とある名もなき怪物について
「俺には怪物が住み着いている」
鶴丸がそんなことを言いだしたのはしんとした夜だった。最近は夜が毎晩訪れる。当たり前のような顔をして、毎晩それはやってくる。しんと静まり返っていて、ねっとりと暗く、なにもかもを呑み込んでしまうような夜。今晩はまだましだった。大きな月が出ていたし、ざあざあとさざ波のような風が吹いていた。一期一振はいつもよりずっと静かな鶴丸の声に、なんと返したらいいのかと思った。縁側には二人ぎりだった。あとは寝静まっている。みんなが寝静まったあとにひっそりと二人で逢うのが二人の約束だった。それはちゃんとした約束の形をしていなかったけれど。何もゆびきりをして二人で逢おうと約束したわけではないのだ。何もない日の夜に、一期一振がなんとはなしに縁側に出たのがはじまりだった。そのときもやっぱり鶴丸が縁側に座っていた。一期一振が「寝ないのですか」と尋ねたら、「眠れないんだ。少し話でもしよう」と誘われたのがはじまりだった。それから一期一振はなんとなく気になるので夜の縁側に顔を出すようになった。鶴丸はいつもそこにいる。だから一期一振は気になってしまっていつも顔を出す。だから約束でもないお約束。
鶴丸は夜眠れない病気にかかっているらしい。じっと布団にうずくまっていることが苦痛なのだそうだ。一期一振ははじめ鶴丸らしいと思ったが、あとになってから事態はもう少し深刻なのだと気が付いた。一期一振は鶴丸が寝ているところを見たことがない。いつ寝ているのだと鶴丸に尋ねたこともあったが、そのとき鶴丸は「俺はもう一生分寝てしまったからもう寝なくてもいい身体になったんだ」と冗談のようなうそ寒いようなことを言った。それから一期一振は考えるのだ。鶴丸にとって夜というのはどれだけの苦痛なのだろうと。しかし当の鶴丸は一期一振が姿を見せるとなんてことはないように振る舞って、あることないことを話し出す。今日はこんな驚きがあっただとかそんな驚きを与えただとかそういう話だ。あとは主に聞いた人間の話、文化の話、世界の話。鶴丸の口からはその白一色な衣装とは裏腹に虹色の話が出てくる。聞いていて退屈しない。けれど退屈しないからといってずっと聞いているわけにもいかない。その話は一期一振を引き留めるけれど一期一振は鶴丸と違って寝なくては活動できない身体なのだ。いつも一期一振は上の瞼と下の瞼が仲良くしはじめるまでその話を聞いて、そうして「すみません、私はそろそろ寝ないといけませんので」と断って部屋へ戻る。その間際にも鶴丸は「じゃあな」とことも無げに返してくるのだから、その心中は推し量ることができない。そんな鶴丸が今日は月が明るいからと暗い声で冒頭のセリフを口にしたのだ。
「かいぶつ」
一期一振ははじめその言葉の意味がわからなかった。また七色の話かと思ったのに、その言葉はどこまでもどこまでも真っ暗で、まるで月のない夜のようだと思った。
「それは、どのような…どこに…どうして…」
「夜に似ていて、俺の腹の中に、どうしてか」
「…それは…それは…なんなのですか」
「強いて言うなら退屈」
鶴丸はことも無げにそう言った。そう言って、退屈そうに溜息を吐き出した。その溜息には退屈というものが凝っていて、なるほど、本当に腹の中にそれはいるのだな、と一期一振は納得した。
「そいつはな、俺の腹から染み出して、いつも別の顔をして外に出てくるんだ。そいつはつまるところ夜なんだ。だから毎晩夜がくる。暗くて、静かで、全部を呑み込んでしまうような夜だ。俺はそれがいっとう怖い。だからここでいつも見張ってるんだ。夜がみんなに流れていかないように。俺の中にだけ戻ってくるように」
「…それでは、鶴丸殿はずっと夜なのでは…」
「かまわんさ、夜には慣れている。慣れすぎて今ではもう俺が夜みたいなもんだ」
一期一振はざあざあとうめき声をあげる夜に目をやって、「夜」と呟いた。鶴丸はとても恐ろしいものを腹の中に飼っているのだと思った。そうして平気な顔をしているのだ。恐ろしい男だと思った。そう思った瞬間、鶴丸の輪郭がぐんにゃりと崩れて、少しだけ夜に溶け込んだ。一期一振がぎょっとして目を瞬かせると、それはもうもとの鶴丸に戻っていて、それもまた恐ろしかった。
「だがなぁ、こいつを表現するのに、退屈だとか夜だとかそういうんじゃ、うまくないんだよ。もっと怖いもんだ。もっとなにか、なんかあるんだ。退屈も夜もこいつの一部で、一端で、抽象的なものにしかすぎないんだ。名前がない。つけようがない。だから俺はこいつをどうにもできない。ずっと俺の中に居座り続けて俺を苛む。なんなんだろうなあ、なんなんだろうなあ」
鶴丸はさも楽しそうにそう言って身体を揺すった。揺すって、一期一振のすぐ隣、身体の端が触れ合うくらいにまで近づいた。そうしてやはりさも楽しそうに、「ここまで話したのはお前が初めてだ」と言った。
「お礼に少しだけ怪物を分けてやろう」
「え、」
「目を閉じろ」
鶴丸は一期一振が有無を言う前にその目を掌で覆ってしまった。そうして、ふわりと香りを残して、一期一振に口づける。一期一振は掌を目から離されても、何が起こったかわからず目を瞬かせた。目の前にはいたずらをした時の顔の鶴丸がいるばかりだ。
「と、いうのは全部嘘だ」
「え、」
「少しでも信じたか?」
「えっ」
「ははは、素直で正直なやつだなぁ」
鶴丸はけらけらと笑うと、一期一振から離れて、ぐぐっと背伸びをした。一期一振はからかわれたのだと知ると、顔を赤くして「鶴丸殿!」と鶴丸を責めた。しかし鶴丸はちっともこたえない様子で「退屈しのぎにはなったろう」と。
「もう、あなたは、まったく…。…今日はもう寝ます」
「おう、そうしておけ」
一期一振は肩を怒らせて立ち上がると、部屋の方へと脚を一歩踏み出した。すると背後から「と、いうのが、嘘」という小さな声が聞こえた。驚いて振り返るとそこには鶴丸の姿はなく、ざあざあと夜が唸っているばかりだ。一期一振は踏み出した脚を元に戻し、「鶴丸殿?」と呼びかけるが、返事はない。どこへ行ったのか、と見回すもその姿はどこにも見当たらない。うそ寒くなったあたりに、腹のあたりがずっと重くなるのを感じた。それは夜のどことも知れない暗がりと繋がっているように思えて、そうでないような気がして、もっと深くて重くてずっとずっと寂しいもののような気がした。さっきまでのことが本当に本当のような気がして、「鶴丸殿」ともう一度呼びかけた。返事はない。ただ名前のない怪物がそこにいるだけだ。
END