんないよ。まだわかんないんだけど、俺、陸奥守と仲良くしてみたいって、思ってたかもしれない。俺も、おんなじにおい、感じてたからさ」
「……嬉しいのう」
「でも、それとこれとは話が別だから、そこのとこだけ、よろしく」
「ああ」
「じゃあね。……ありがと。また明日、学校で」
「おう」
ガチャリと陸奥守の家から出て、俺はその真ん前でずるずると座り込んだ。顔を手で覆って、「どうしよう」と小さく呟いた。そうして、近い将来、自分が東京の専門学校に通って、一人暮らしして、そうして、バックパッカーになった陸奥守が二カ月にいっぺんとか、家に泊まりにきて、お金がなくなったら一緒に暮らしながらバイトしたりとか、陸奥守の部屋はあんなんだったからきっと家事とか苦手なんだろうから俺が料理とか洗濯とかして、それを陸奥守に教えたりもして、そうして、ふたりで、と、想像をしてしまった。想像をしてしまってから、それがすごくいいことのように思えてきて、俺は動けなくなった。まだ、挨拶だってまともにできてやしないのに、どうしてこんなこと考えるんだろうって、思った。俺たちまだ、俺の基準では友達ですらないんだよ、信じられる?
END