僕から君を奪う朝が来て






朝、日高が目を覚ました時、目覚ましのアラームの音に紛れて、かすかな雨のにおいがした。二段ベッドのところにまでそれは忍び込んできていた。日高は目覚ましのアラームを止めて、からりと窓を少しだけ開けた。その隙間から、さらさらと雨が部屋に滴った。雨が降っているのだと、あたりまえなことを日高は思った。雨が降っている。その雨に、日高は眉をひそめた。どこかで海鳴りの音が聞こえたような気がしたからだ。

雨はいつからか、日高にとっての海となっていた。雨は日高の頬を濡らした。朝から降る雨は、いっそう、そうだった。雨粒がどこからかやってきて、日高の頬を濡らすのだ。それは雨らしくなく暖かなものだったけれど、きっと雨なのだ。ぼんやりと窓の隙間を眺めてから、日高は静かに瞼を伏せた。そこには思い出の断片があった。きらきらと腫れた日の海のように光っているくせに、どこかセピア色をした思い出だ。トヨタのプロボックスに乗って、音楽を聴きながら行った、海の思い出だった。それはもうなつかしみを日高に感じさせた。「一年か」と日高は呟いた。その呟きは、まだベッドの中にいた五島の耳にも入っていたが、五島は素知らぬ顔で、自分の目覚ましが鳴るのをじっと待っているようだった。日高は頬の雨をぬぐってから、窓を閉めた。

朝だった。日高は洗面所で顔を洗いながら、朝がきたのだと、ずっと考えていた。それは考えるまでもなく朝だったのだけれど、その朝という概念に、日高はずっと、悲しみにも似た気持ちを抱えていた。毎日、朝はやってくる。日高がどんなに夜更かしをしたところで、いつの間にか夜は過ぎ去って、朝がやってくるのだ。不思議なものだと、日高は朝の日差しや、曇りの隙間の陽光や、朝雨の中で思った。その朝の中に含まれていないものをただひたすらに思った。タオルで水滴を払って、こざっぱりとした自分の顔を鏡に見た時、日高は自然と首を傾げた。これは誰だろうと、心から疑問に思ったのだ。その日高の顔はひっそりと何かが削げ落ちていた。体重が減っただとか、顎が尖っただとか、そういうことではなく、なにか大切なものがごっそりと抜け落ちたような、半分透明になってしまったような、そんなかんばせだったのだ。日高はじっとその鏡を見つめてから、ぼんやりと、頬に手を添えた。それは先ほどまで日高の顔を洗っていた水に冷やされて、すっきりと冷たく引き締まっていた。しかし、驚くほどには冷たくなかった。その驚くほどの冷たさを、日高は知っている。それがなんなのかは、いまだによくわからなかったけれど。

その日の雨はずっとずっと降り続いた。ただひたすらに、そうせねばならぬとでもいうふうに、降り続いた。仕事が終わってからも降り続いていて、日高はこの雨はいつになったら止むのだろうと思った。しかし、心のどこかで、ずっと降り続いていて欲しいとも思うのだ。傘の隙間から薄暗い空を見上げて、たしかに誰かの名前を呼んだ。そうしたら、海のにおいがした。砂を含んだような、ねっとりと重たい、海のにおいだ。日高は目を伏せて、その音に耳をすました。ざあざあと波が寄せては返すような、そんな音だと思った。

日高は雨の中で眠りについた。もちろん、野ざらしになって寝たというわけではない。窓からしめやかに聞こえる雨の音を聞きながら、眠ったのだ。

雨の気配はどこにだって潜んでいた。それは日高の枕元にまで忍び寄ってきて、日高に寄り添った。そうして、夢を見させた。冷たい顔をしているくせに、暖かなたたずまいの夢だ。日高はいつかの木陰の中に座っていた。そこの天気というのはさわやかに晴れ渡っていた。日高がぼんやりとしていると、その隣の草がひっそりと倒れた。そちらに目をやると、誰だったかがそこに腰掛けていた。日高は思い出そうとしても、それを思い出せなかった。そういうふうにできているらしかった。その人物は日高に対して「お久しぶりです」と言った。日高はただありきたりに、「ああ、久しぶり」とあいさつをした。その人物は男だった。彼はにっこりと笑うと、「日高さんにひとついいことを教えてあげます」と言った。日高が首を傾げると、彼はすうっとその細い両腕を伸ばして、日高の耳をぴったりと、しかし優しい手つきでふさいだ。日高はその心地よさに、まどろんで、目を伏せた。ざあざあと音がした。雨のような、海のうねりのような、そんな音だと思った。その音の向こうで、彼は何事か囁いた。しかしそれは掌の音によってかき消され、終ぞ日高に聞き取ることはできなかった。そして、その両手が日高の耳から離れるときになって、日高がそれを尋ねようとしたときには、もう誰もいなかった。そして、日高から彼を奪った、朝がきた。

日高が例によって目を覚ました時、部屋からはやはり、雨のにおいがした。日高は昨日と同じように、ひっそりとベッドを抜け出し、からりと窓を開けた。昨日より、ずっと広く、開け放った。外は昨日からの雨だった。しかし、それは昨日までの雨とは違っているのだと、日高にはわかった。そして、その雨をじっと見つめてから、そろりと両手を持ち上げ、耳をふさぎ、瞼を落とした。耳をふさいでも、雨の音は聞こえた。ざあざあと、鳴りやまぬ雨の音が聞こえた。しかし、これは生きている音なのだと、日高にはわかっていた。自分の掌の奥深くから、もしくは耳のあたりの奥のところで響いている、暖かな音なのだと、わかっていた。そう思ったら、頬に雨が垂れてきた。しかし日高にはもうわかっていた、これが雨なんてものではないのだと。認めて、そうして、朝がきたのだと、思った。日高に新しい一日を与える、朝だ。


END

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