くじらの鳴くころ、群青




階段っていうのは、登るより、降りる方が大変なのだ。

そのことを御手杵が知ったのは、随分最近のことになってからだった。テレビの特集でやっていたのだ。階段を登る組と、降りる組に分かれて、だいたい五十階を、登り切ったり、降り切ったりする特集。なんの意味があるんだろうなあって思いながら、見もしない教科書を広げながら、御手杵はその番組を見ていた。結果として、登る組は翌日軽快に歩いていたのに対して、降りる組はひどく辛そうに歩いていた。原因は筋肉痛だった。階段を下りる時の衝撃で筋繊維がなんちゃら、かんちゃら、難しいことは覚えていない。けれど、簡単そうに見えること、簡単にできてしまうことの方が後を引きずって、痛みを残すのだということが、妙に印象に残った。

御手杵と同田貫が育った町は、階段の多い、海にせり出した町だった。街じゃなくって、町。鳥取の、ひどい田舎で、無人駅もある。この町は海の匂いがする。どこもかしこも階段だらけで海よりずっと高い位置にあるのに、どこへ行っても、海の匂いがせりあがってくるのだ。靄の出る日なんか、もっとそうだった。御手杵の部屋は、古い日本家屋の二階にあったが、その窓からは海が見える。その窓を開けていても、閉めていても、靄の日は海の匂いがどこかの隙間から入り込んできて、部屋を海に沈めてしまった。そんな日は、決まって夢を見る。自分が鯨になって、海の中で独りぼっち。ずっと、何もない海の中を、果てがあるのかわからない深海を、ゆったりと泳ぐのだ。誰かを探して。その誰かが誰なのか、御手杵は高校三年生の秋になっても、わからなかった。

「おーい、御手杵−」

二十段くらいある階段の、少しの休憩スペースみたいな場所で、同田貫が声をかけてきた。朝だった。学校へ行く時間。いつも、二人で学校へ行く。小学校はこの町にあるのだけれど、中学からは隣の街まで行かないと、ない。その小学校も、少子化が進んで、いつ廃校になってもおかしくなかった。全校生徒が百人に満たない。保育園の年長になった時に、友達百人できるかな、と、そんな歌を歌った記憶があるが、現実は悲しいものだ。同田貫とは小学校からの友人で、親友だった。家も階段を二十段隔てた近所で、毎朝、小学校の時からずっと一緒に登校している。

「おはよう、正国」
「ん、ああ、おはよう」

御手杵と同田貫の通う高校は、ここから少し歩いた無人駅からディーゼルの汽車に乗り、そこからさらに十分ほど歩いたところにある。電車でもなく、列車でもない。一両編成の、学生と老人しか乗っていないような、そんな汽車だ。それも、一日に四本しかない。登校の時間と、下校の時間に合うようにしてあるので問題はないのだけれど、きっと、御手杵も同田貫も、高校を卒業したらこの町を出ていくのだろう。

歩く時間は他愛の無い会話をして、汽車に乗ったら、参考書を開いた。二人とも、今年は受験だった。御手杵も同田貫も国公立の大学を目指していた。どちらも文系だったけれど、御手杵はなんとなくで、同田貫にはきちんとした目標があった。なんて読むのかわからない広島の大学の、国文学科を受けるとか、なんとか、そんなことを言っていた。将来の話も、二人は包み隠さず、話している。けれど、干渉はしない。干渉したところで、そこに意味なんかないって、わかっていたから。御手杵は多分でもなく、同田貫と同じ大学へは、進学しない。どこか、都会がいい。東京か、それに近い埼玉か、神奈川か、大阪、京都、福岡。どこか、遠くてもいいから、都会っていうところに行きたかった。成績も、それなりに足りている。英語の短文集のページをめくりながら、御手杵は、静かに、瞼を落とした。

大人の階段を、登っている。どこからが大人なのか、どこまでが子供なのか、わからない、どこまでも続く、長い階段だ。何をすれば大人になれるのだろう。毎日、町の階段を登って、降りて、そんなことを繰り返しているのに、この階段ばかりは、うまく登っているのか、自信がない。降りられるのかも、わからない。同田貫がいつも声をかけてくれる休憩所みたいな、足を止められる場所があるのかも、わからなかった。けれど、何かに背中を押されるようにして、登っている。たった、ひとりで。きっとみんなそうなんだって、信じて。

(You can’t get away from yourself by moving from one place to another.……)

御手杵は訳を見る前に、なんとなく、それを自分で訳してみた。

(あたなはあなたから逃れることができない……by……えーと……これはなんて接続するんだろう……そんなに難しい文章じゃない。後ろの文を訳せば、まぁ、わかるか。他の、ひとつの場所に動く……。これじゃ固いな。多分、他のどんな場所に行く、だな。だから、byは、たぶん、理由づけ。だから、「あなたは他のどんな場所に行っても、あなた自身から逃れることはできない」か)

実際に正しい訳を見てみたら、だいたいの意味は合っていたが、少しだけ、意味が違った。けれど、そんなことより、なにより、胸に何かが、刺さった。針のような、けれど槍みたいに身体を貫いて、そこから血潮が噴き出してくるようだった。手を当てても、包帯を巻いても、どうにもならないような、そんな、大きな、穴。

高校は海からだいぶ離れたところにあるので、海の匂いはしない。御手杵は窓際の席で、同田貫と同じクラスだった。クラスは全部で六つあるのに、二人は三年間、同じクラスだった。席が隣になったことはないけれど、それでも同じ教室で、同じ授業(選択科目は違ったけれど)を受けて、一緒に昼食を食べた。同田貫の席はクラスの真ん中のあたりにあるので、御手杵の方からしか、同田貫の姿は見えない。同田貫はいつも熱心に授業を聞いている。けれど、英語の授業の時、たまに寝ることがある。その首の、がくんと落ちるのを、御手杵は少しだけ期待しながら、見ている。クラスの誰だって、眠たがっていた。御手杵も、眠い。授業中に眠気を覚えるようになったのは、高校に入ってからだった。小学校の時は授業が楽しくってたまらなかったし、中学でもそんなに苦労はしなかった。睡眠時間が極端に短くなったかというと、そうでもない。なのに、眠い。どうしてなのだろう。大人になったら、みんな、眠くなるのだろうか。もしかしたら、少しでも多く眠ることで、子供に戻ろうとしているのかもしれない。御手杵は夢想する。こういうとき、いつも、しないはずの海の匂いと、階段を登る音が、聞こえる。子供の頃は起きたまま見ることのできた夢を、大人になったら、眠ることでしか、見ることができなくなってしまうのだろうか。

「進路の紙、お前、提出したか?」

帰り道、海の傍を通りかかった時に、同田貫がそんなことを聞いてきた。高校三年の秋になると、毎月のように、第三希望までの進路を書いた紙を提出しなければならなくなる。その進路と、毎週行う模試の結果を見比べて、教師が個別に面談をするのだ。御手杵の進路の紙は、まだ真っ白だった。御手杵は質問に対して、「正国は?」と聞いた。

「俺はもう出した。明日締切だから、出してないなら、ちゃんと出せよ。そういえば、お前って、どこの大学行くんだっけ」
「あー……うーん……べつに、多分、私立でも大丈夫なんだけど、センコーが国公立も絶対受けろって言うんだよなあ。親にも負担かけたくないし、国公立の、どこか」
「それって、決まってないっていうんじゃないのか」
「ああ、うん、そう、かも」

御手杵は毎回、違う大学の名前を、その用紙に書いて、出していた。模試の時も、この大学だとどんな判定なんだろうなあ程度の気持ちで、鉛筆を動かしている。駅伝で知ってる私立とか、日本で一番偏差値が高い大学の学部とか、逆に、一番低い国公立だとか。マーチも、書いたかもしれない。ABCDで判定される、合格の可能性が、なんだか滑稽で、それに一喜一憂するクラスメイトが、なんだか不思議に思えた。A判定が出たところで、受かるわけじゃ、ないのに。

御手杵はとにかく、そのとき、どうしてか、話題を切り替えたいと思った。だから周りをざっと見まわした。見回したところで、海と、どこへ繋がっているともしれない階段があるばかりだ。あとは、古ぼけた、民家。ここは海の匂いがする。海がどうして青いのか、御手杵は知らないし、海の水がどうしてしょっぱいのか、御手杵はしらない。

「そういえばさあ」
「うん」
「何年か前に、この砂浜に、鯨が打ち上げられたこと、あったよな」
「ああ、あったなあ、そんなこと」
「俺らが、小学生の頃だったっけ。あんまり、思い出せないけど」
「ああ」
「鯨って、初めて見た。水族館とか、修学旅行で行ったけど、そこにはイルカしかいなかったし、なんか、違うなって、思った」
「なにが」
「あの鯨の、いろんなとこ擦りむいて、傷だらけで、こっちが痛くなるような傷だけ、よく覚えてるんだ。駆けつけた……なんだろう、専門家みたいな人たちも、もう助からないだろうって言ってたのも、覚えてる。それだけ、なんだかすごく、覚えてるんだ」
「それって、重要なことなのか」
「わかんない。ただ、覚えてるって、だけ」

会話はそれぎり、ぷつんと切れた。そのうち、坂道になって、階段になった。二人は並んでいたけれど、階段を登るテンポも速度も違って、同田貫が少し先を行った。足音を聞いて、登ってくる海の音を聞いて、ざあざあと、ノイズが混じるのが、わかった。海の音も、においも、御手杵は本当は苦手なのかもしれない。あの夢を見る。靄が出なければ、いい。

いつもの階段の途中で、同田貫と別れた。この瞬間が、御手杵は苦手だ。手を振るのも、「じゃあ」と言うのも、とても、苦手だ。どうしてだか、わからない。何度も喧嘩したし、喧嘩しても、一緒にいた。けれどいつもここで別れる。御手杵は自分の家に続く階段を登るし、同田貫も違う階段を、登っていった。この場所からは海がよく見える。手を振って方向を変えた同田貫の遠ざかる足音を聞きながら、御手杵は少し、その場所に留まった。振り返ると、思っていたよりずっと長い階段が、目下にはあった。その下には、海が広がっている。あの鯨は、いったい、どうして、こんな場所に流れついてしまったのか。きっと、苦しかったのに。きっと、痛かったのに。それはきっと、抗えないなにかがあったに違いない。潮の関係とか、何かが狂っていたとか、そういうのもあるだろうけれど、それでも、どうして。

御手杵は階段に、座り込んだ。そうして、じっと海を眺めた。リュックの中には、白紙の進路希望の、紙。誰かに、ここに行きますって言わないと、そこに行っては、いけないのだろうか。不思議だ。海の匂いが、せりあがってくる。階段を登るとか、そういうんじゃなく、風に運ばれて、飛ぶように、まるで顔に飛沫がかかるように、御手杵には感じられる。だんだんと自分が湿って、びしょびしょになって、海に吸い込まれてゆくようだった。少しだけ、悲しい。夕日が沈みそうになっているからだろうか。あたりはだんだんと暗くなって、民家には明かりが灯った。そろそろ帰らないと、ケータイに、親から電話か、メールが来る。自分から強請ったのに、それがなんだかとても、鬱陶しかった。

家に帰って、夕ご飯を食べて、それから、御手杵は宿題をした。宿題をしているうちに、なんだか気分が、悪くなった。空気が悪いのかと思って、御手杵は窓を開けた。そうしたら、むっとするような、海の匂いがして、なんだか、寂しくなった。それがどうしようもなくなったあたりに、御手杵は同田貫に電話をした。時刻は零時の少し前で、もしかしたらもう寝ているかもしれないと思ったけれど、どうしようもなかった。果たして、同田貫は、電話に出た。

「……ごめん」
『謝るくらいなら、こんな時間に電話とか、すんなよ』
「うん。そう、なんだけど。なあ、正国、どうでもいい話、したい」
『なんでだよ』
「なんでも。どうしても。なんだか、すごく、こわい」
『どうでもいい話とか、俺、思いつかないから、なんか、お前の中にあるもん、ぶちまければ』
「うん……。なんだろう。なにが、あるんだろう。ああ、うん、俺、この町、嫌いなのかも」
『……田舎だしな』
「うん。それもあるんだけど、階段と、海が、なんだか、嫌なんだ。どうしてなのか、わかんないんだけどさ。階段登るたんびに、なんか、思うんだよ。人生って、こんなんなのかなって。なぁ、知ってるか。階段って、登るより、降りる方が大変なんだ」
『んー……ああ、なんか、テレビでやってたかも』
「うん、そう。俺は、もしかしたら、大人っていうものに、なりたくないのかもしれない。ずっと子供のまんまで、目を開けたまま夢を見ていたかったのかも、しれない。今、俺、夢とか、ないし」
『……昔の夢、なんだっけ。あれだ、なんかの特撮のヒーローだ』
「うん、そう。保育園の時、そのごっこ遊びばっかやってて、俺はきっと、本当にヒーローになれるんだって、思ってた。でも、小学校になったら、なんか、そういうのが現実的じゃないなって思って、なんかもっと現実的な職業で、それで、なんだっけ、サッカー選手になりたいって、思ったかも。ほら、小学校の時ってさ、サッカーばかっか、やってたじゃん」
『そうだなあ。ボールがサッカーボールとソフトバレーボールしかなかったし。バレーボールは女子が使ってたし』
「でも高学年になって、それも現実的じゃないなって、思った。で、中学生になったら、なんだかよくわかんないけど、俺、一回だけ、期末で学年一位、取ったじゃんか。だから俺って結構すげーのかも、とか、思って、なんにでもなれそうな気がしてさ。でも結局、夢みたいなものはなくなって、それ目指すのも、探すのも、やめて、高校になったら、本当に、俺は何にもなれないんだなって、確信した。大学に行って、就活して、ありきたりな、中小企業のサラリーマンになるんだなって、思った」
『……俺もそう思ってる』
「じゃあなんのためにこんな苦労して、公式覚えて、英単語覚えて、教科書開いてるんだろう」
『それはお前のことだからわかんないけどさ、七五三の法則ってのが、ある。中卒は七割、高卒は五割、大卒は三割が、三年以内に就職した職場、辞めるんだって。サラリーマンになるにしたって、それなりにキャリア積んだ方が、多分、幸せなんだろうなあ。でも、幸せって、なんなのか、俺にもよくはわからない。みんなで遊んで楽しいとか、家族と過ごせて幸せとか、そういうのって、なんか違う。長い目で見たら人生なんて、辛いばっかで、幸福を感じる瞬間なんて、ほんとうに、少しで、一瞬で、それにしがみついて、ドラッグみたいに、病みつきになって、それを、必死で、探してるだけの、なんか、虚しいもん、なの、かも』
「うん。でも、きっと、俺は臆病者だから、死んだりとかは、できないんだと思う」
『……ああ』
「ずっと、苦しいんだ。ずっと、ずっと、苦しい。今も、苦しい。今まで登ってきた階段を、下りたい。でも、できないんだ。正国が、先に、行くから。俺は、正国と、離れたく、ないから。でも、大学は、別々で、違うとこ、行きたくて。どっかに、行きたい。離れたくないのに、離れたい。そうして、きっと、だんだん、忘れてくんだ。正国の声も、話したことも、この電話のことも。そうしないと、きっと、苦しいんだ。あの浜辺に打ち上げられた鯨みたいに、傷だらけになって、ぼろぼろになって、みんなに見物されながら、死ぬんだ」
『……』
「なあ、正国、なんか、なんか言ってくれよ。こわいんだ。もう、どうしようもない」

目から、ぼろぼろと、海と同じ味のする液体が流れていた。どうしてこんなに苦しいのか、どうしてこんな思いをしなければならないのか、わからなかった。ただ、この部屋には海があった。深くて、暗くて、太陽も届かないような、海。浅瀬が近い、海。

『なあお前、覚えてないのか』
「え、」
『浜辺に打ち上げられた鯨、一頭じゃ、なかった。次の日に、もう一頭、打ち上げられた。怪奇現象だとか、災害の前触れだとか、そういうので、騒がれただろ』
「そう、だっけ」
『俺はさ、そんとき、思ったんだよな。ああ、こいつら友達だったんだなって。先にいっちまったやつのこと追いかけて、自分まで、こんなとこに、きちまったんだなって』

同田貫の声は耳に心地よかった。ノイズに紛れて、吐息のような近さで、ゆったりと、海の中を自由に泳いでいるようだった。

『俺は、お前の方が、ずっと先に行ってるんだと、思ってる』
「……なんで」
『……なんでだろうな。テストの成績とか、そういうのとかでなくって、うん、そうだな。こういう電話、かけてくるから』
「わかんねぇよ」
『俺にも、わかんないんだけど』

この電話は、いつまで繋がっているのだろうかと、思った。料金とか、そういうのでなくて、いったい、いつまでこんな、どうしようもない電話を、同田貫にかけることが、許されるのだろうかと、御手杵は思った。大学に入ったらきっと、こんな携帯電話じゃなくて、スマートフォンに買い替える。そしたら、連絡先とか、どうなるんだろう。別々の大学に行って、そこで友達ができて、たくさんの連絡先を交換して、そうしたら、御手杵の名前は、同田貫の連絡先の、いったい、何番目になるんだろう。もう何年も一緒にいるのに、希薄だ。そういうのにしがみついている。けれど、そういうのがないと、生きられない。開けっ放しの窓から、海の匂いがした。明日の朝は、きっとひどい靄が出る。

『お前がどっかで迷って、そう、あの鯨みたいに、浅瀬に打ち上げられたら、そうだなあ、俺もきっと、追いかける』
「……二頭目の鯨って、どうなったんだっけ」
『……死んだ』
「……駄目じゃん」
『俺は、お前と同じ場所に、辿り着きたい。そこがどこだって、きっと、いいんだ。最後に一緒なら、どこだって、いいんだ』
「……なぁ、正国、窓、開けてるか」
『開けてる』
「海の匂いがする。明日の朝、夜明け前、きっと、靄が出る」
『……ああ、そうかもしれない』
「そういう夜って、俺、苦手なんだ。なあ、ちょっと、会おう。会いたい。こんなので会話しても、もうどうしようもない」
『親は』
「もう寝てる。玄関の鍵開けて待ってるからさ。明日の朝は適当に誤魔化すからさ。なあ、頼むよ」
『……朝まで居るの、前提なんだな』
「騒がなきゃ、大丈夫だろ。騒ぐようなこと、しないだろ」
『わかった。今、行くから』

ぷつんと電話を切って、御手杵は静かに部屋を出た。そうして、二階から、なるべく足音を立てないようにして、玄関まで降り、その鍵を、静かに開けた。そしてぼんやり、冷たい風を見ていた。見えるはずも、ないのに。風がどこから生まれて、どこで終わるのか、御手杵は知らない。ぼんやりとしているうち、階段の下から、同田貫がやってきた。部屋着のまんまで、なんにも持っていない。なんにも、持っていなかった。

「お前の部屋、寒いな」

御手杵の部屋に入った同田貫が、ぼそぼそと、そう言った。窓を開けているせいかもしれない。もう随分、秋だ。

「窓、閉めるか?」
「いや、俺、この匂い、好きなんだ」
「俺は、嫌いだ」

ベッドに並んで二人で座って、身を寄せ合った。遠くから、海のうねる音がする。階段を下りた、ずっと下にある海が、荒れている。風もないのに、不思議だ。その海はたちまちこの部屋を飲み込んで、息苦しくさせた。御手杵の手が、ちょっとだけ同田貫の手に触れて、それが合図のように、二人は手を握った。

「眠いか?」
「眠くない」
「俺も」
「眠れる気がしない」

かといって、話すことも、なかった。何か、話そうとして会ったわけじゃないってこと、二人はよくわかっていた。ただ会いたかった。それだけだ。掌から伝わる熱が、ふたりのぶんだってことを、示していた。

「高校二年の頃」
「高校一年の頃」
「中学の頃」
「小学生の頃」
「保育園」
「赤ん坊」
「生まれる前」

ひとつひとつ遡って、ふたりはゆっくり、階段を降りた。ひどく、痛みを伴った。簡単そうに見えて、ずっと、難しかった。こころのやわいところに触れて、痛めて、もっと下へ、と、二人は手を繋いで、降りていった。意識が混濁して、二人の境目がわからなくなって、けれど階段は、どこまでも続いている。下るのにも、登るのにも、どこまでも、続いている。手を触れて、唇で触れて、もっと、身体の深いところへ。むつかしいことはなんにもなくて、ただ、人間が二人いないとできないことを、静かにした。身体のかたちがかわってゆく。海の味がする。もう戻れないところまで来たと思ったら、朝が来た。窓の外から濃い靄が立ち上って、この部屋にまで、入り込んできた。

「海の匂いがする」
「ずっと、してただろ」
「うん、そうなんだけど、新しい、海」
「鯨がいるような」
「……ああ、あの二頭、きっと、還れたんだ。きっと、そうなんだ」

自分たちは、還ることができるのだろうか。わからない。この先が真っ暗な深海なのか、それとも、身体を傷つける浅瀬なのか、その判別もつかない。群青色をした空が、窓の外で海と溶けて、ひとつのようだった。ただそれだけが、うつくしく、記憶に残った。きっと、何年も、何年も、忘れないだろう。遠くで、波の音がする。きっと、終わりは、同じ場所。


END


You can’t get away from yourself by moving from one place to another.
(あちこち旅をしてまわっても、自分から逃げることはできない)
by.Ernest Hemingway

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