どうか、この慟哭が届く距離にいて






※帝光時代


黒子は昼休み、赤司にちょっとした用事があり、赤司のクラスを訪ねた。果たして赤司は珍しくその教室で大人しくしていた。その机の上にには将棋盤が置いてあり、赤司の向かいには誰も座っていない。しかし赤司は真剣な顔をしてその将棋盤をにらんでいる。黒子がちょっと声をかけるのを戸惑ったくらいだ。はじめ黒子は一人将棋でもやっているのかと思った。詰将棋にしては手数が多すぎたし、盤上に置かれている駒の数も普通の対局と遜色ないほどだったものだから。黒子は将棋というものにさして詳しいわけではなかったが、ルール程度は把握していたし、赤司と緑間がいつも難しい顔をしてその盤を見つめているので、それなりに将棋というものの奥深さは知っていた。黒子が声をかけられずにいると、赤司が何か察したらしく、ふと、視線を持ち上げた。

「オレに用か、黒子」
「ええ、まぁ、用というほどのことでもないのですが。少しだけ聞きたいことがあって。それより、邪魔をしてしまったようですみません。棋譜の検討ですか?」
「いや、詰将棋だ」
「…詰将棋にしては…らしくないものですね」

黒子は八十一マスの盤上に並ぶ駒の数を見て、首をかしげて見せた。黒子の知っている詰将棋は基礎的な三手詰めや、長くても十手程度で詰むものだった。赤司はたまにそれ以上のものを検討していたりするが、そのあたりになると一手目をどこに置いたらいいのかすら黒子にはわからなくなる。今の盤上にしたってそうだ。黒子なら王手ではなく相手のとれそうな大駒を取りそうになってしまう。

「ミクロコスモスと言う詰将棋だ。一番長い詰将棋らしい」
「はあ、何手で詰むんですか?100とか…」
「それならかわいいものだけれどね。1525手詰めだよ。通常の対局でもここまで長くはならない。むしろ200に届かないで終わるものがほとんどだ」
「それは…もう詰将棋ではないのでは…」
「そうだね。けれど詰将棋だ。詰将棋のルールにのっとって作られている。オレは王手以外を打つことはできないし、最終的には詰むと決まっている盤上だ」
「赤司君は今何手目なんですか?」
「まだ指していないけれど…半分程度までは読んだかな」
「君の頭の中を一度覗いてみたいものです」

赤司は頬杖をついて、くすりと笑ってみせた。ところで用事というのはなんなのかな、と言われた気がして、黒子は「あ、」と思った。

「今度の合宿についてです。予定表を、もらいそびれてしまって。顧問の先生に聞いたら赤司君が残部を持っているから、と」
「ああ、その件か。それなら今渡せる」

赤司はバッグから部活用らしいファイルを取り出し、その中から藁半紙を一枚取り出した。A3の裏表印刷で、注意事項もそこそこに三日ぶんの予定が書かれている。合宿は再来週の三連休に催されることになっていた。

「今度の合宿もハードですね」

黒子は予定を見ただけで吐きそうになりながら、そう言った。練習メニューはそこまで詳しく書かれていなかったが、普段よりも幾分かハードなものになることはやすやすと想像できた。黒子は「ついていけるといいんですが」と悩ましげにひとりごちる。赤司は将棋盤で一手を指しながら、「ついていけないのはお前だけじゃないだろう」と言った。

「三軍の部員から退部届けを何通か受け取った。そろそろ潮時だと判断したんだろう」
「…そう、ですか」
「悩ましげだな」
「三軍には知り合いが多いですから。僕だって、もしかしたらまだそこにいたのかもしれません。そして、もしかしたら、赤司君に退部届を提出していたかもしれないんです」
「…けれどその『手』はもうないだろう」

黒子はまんじりとその盤上を見つめた。それは運命のような様相をして黒子を見つめ返してくる。そして指し手は赤司だった。王のいない盤上には、星のように大小の駒が並べられている。そのうちひときわ大きなものを、黒子は青峰のようだと思った。竜の駒だ。この盤上にはいくつもの『手』が存在している。しかし、正しい『手』は一手だけだ。そしてその正しい一つを、赤司は選び取った。この先1525回、赤司はそれを繰り返すのだろう。玉を捕えるまで。ただひたすらに正しい手を、一手一手、読みたがわぬように。赤司は放置してしまっていた成桂を同玉で捕えた。黒子はふと考えて、「7二と金」と言った。思い付きの一手だった。赤司はそれを一笑して、「7二桂成」を打つ。

「先々を読まなければいけないのが将棋の面白いところだよ。7二と金ではあとが続かない」
「難しいですね。僕にはこの玉がどうすれば詰むのか、その算段はつきそうにありません」
「大駒をいくつ落そうと、こちらに王はいない。いるのは相手の玉だけだ。ただそれを、間違いのない手で、最速の手数で追い詰めればいい」
「それは楽しいものですか」
「暇つぶしにはなるかな。やはり対人戦の方が性に合っている」
「…僕にはよく、わかりませんが」

黒子は盤上を一瞥してから、「プリント、ありがとうございました」と言って、踵を返す。長居してもあとが続きそうになかったものだから。背後でパチン、と、赤司がまた駒を進めた音がした。その音のぶんだけ、黒子は赤司がどんどんと遠い場所へ行ってしまう気がした。黒子が間違っている間に、赤司はただただ、最速の道を、正しい道を、選び取っている。それが正しいのか、正しくないのかは、わからなかったが。


END



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