隣の水は甘くて苦い
日高はたまにふつりと音を鳴らさなくなる時がある。そういう時の日高の横顔や背中はとても寂しそうで、瞳はぼんやりと、どこを見ているのかわからなくなる。そしてその横顔は、いつもの無邪気な少年のようなそれでなく、ただ思い出に沈む、男の顔をしている。俺はそんな日高の横顔や背中がとても苦手で、しかし、とてつもなく、それに惹かれた。苦手なのは、そのとき日高が誰のことを考えているのか容易に想像がついてしまうのと、日高の中に凝っている暗闇のような部分に踏み入るのが怖くなるから。そして、そのかんばせに見惚れてしまう自分に、嫌気がさすからだ。日高はそのとき、とてもいい顔をしているのだ。いい顔、というのは、整っているだとか、美形だ、とか、そういうことではない。人が一人の人生を歩んでいる、という顔をしているからだ。日高はきちんと自分の人生を歩んでいる。他の誰も、歩きようのない道を。そしてその中でふと立ち止まっている瞬間が、そこには凝縮されていた。立ち止まって、悩んで、けれど、やはり、日高は前へ前へと歩んでゆく。それがとても悲しくて、辛いことのはずなのに。
その日の仕事終わり、少し日高と買い物に出かけた。なんてことはない、本屋でいつも買っている雑誌の新刊を買いに出ただけだ。それから、入用の日用品を少し。その帰りに、ふと空を見て、真っ暗な中にちかちかと星が光っているのが見えた。俺が日高に「星が見える」と何気なく言うと、日高も上を向いた。そうして、「その」顔になった。ぼんやりと、立ち止まって、眠たいような目で星を見上げている。俺は声をかけられなくなって、ひっそりと、星を見るふりをして日高の横顔を盗み見た。いい顔をしていた。日高にこんな顔をさせる人物は、たった一人しかいないのだ。そして、その人物に俺がなることは、決してない。誰も歩めない人生を、その人物は歩み切って、俺は俺の人生を、苦しがりながらもどうにか生きている。そういうものだと思った。日高は少しすると、そのぼんやりした顔のままぽつり、「綺麗ですね」と言った。俺はどう答えたものかなと思ってから、ありきたりに「綺麗だな」と答えた。星の名前は知らない。知ろうとも、あまり思わない。けれど知ったなら、面白いのだろうなとは思う。
「なんか最近寒くなってきましたね。夏も、もう終わりかぁ」
日高は、またいつもの調子に戻って、そんなことを言った。へらりと笑ってみせる顔に、俺は少なからず安堵する。もう秋なのか、と思った。どちらともなく歩き出せば、自然と、冷たい風が頬を撫でた。こうやって、人は歩いてゆくのだろうな、と、俺は思った。俺は日高の隣を歩いている。そして、日高は俺の隣を歩いてくれている。そしてたまに立ち止まって、また歩き出して。何回もそれを繰り返して、大人になった気になる。もう、いい大人なはずなのに。けれど、俺たちはどうして、いつも思うのだ。もっと大人にならなければいけないと。それがどうしてなのかは、わからないけれど。きっと、その理由は日高のあの横顔に、少し似ている。そんな気がした。
END