言葉が出なくなったら恋






※現パロ


大学での四年と、社会人になってからの四年で、八年の付き合いっていうのは長いのだろうか、短いのだろうか。俺はストレートで大学に合格できたから今年で二十七になるが、二浪している日本号は二十九になる。人生のおよそ三分の一、俺たちは友人という生ぬるい関係を続けていた。

知り合ったきっかけはサークルだった。サークルオリエンテーションで、勧誘にひっかかって、茶道部なんてものに入ってしまった。そうしたらおんなじような境遇で日本号がそこにいた。同じ学年で男というのは俺たちだけだったので、自然と話すようになった。はじめは新入生ということだったので先入観で同い年だと思い込み、タメ口で話をしていたが、五月の飲み会の席で「あ、俺成人済みなんだわ」と普通に酒を注文していたので騙されたと思ってしまった。それからなんだかタメ口が申し訳なくなったが、今までべらべらとそれで話をしていたのに今更という気になって、結局タメ口に落ち着いた。

俺に酒の味を覚えさせたのは日本号だ。別段無理やりというわけでもない。あんまりにも日本号がうまそうに酒を飲むものだから俺が一口飲んでみたいと言ったのだ。地方都市だったので年齢確認が緩かったというのもある。大学一年生で酒を飲むやつなんて山ほどいた。その時日本号は俺に自分が飲んでいた日本酒をお猪口ですこし、わけてくれた。俺はその時の喉の焼けるような感覚を、今でも覚えている。俺が少しむせたのを見ると、日本号は「はじめはカクテルからの方がいいかもしれないな」と、ジン・トニックを頼んだ。俺のために。甘すぎず、少し苦くて、ほどよくアルコールが混ざっている。日本号は店員の前でライムをぎっちり絞って、一口、これは俺のだから、と、それを飲んでみせてから、こっそり、俺に渡してきた。高校まででこんなことをしたら間接キスがどうこう騒がれていただろうし、俺も実際騒ぐ方ではあったが、その時ばかりは気にならなかった。俺ははじめてジン・トニックを飲んで、少し、大人ってものにしてもらった。それから、一番好きな酒は、それから数年経った今でも、ジン・トニックだ。

日本号は偏差値が高い農学部で、俺はそれなりの工学部だった。農学部というとどうにも農業のイメージが強いがしかし、日本号の入った学科の研究室では細菌の研究をしていたらしい。培養がどうとか、育成がどうとか、細かいことはよくわからない。四年間レポートと実験と発表に追われたらしいが、終ぞキムワイプは食べずに済んだらしい。俺はというと、新しい機能材料や新たなエネルギー材料について学ぶマテリアル工学科に所属していた。英論やら実験やらフィールドワークやら、色々あったが、やっぱりキムワイプは食べなかった。あれは一種の都市伝説らしい。そんな感じで専門分野が全く違っていたし、学部棟も離れていたので、一年の間は部活以外でほとんど顔をあわせなかった。けれど二年になったら一般教養科目が工学部と農学部で被っていたので、なるだけ同じ授業を取った。二年の春になってはじめて、俺は日本号が授業の時だけ眼鏡をかけることを知った。

二年の秋になって、茶道部の部長は誰がいいという話になった。みんなの支持はやはり年長者であり、盛り上げるところで盛り上げ、締めるところは締める日本号であったが、本人は「柄じゃない」とそれを辞退した。そうして、「長谷部がいいだろ。責任感強いし、二年の副部長だったし、水屋の長もできて、なにより半東やらせたら一番だ。いや、まぁこの部じゃ部長は亭主って風習もあるけどよ、俺が亭主で長谷部が半東で長いことやってっからなぁ。俺が副部長やって、部長は長谷部がいいと思うぜ」などと言い出した。そうしたらみんながみんなしてそれがいいという話になり、俺は断るに断れず、結局流れで部長になった。俺はじつは、いつも日本号が亭主をするならば半東ではなく水屋をやりたいと思っていた。日本号のお点前はたいへんにうつくしいのだ。贔屓目なしに多分部の中で一番うまいし、先生もそう評価していた。大柄な体躯に似合わず、動作は音もなかったし、無骨な指はひどくやさしく、茶器を扱った。袱紗をたたむにしろ、柄杓を下ろすにしろ、ひとつひとつの動作が目を惹く。だから、そのお点前を裏方からひっそり覗いていたい。半東の役割だと、亭主の格好が見えない時があるのだ。けれどそれも、何度も席を設けるうちに、違う感覚へと変わっていった。日本号の着物のきぬ擦れの音、かすかに響く柄杓から垂れる水の音。茶筅の響きから、日本号が今どの手順にいて、自分が何をすればひとつになるのか、わかってきた。そうするとその感覚にやみつきになって、ながめるより、うつくしい日本号とひとつになって、手足のようになるのがこのうえない幸福となった。最後の席でもそれはおんなじで、日本号の思考を俺が汲み取って、日本号が俺を動かして、言葉もなく、俺たちは会話することができた。その完成形が、部内で催した最後の茶会だった。最後の総礼の後、俺は少しばかり、目頭をおさえた。それが最後の幸福だと、その時は思っていたから。

部長と副部長というものは総じて、部のために頭を悩ませるものである。先代の部長のありがたいお言葉に、「愚痴は副部長だけに言え。部室では絶対こぼすな」というものがあった。だから俺は一ヶ月に一回、日本号と二人っきりで飲みに行った。それは決まって大学からほど近い通りにあるハーフムーンという居酒屋で、二人してカウンター席に座った。そうして俺はあぶくのように、会計がどうの、こないだのコンパでどうの、部室の使い方がどうの、あいつが、後輩が、と愚痴をこぼした。日本号は日本酒の種類が少なく、ウイスキーが豊富なその店でワイルド・ターキーのロックを飲みながら、それらを綺麗に掬い取ってくれた。俺が正しければ肯定をし、俺が間違っているようであればそっと諌め、諭した。俺にもプライドがあったが、日本号はどうも、それを傷つけないだけの人生経験があるらしかった。二年というものは存外に大きい。俺は何度か、「俺があと二年生きたら、お前のようになれるだろうか」と呟いたが、日本号は「俺とお前が違ってるからそう思うだけで、俺は言うほどできた人間じゃねぇよ」と、グラスを鳴らした。少なくとも俺は日本号を尊敬していて、一緒にいることで安心をした。部長なんて大役を一年、何事もなく続けることができたのは日本号が副部長だったおかげだ。

そんな俺たちも三年の秋には部を引退し、就職活動やら卒論やらで忙しくなった。それでも一年間の習慣から、俺と日本号は最低でも三ヶ月に一回は二人でハーフムーンへ足を運んだ。今度は部のことでなく、自分たちのことで色々と話をした。エントリー企業数がどうの、研究室の推薦がどうの、教授がどうの、と、様々な言葉を交わした。二人とも理系だったので、就職はそう難しくなかった。どちらも四年の五月には内定が出たし、大手の企業だった。大変だったのは卒業論文だ。俺も日本号も実験漬けの毎日だったし、研究室で日付を越すこともしばしばだった。それでも暇をみつけては二人で話をした。俺は部活という繋がりが薄れても日本号と二人で飲みにいけるだけの関係であったことに少なからず安心をした。

俺と日本号はどちらも東京の企業への就職が決まっていたので、社会人になってもこうして飲みたいという話をしばしばした。住む場所はどちらも会社の独身寮で、日本号は夏には場所が知れていたが、俺はぎりぎりまでわからなかった。あまり離れないといいな、なんて話もした。俺たちはそんな関係だったけれど、どうしてか、卒業旅行は一緒に行かなかった。なんだかそういう距離感ではなかったし、卒業旅行は同じ研究室の友人と行った。俺はパスポートを作って、イタリアへ行った。日本号はインドへ行ったらしい。帰ってきてからふたりして、やっぱりハーフムーンで土産話をした。俺がヴェネツィアの話をしたら、日本号は屋台料理の話をして、俺がカプリ島の話をしたら、日本号はラール・キラーの話をした。いつまでも会話が終わらなくって、俺たちはハーフムーンを出たあと、日本号のアパートへ行って、飲み直した。その時俺ははじめて日本号の部屋へ入ったのだけれど、存外生活感があったし、存外ずぼらな生活を送っているようだった。その話を日本号にしたら、「そりゃあお前、俺に夢見過ぎなんだよ」と言われた。結局朝方まで飲み明かして、昼まで雑魚寝をした。それが学生時代最後の、二人っきりの酒だった。

社会人になってからも、やっぱり三ヶ月に一回くらいの頻度で俺と日本号は酒を共にした。寮の場所が、俺が埼玉の西川口で、日本号が東京の赤羽と近かったこともある。京浜東北線で二駅分の距離しかない。そして、俺たちは第二のハーフムーンを探した。そしてそれは意外に近くに見つかった。西川口駅からすぐのところにある、カスクアンドスティルというバーだった。社会人になって背伸びをしたかった俺たちは居酒屋でなく、落ち着いたバーを選んだ。カスクアンドスティルは扉を開いてすぐ下り階段で、地下にある店だった。照明は薄暗く、しかし暖かで、カウンターの向こう側にはスコッチのラベルがずらりと並び、カクテルも頼めば様々作ってくれた。俺は一番はじめはいつもジン・トニックで、日本号は大学時代のあれを覚えているだろうかと不安になりながら、ライムをぎっちり、絞った。日本号は「今日のおすすめのスコッチは?」と、いつもマスターに尋ねて、それから珍しいのが入っていたらそれを一番目にしていた。カスクアンドスティルは学生がいないせいか、雰囲気のせいか、ハーフムーンよりずっと静かだった。そのぶん俺たちの口数も減って、さらに静かになった。社会人になってから、部活だとかレポートだとか共通の話題がなくなって、俺たちはまるで何を話していいか分からなくなってしまったようだった。俺はジンベースのショートカクテルに口をつけながら、いつか頻度も減って、そのうちに会うこともなくなるのだろうと、思った。そう思うと胸にあなのあくような心地がした。

けれど俺の心配も虚しく、俺たちは今でも三ヶ月に一回は必ず、カスクアンドスティルで酒を共にする。俺はカクテルで、日本号はスコッチを頼む。たまにマスターと話をしたり、グラスを交換したりした。話題なんてなんにもないのに。けれど三杯ほどの酒を飲むこの時間が、どうにも、幸福だった。俺は大学時代の、亭主と半東の関係を思い出していた。言葉にしなくたって、なんだか繋がっている。そういうのが、なんだか幸福なのだ。しっとりと湿るほどの静寂に、ぽつんと、日本号が「お前、ジン・トニック好きだよな」と言った。俺は「ああ、そうだな」と答えた。

「ライムはぎっちり絞るよな」
「そうだな」
「そういうの、なんつうか、すごく、いい」
「……そうか」

二人して、もう三十路に近いのに、まだこんな会話をする。会話が止まれば、また幸福なひとつになろうとする。その繰り返しで、臆病にもほどがある。俺たちは若さにかまけて年をとりすぎた。これで充分だ。多くは求めない。そのくせ、死ぬまでこうしていたいと、思ってしまう。次、会話が止まったら、俺はきっと。

END


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