行くも戻るもいばらの隘路
「君、この部屋は世界で一番幸福から遠いところにあるとは思いませんか」
宗像がそう言うと伏見は嫌そうな顔をした。ここは宗像の自室だった。伏見の部屋なんかよりはずっと広く、ベッドも広い。宗像はその部屋のベッドに腰掛けて、煙草を吸っていた。いつもの銘柄だ。
「どうでもいいですけど、煙草はやめてください。臭いが髪とか服につくんで。日高が目ざとい…鼻がいいんですよ」
「そうでしたか。それは申し訳ないです」
そう言いつつも、宗像はふうと煙を吐き出した。その煙草を消してしまうつもりはないらしい。伏見は迷惑そうにひらひらと手を振って、その煙を自分から遠ざけた。
「ところで、幸福というものについて君、考えたことはありますか」
「ありません。そこらに転がってるもんじゃないですか」
「ほう。ではこの部屋には転がっていますか」
「…見たところないですね」
「見えるものですか」
「見えなくてもわかるもんです。俺とあんたが揃ってる」
「では、この部屋はやはり幸福からは一番遠いところにあるのですね」
「もっと不幸な人間なんてたくさんいます」
「君らしからぬ発言ですが」
「馬鹿は幸福になれないだけです」
「君らしい。では私も君も馬鹿なのですね」
「そうとは…言ってませんが」
伏見は自分の幼稚な発言に舌打ちをした。宗像は胸いっぱいに煙草の煙を吸って、吐き出した。部屋の空気が一瞬白くなる。その部屋の中で二人はさっきまで幸福の先にある行為をしていた。しかし二人のそれは幸福の先にはなかった。物欲の先にある行為だった。二人とも求めてはいたけれど、手に入れたものは違うものなのだ。本当に欲しいものはこの部屋にはなかったし、手に入るような気もしていなかった。二人は二人でしなければならない行為をただ一人で行っていたのだ。そこには快楽だけがあった。偽装された快楽だ。
「きっと私たちは幸福になんかなれやしないのです」
「そうですね」
「幸福のかたちもわからないものですから。かたちもわからないものになることはできないものです」
「…そうですか」
「そんなものですよ」
宗像はそう言うと、また煙草を吸った。しかしそれはもうフィルターが焦げ始めていたので、やむなく灰皿に押し付ける。じりじりと音がして、赤い火が灰色に変わった。伏見はこの部屋を見回してみて、幸福の影がどこにもないことを確かめると、やっと安心した。見えもしないものだったけれど。
END