本丸 | ナノ

episode 3
いろはにほへと



「い、ろ、……御手杵殿、それでは『ろ』が逆になっております」
「うへぇー……」

手入れが終わってまた出陣、と思っていたら違ったらしい。手入れ部屋から出てきた御手杵を待ち構えていたのは教材を持った蜻蛉切だった。蜻蛉切は御手杵を脚の低い長机を並べた部屋へ引っ張ってゆくと、丁寧に文字を教え始めた。今日の目標は「いろはにほへと」が書けるようになることらしい。

部屋には他にも刀がいて、ここは勉強部屋らしかった。多分御手杵と同じく最近来たのだろう、鶴丸国永が同じようにいろはにほへとをやっている。といっても鶴丸の方はもっと進んで、最後の「えひもせす」をやっている。教えているのは一期一振だった。時折鶴丸がくだらないことをしては一期一振にとやかく叱られている。それから、もっと進むと算数や歴史もやるのだろう、短刀たちは難しい顔をしながら御手杵にはとうていわからないような難しい問題をすらすらと解いていた。人間の子供は幼い方がずっと物事が頭に入ると言われているが、付喪神の見た目にもそれは通用するのだろうか、と考えたところで蜻蛉切に定規で手をはたかれた。

「いてっ」
「御手杵殿、集中してください」
「こんなことやってなんになるんだよぉ」
「こんなこと、ではありまぬ。これができねば兵法の書も読むことができないばかりか作戦を練るにも文書のやりとりができませんぞ。さ、また最初から。い、ろ、は、に……」
「ううう……」

図らずとも同田貫が言っていた「槍らしく槍と戯れてろ」という言葉通りになってしまい、御手杵は歯噛みする。こんなこと(口に出せばまた蜻蛉切に叱られるに違いないが)をしている場合ではないのだ。御手杵は、自分ははやく練度をあげるためにも戦場に出るか手合わせをするかしないといけないと思っていた。自分を弱いと言わしめた同田貫をどうにかして見返して誉もたくさんとって、それから、それから、と焦りばかりがわいてくる。

「御手杵殿、少々集中が足りないようで」
「……いや、これがさ、のちのち大事だってのはさ、わかんだけどさ、それはのちのちであって、今じゃないっていうか……俺ははやく戦に行きたいっていうか……」
「これはのちのち大事なのではなく、今大事なのです。御手杵殿、失礼ですが地図は読めますか」

痛いところをつかれて、御手杵はうっと唸った。函館では地図が読めずに敵の本陣に辿り着けもしなかったのだ。来た道を戻っただけとはいえ、本丸に辿り着けたのは奇跡だったかもしれない。

「ほんとうの戦は部隊で行います。そのときの作戦は表に書き出して、文字を使って練ります。連絡事項も書簡で行われるのが常です。そのとき必要になるのが文字です。文字はすべての基礎、全員が知っておかなくては戦にも出られぬとお思いください」

御手杵はなんにも言い返す言葉が見つからなくて、ぐう、と黙ってしまった。どうやらこれを覚えなければ部隊に組み込まれもしないらしい。しかし同田貫のような不愛想で粗野な刀がこれをマスターしているのかと聞かれたら首を横に傾げざるをえない。同田貫は最初の頃に本丸に来たと長谷部が言っていたことからして、初めの頃はその基準も緩かったのではないかと思った。それでほんとうは読み書きも満足にできないけれど練度だけは上がって、それで強いから今も部隊に組み込まれているんじゃないかと思えてしかたなかった。

「なにか言いたそうですな」
「うっ」
「溜めていても仕方ありません。言ってくだされ」

蜻蛉切にそう言ってにっこり微笑まれては、隠すものも隠せない。

「……あのさ、これ、第一部隊のやつら、全員完璧にマスターしてんの?」

御手杵のその質問に、蜻蛉切は少し拍子抜けしたような顔になった。

「はあ、しておりますが……自分は同田貫殿に教わりました」
「えっ!?」
「なにをそんなに驚きで……同田貫殿はこの本丸でも一二を争うほど教養に長けております。そこらの短刀にも、勉学を教えたのは同田貫殿と聞き及んでおりますが」
「嘘だろぉ……」

蜻蛉切が言うのだから嘘ではないとわかったがしかし、頭が理解を拒んでいる。同田貫のイメージが悪すぎた。何が「このお坊ちゃんが」だ、なにが「テメーは弱い」だ、と、同田貫に言われたむかむかするワードが脳内をぐるぐる巡る。子供じみた考えだというのはよくわかったし、それが「お坊ちゃん」と言われるゆえんなのもなんとなくわかってはきたのだけれど、わかるのと聞き分けるのと理解するのとそれに沿って行動するというのは全く別々のところにある。御手杵がぐるぐると考え込むと、蜻蛉切がそれを見かねたらしく、「手入れ部屋で何かありましたかな」と。御手杵はこの腹のむかつきをどうにか吐き出してしまおうと、悪口にはならない程度に、同田貫に何を言われたか、つらつらと、ぼそぼそと、蜻蛉切に話した。

御手杵が最後、ちょっとした意趣返しも込めて「槍は槍と戯れてろって言われた」と言うと、蜻蛉切は「なるほど」と小さく頷いた。御手杵には何が「なるほど」なのかわからない。

「まぁ、たしかに同田貫殿も人が悪い。言葉の強いのは同田貫殿らしいと言えばらしいですが……しかし、そうですな、最後の言葉はそのままの意味ではないのでしょう」
「……どういう意味だよ」
「槍は槍と、というのは、きっと自分と手合わせをして槍術の基本を覚えるのがよいということでしょうな。同田貫殿は太刀、槍の扱いを知るよしもない。まずは基本の槍の扱いを心得るがいいという同田貫殿なりの助言でしょう」
「……は?」
「いえ、同田貫殿はわかりにくいところがありますので、こういった誤解もしばしば……しかし決して悪い刀ではないので……」

御手杵はいまひとつ腑に落ちないところがあったがしかし、これは誤解だとかわかりにくいで片づけていい問題なのだろうか、と首をひねるばかりである。しかし遡ればたしかに自分にも非があったことは否めない。初対面(前に一度顔は合わせているが)に向かって上からものを頼んでしまったことには間違いがなかったし、最後の一言も助言であったと考えられなくもないようなそんな気がするような気がしないようなかんじになってくると、同田貫はそんなに悪いやつではないのではないかと思えてきた。しかしそれでも腹が立つものは腹が立つのだ。腹が立つ言い方をする方が悪い。御手杵はそこに終着を見出すと、「俺、あいつ苦手だわ」と言っていた。蜻蛉切に溜息をつかれた。

しかし、なにがどうしたってまずは「いろはにほへと」、だ。御手杵はあいつにできるなら俺にだって、と思いながら、鉛筆を動かした。いろはにほへと。


END

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