目を瞑って耳を塞いだって逃れられないのはもうきっとずっと前から決まっていたから




七月某日、晴レ。
第一部隊、厚樫山ヘ出陣。
部隊長、へし切長谷部、隊員、厚藤四郎、にっかり青江、燭台切光忠、同田貫正国、御手杵。

本丸の景趣は夏に合わせてあったが、厚樫山はいつものとおり、霧雨の降る秋の山であった。部隊は暑さから逃れることができ、息のつける涼しさにいくつかの軽口を叩いた。そこを部隊長のへし切長谷部がたしなめる。しかし兜の緒は充分すぎるほど締められていた。この霧雨の中、どうして気を緩めることができるだろう。呼吸をするたんび、それらの細かい粒子は口の中を湿らせ、ここが戦場なのだと訴えかけてくる。そうだ、ここは血腥い、戦場なのだ。

第一部隊、巳ノ方角ヘ進行。
敵ト思ハレル部隊ト、遭遇。

鋭い稲光と共に、それは現れた。見慣れた異形どもとは似ているようで、似つかない、それ。部隊長の長谷部が鋭く陣形を整えるように指示しなければ、敵と認識することすらできなかったやもしれない。突然の出来事に、敵方の陣形を見極めることもできず、統率のとれる横隊陣での応戦となった。ごろごろと不吉な雷鳴とともに、戦いの火蓋が切って落とされる。

形勢、不利。。
部隊ハ劣勢ヲ極メル。

長谷部の指示は間違ってはいなかったのだろう。見慣れぬ相手に慎重になるのは、世の常である。相手の陣形がわからぬ以上、最も統率のとれる陣形を選ぶのは決して間違ったことではない。しかし、相手はそれを読んでいたかのように、部隊を取り囲む陣形であった。形勢が不利とわかった頃には厚と青江が戦線を維持できなくなっていた。長谷部が撤退を指示するより早く、柄の長い敵の得物が同田貫を襲う。陣形は崩れ、部隊長の長谷部も深手を負った。部隊は崩壊――。

第一部隊、敗北ヲ喫ス。
部隊ハ壊滅。
重傷、三。
中傷、一。

行方不明、一。




目を覚ました時、そこは見慣れぬ部屋であった。あたりを見回せば、そこが畳敷きで、和の装いをした建築物だということはわかったが、それ以外の情報が、一切入ってこなかった。身体を起こそうとするも、痛みが強く、上半身を持ち上げることもできない。低く呻いたあと、ここはどこだろう、と重苦しい不安を覚えた。そうしてから、自分の記憶の不確かさに気がつき、ひどい違和感を覚える。その時、障子の向こうに気配がした。身構える間もなく、障子がすらりと開き、そこに青緑色をした長い髪の男が立った。

「おや、目が覚めたんだね」

警戒をした。見知らぬ男であったのと、自分の置かれた状況がわからなかったのとで、まず口をついて「誰だ」という質問が出た。その言葉に男は目を丸くして、「おや……ずいぶんな挨拶だね。……僕はにっかり青江。君の本丸にはにっかり青江はいないのかい?」と首を傾げる。妙な名前だと思った。人の名には程遠かったが、しかし、それがなんらかの名称であり、その男を指すのだということは、理解ができた。ずきんと頭が痛み、顔をしかめる。

「本丸……?」
「そう。ここは本丸だよ。君の存在していい本丸では、ないけれど」
「まて、どういう……本丸って、なんだ」

その言葉を聞いて、男は髪に隠れていない方の目を、まあるくした。

「この本丸に君はまだいない……けれど、冗談を言うような風には、見えないねえ……うん、そうは見えない。ほんとうに、本丸がなんなのかわからないのかい?」
「……だから聞いてる」
「そう。じゃあ、自分のことは、わかるかい」
「……?」

そう聞かれてはじめて、自分の中に存在する大きな虚と対峙した。まったく、なんにも、思い出せなかった。頭痛が酷くなり、顔をしかめる。記憶が真黒に塗りつぶされているように、思い出そうと目を凝らしても、なんにも見えやしない。おそろしかった。震えがきて、指先がぴくりと動く。

「わからないのかい。じゃあ、なにか思い出せることは」
「…なんだ、か、」
「なんでもいいんだ。なにかの言葉でも、いいから」

頭の中に、漢字も当てられないような、音のかたまりがこびりついていた。なにかの名称だ。これはきっと、名前。ただひとつ、唯一の、名前だ。自分の、名前。

「おて、ぎね……」
「……そう」
「……俺の名前だ」
「……その名前の漢字は、思い出せるかい」
「……いや……」
「じゃあ、教えてあげよう」

青江は部屋に置いてあった文机から紙と筆を取り、そこへさらさらとうつくしい並びで、三文字、したためた。

「これが漢字」
「……御手杵……」
「自分の漢字もわからないなんて、妙な話だねえ」

その漢字を見たとき、すとんと、なにかが内臓に落ちてきた。御手杵。その並びを「おてぎね」と読むこともわかったし、既視感も感じた。何度も目で追っていたような、そんな気が、する。自分の中に唯一残っていた、名前。やっと息のつく心地がした。

「僕はここの主に君のこと、報告しなくっちゃいけない。記憶がないってね。この本丸のことや君のこと、説明するのはそのあとだ。今は混乱しているかもしれないけれど、とりあえず傷を治すことに専念してくれ。君をもとの居場所に戻すのに、このままじゃあ、いけないから」

青江はそう、少し早口に言うと、「じゃあ、ちょっと失礼」と言って、部屋を出て行った。その会話の中にも耳慣れない言葉が出てきたが、今はもう考えることが面倒だった。青江の気配が遠ざかるとすぐに意識は闇に落ち、鈍い痛みとともに、沈んでいった。


次に目が覚めたときには、身体の傷がもう跡形もなくなっていた。あんなに酷く痛んで身体を起こすこともできずにいたのに、どうしたことだろうと不思議に思う。自分はいったいどれほど眠っていたのだろう、障子の中も外も薄暗く、もう陽がないのだとわかった。それからじっと目を閉じてなにか思い出そうとしても、なんにも思い出せない。思い出すことができるのは、やはりあの音の並びだ。自分の名前だけしか、思い出すことができない。ずきんずきんと、頭が痛む。その痛むところに手をやっても、ざりざりと髪の毛がこすれるばかりで、傷のようなものはなんにもない。

「やあ、手入れが終わったね」

それに夢中になっていたせいか、障子が開いたのにも、気がつかなかった。驚いて顔を上げると、そこには青江の姿があった。昨日なのか、一昨日なのか、それとももっと前なのか、とにかくその時の記憶はきちんと蓄積されている。

「主が嘆いていたよ。やっぱり他の本丸の刀の手入れは勝手が違うらしい。普通なら一日もかからないのに、君の場合は三日もかかったって。どうだい、手入れが終わって、なにか思い出したかい」

青江の並べ立てた言葉は音の羅列のようになって、うまく頭に入ってこなかった。しかし自分の傷が三日で治った、ということはなんとはなしに理解することができた。しかしわからないことが多い。黙ったまんま頭を抱えると、青江が「やっぱりダメか」と言った。なにが「やっぱり」なのか、わからない。頭が痛む。

「そうだねえ。ああ、そう、君をもとの本丸に戻す手はずが整ったよ。わかりやすく言うと、君の身元がわかって、帰るべきところへ帰すための手はずが、整った。明日の正午に君をもとの場所を帰す」
「もとの場所……」
「そう。そうしたら、多分、思い出すんじゃないかな。なんとなく、そんな気がするよ」
「……なにが、なんだか」
「わからなくったって、事実は事実なんだ。……そうだ、夜は長いんだ、君のわからないことをひとつひとつ、解きほぐしていこう。じっくりね。思いだすか思い出さないかは、わからないけれど。そう、最初は、君が、僕が、僕たちが、何者なのかっていう話から、はじめよう」

そう言うと青江は、ひとつひとつ、わかりやすい言葉で、色々を説明しはじめた。それは抜け落ちた記憶に深く関係のあることのようで、聞くたんびに、頭がガンガンと痛んだ。自分たちは刀で、神の末席に連なり、歴史が、どうとか、こうとか、そういう話。それから、本丸というのが、審神者と呼ばれるものが総ている場所のことで、審神者によって顕現された刀剣たちが集っている場所だということ。自分が何故か別の時空だか、空間だか、平行世界だとかにある、本来は立ち入ることのできない場所の厚樫山で、倒れていたということ。それが推測に過ぎないが、検非違使というものと戦ったことによる時空の歪みに起因しているのではないか、ということ。後半になればなるにつれて、頭の中はごたごたになり、沸騰するようになり、どんどん、飲み込めなくなっていった。ガンガンと頭が痛み、どうしようもなくなるまで、青江はゆっくり、噛んで含めさせるように、ことの次第を説明した。そうして最後に、「ほんとうはこんなこと、今の君に説明したって、きっと無駄なんだろう」と言った。その言葉がなにに起因しているのか、なにを根拠にしているのかわからなかった。しかし、脳みそが考えることを拒否するかのように痛むので、さもあらんとも思った。とにかく、自分は明日、いや、もはや日の昇る時刻になっていたので、今日の正午には、自分があるべき場所、青江の言うところの本丸に、身柄を受け渡される。本来あるべき場所に戻れば、もしかしたらすんなり、記憶というものが戻るやもしれない。青江もそう言っている。自分が顕現され、今まで生活してきた場所はどういうものだろう。そんな夢想をしながら、青江に促され、遅い休息をとることにした。


翌日の正午に、身柄の受け渡しはすんなりと行われた。引き受けに来たのはへし切長谷部という刀であった。長谷部は妙に気まずい顔をしながら、「御手杵」を引き取った。そうして、鳥居を潜り、山道へとそれを導く。その先に本丸があるらしかった。饒舌だった青江とは程遠く、長谷部はむっつりと黙ったっきりだった。しかし山道の半ばまで来た時に、「おい」と声をかけてきた。

「記憶がないと聞いた」
「……ああ、あんたのことも、仲間だって聞いてるが、思い出せねえ」
「そうか。まぁ、仕方がないだろう、あの戦いでは……。……本丸に着いたら、貴様にはじめに会わせなければならない奴がいる」
「……ふうん。誰だ?」
「会えばわかる」

それぎり、会話は終わってしまった。歩を進めるたんびに、暑さが嫌増して、いけない。この暑さには少しだけ覚えがある。それは記憶というより、感覚に近かった。もしかしたらあの本丸の青江のいうとおり、もとの本丸に戻ってしまえば、記憶というものはすんなり戻るのかもしれない、と、思った。そうしているうちに、また鳥居が見えてきて、それを潜ると、ざあっと、本丸が現れた。あの青江のいた場所より、数段広い、本丸。

「御手杵!」

長谷部がそうはっきりと呼びかけたので、隣にいるのにそんなに大きな声をかける必要がどこにあるのだ、と思いながら返事をしようとしたら、先に、本丸の方から「ああ、戻ったか!」という、声がした。驚いて顔を向けると、そこには深い緑の戦装束に身を包んだ大きな男が立っていた。長谷部はその男を「御手杵」と、呼んだらしかった。御手杵はこちらに駆け寄ると、長谷部と二、三言、何か言い交わした。長谷部は「あとは任せた」と言って、ひらりとストラを翻し、本丸の中へ消えてゆく。ずきんずきんと、頭か、胸か、どちらかがひどく、痛んだ。

「なあ、あんた、名前は」

御手杵がからかうようにそう言うので、苦しくなった。頭が痛い、胸も痛い、痛くないところなぞひとつもなかった。そうだ、御手杵、だ。自分が最後に呼んだ名前。最後に叫んだ、名前。決して忘れることのない、名前。

「おて、ぎね」
「それは俺だ。あんたの、名前」
「……同田貫……正国」
「ああ、……おかえり、同田貫」

ばつん、と、視界がもとに戻るようだった。自分の中に押し込めていた記憶の数々が、戦いの日々が、戻ってくる。「ああ」と、声が溢れるようだった。じっさい、溢れた。「ああ、ああ」と、慟哭のようなそれが喉から溢れてくる。最後に名を呼んだ槍の腕に抱かれて、同田貫は、子供のように、涙を流した。


七月某日、晴レ。
行方不明デアツタ同田貫正国、帰還。





「ごめんなあ、俺、あんたの知ってる御手杵じゃ、ないんだけどな」




破壊、一。
一条、 御手杵。


END


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