15センチメートル






※現パロ

女の人が、なにかを捨てたくなったときに履く靴を、同田貫は知っている。

同田貫がその靴にはじめて足をいれてみたのは、六歳の頃、日差しの暖かい、春の日だった。玄関に綺麗に揃えられていたそれは、母親が滅多にはかないハイヒールだった。真っ黒で、てかてかしていて、スニーカーばかりはいている同田貫には理解できないかたちをした、靴。同田貫はその靴をまじまじとみて、興味を催した。その靴を自分が履いたらどうなるんだろう、どんな感覚なのだろう、どんな景色が見えるのだろう、どんな音が聞こえるのだろう、と、思った。そうして同田貫は手招きをされるがままに、その靴に足をいれたのだった。春の日差しに温められたそれは人の体温が残っているように感じられた。片足をいれると、体重がぐらついて、どうしようもなく不安定になるのがわかった。それをなだめるのにすこし時間が必要で、同田貫は身体を一生懸命に、その靴にならした。ちょうど、プールに入る前、水に身体を慣らすように、そうした。しばらくすると、身体のぐらつきがおさまったので、同田貫は思い切って、もう片方の足を、ハイヒールの中へと潜り込ませた。すると、目の前で光がしぱしぱと瞬き、あたりの音がしんと静まり返ったのが、わかった。その靴は六歳の同田貫にはまだまだおおきかったので、踵がずいぶん余っていたが、それでも同田貫の足をぴったりとつつんで、やわく痛めつけた。その甘やかな痛みに、同田貫は腹の底がきゅんとして、失禁してしまいそうに、緊張をした。けれどその感覚は、同田貫の母親がそれをみつけて、大きな声を出したことで中断された。同田貫はびくりと肩をすくませて、思わず足を動かしてしまう。その拍子に足を変にひねって、身体が一気に傾いて、その体重が細いヒールにのしかかり、ぽっきり。母親の怒っているのか心配しているのかわからないような声は全部、水中の出来事のように、同田貫ににぶく伝わった。同田貫はぼうぜんと、あっけなく壊れてしまったそれに、視線を打ち付けていた。

そんな思い出を抱えたまんま、同田貫は大学生になった。地元から少し離れた、地方都市の大学へ進学し、一人暮らしをするようになった。一人暮らしになって同田貫が最初にしたのは、引っ越しの荷解きより早く、通販でハイヒールを購入することだった。別段、同田貫に女装癖が備わっただとか、そういうことではない。同田貫はハイヒールにだけ、強烈な執着があった。あの失禁してしまいそうな、世界が変わるような、そんな感覚を、もう一度味わいたいと、そう思ってしまっただけだった。そうして同田貫が購入したのは、十五センチメートルものヒールを備えた、真っ黒でシンプルなパンプスだった。かたちが、昔同田貫が足をいれたものと、そっくりだったのだ。そのパンプスはたしかに、思い出のかたちをしていた。

そのハイヒールが届いてすぐ、同田貫は丁寧に箱を開け、てかてかしたそれを震えるようにして、取り出した。胸がつまるようだった。何年も憧れ続けた靴が自分の手の中にあるということに感動を覚えた。そうして、同田貫はそのハイヒールをゆっくりと床に置き、綺麗に揃えた。揃えたとこに、いくつかの段階を経て心の準備をし、恐る恐る、足をいれた。まず、片足。いつかの日と同じように、身体の重心がどこかへ行ってしまって、ぐらついた。そのぐらつきをおさめるのに、やっぱり少しの時間がかかった。そうして、どうにかしてぐらつきをおしこめて、もう片方。その足どもがすっきりとハイヒールにおさまったとき、同田貫ははあ、と、感嘆の息を漏らした。眠たくなるような緊張が、そこにはあった。

同田貫はしばらく呆然と突っ立ったあと、やっと、思い出したように、カツンコツンと踵を鳴らした。右足から前に出して、恐る恐るそこに左足を揃える。そうしたあとになって、同田貫はちょっと笑ってしまった。自分は歩き方も忘れてしまったのだと。同田貫はひとしきり笑ってから、きゅうに真顔になって、また、カツンコツンと踵を鳴らした。今度は右足を出して、その先に左足を出す。それを繰り返して、狭い部屋の中をとりあえず一往復した。慣れないハイヒールは同田貫の足をやわく痛めつけ、それだけで爪先がビリビリと痺れた。足の幅も合っていなかったせいでじんじんとした痛みも足をつつんで、同田貫の足のかたちをどんどんと変えてゆくようだった。それでも同田貫は心の底からぷつぷつと笑いがこみ上げるようになって、夢中で、部屋の中を歩いた。アキレス腱のところが擦れて水ぶくれになっても、爪先の感覚がなくなっても、同田貫は歩くことをやめられなかった。

その日から、同田貫は毎晩、部屋の中でハイヒールを履き回した。はじめはカツンコツンと頼りなく音が響くばかりだったが、続けるにしたがって、それは覚悟を持つようで、カツカツという凛々しい音に変わっていった。同田貫は歩けば歩くほどに、自分の中で抑えきれない感情が膨れるのに、気がついた。このうつくしい靴でもって、外を歩きたいと願ってしまったのだ。けれどそれはとんでもない羞恥でもあった。ふつうの男はそんなことはしないのだ。誰かに見つかりでもしたら、変質者として通報されかねない。けれど外に出て、アスファルトの道でもって、高らかな音を響かせたい。同田貫はそこまで考えてから、ぶるりとひとつ震え、考えをかき消すように、カツカツと踵を鳴らした。そうしたらそれが高く響きすぎたのか、隣の部屋から壁を叩かれた。

それから同田貫は鬱屈した毎日を送ることになる。同田貫がちょっとでも踵を鳴らすと、途端に隣の部屋の住人が壁を殴るようになったのだ。そのせいで同田貫は部屋の中ですら満足にハイヒールをはけなくなった。一度足をとおすともう歩きたくって歩きたくって仕方がないのだ。腹の底からふつふつと欲望がこみ上げてきて、いけなかった。同田貫の足のかたちはもうすっかりその黒いパンプスのかたちに歪んで、もとには戻らない。同田貫は鬱屈した気持ちを抱えて、真夜中を迎えることが多くなった。その夜が深まるほど、その真っ黒なハイヒールが外に出たいと訴えかけてくる。それはもう幻聴に近かった。同田貫には靴の声が聞こえる。外に出たい、高らかにヒールを鳴らしたいという、靴の声が。

午前三時、同田貫はそろそろと、玄関を出た。足元はいつもの履きつぶしたスニーカーではなく、夜に滲んでしまいそうなハイヒールだ。同田貫はカツン、と弱々しくヒールを鳴らして、一歩、部屋の外に出た。背後でドアが閉まる音がするまで、ずっと、このまま部屋に戻ってしまおうか、という気持ちが湧いていたくせに、ドアが閉まった途端に、足は外へ外へと向かっていった。アパートの郵便ポストの場所を通り過ぎて、屋根のないところまできてから、同田貫はその月の明るさにぎょっとした。今日は満月だったらしいのだ。そこで心が折れて仕舞えばよかったのかもしれない。けれど踵のところで、カツン、と音が出た。その音が耳をカーンと貫いて、思考を停止させてしまった。求めていたことがすぐ目の前にあるのだという、そのことだけが頭を支配して、また一歩、一歩と、同田貫は歩をすすめた。

深夜の道は誰も歩いてなんかいなかった。同田貫が歩いたのはアパート近くの裏道で、この時間は人通りが極端に少ない。飲み会帰りの学生たちももうずいぶん前に家に帰っているはずだった。同田貫は歩き慣れた道を、部屋の中で散々履きつぶしたとはいえ歩き慣れない靴で歩いた。カツカツと高らかにヒールが鳴る。目に見えている景色が、夜ではあったけれどずっと鮮明で、こわいくらい気持ちがよかった。ともすれば腹のしたのそれがふくらんでしまうほど、興奮した。同田貫は誰も見てなんかいないのに、背筋をぴんと伸ばして、膝を曲げてしまわないように、丁寧に歩いた。自分が長年求めていた空気が、そこらじゅうに停滞していて、どこをとっても最高の夜だった。一歩、また一歩と歩を進めるたんびに気が大きくなって、なんでもできそうな気持ちになってくる。今だったら警察に呼び止められても、これはファッションの自由だ、なんにも悪いことはしていない、捕まえられるものなら捕まえてみろ、と言い返せるような気がした。そんな気がしたものだから、同田貫はちょっと、人に出くわしてみたいような気がした。知らない他人が自分のこのハイヒール姿を見て、どんな気持ちを催して、どんな顔をするのか、試してみたくなった。なので同田貫は自分の通う大学の方へと爪先を向けた。この道からだったら、五分も歩けば大学だった。都会の電車を何本も乗り継がないとたどり着けない学校とは違い、地方都市の大学は大学のすぐ近くにアパートを借りることができるのだ。それが今晩はとても素晴らしいことのように思えた。

ハイヒールで歩いたのでいつもよりちょっと時間がかかったが、同田貫はすぐに大学の校門までたどり着いた。校門を通り抜けるときにぴりりとこめかみがしびれたが、同田貫は知らないふりをした。大手を振って大学に入り込むと、見慣れたキャンパスが夜の影にひっそりと立ち並んでいた。胸がすっきりするような空気が満ち満ちていて、同田貫は深く息をした。同田貫は自分の学部のキャンパスまで歩いて、そこで折り返しにしようと思った。もうずいぶん、足に熱がこもっている。じんじんとした甘い痛みがしていて、もしかしたらもうどこか擦り切れているかもしれなかった。けれど同田貫はそんなことはかまいやしないとも思っていた。笑出したいような気持ちで、大学の真ん中にある広場を横断した。そこを横断してしまえば、学部の入り口はすぐそこだった。

ざり、という誰かの足音がした。ありきたりなスニーカーで地面をこするような、そんな音。同田貫は急に、現実に引き戻されるような心地がして、びくりと音のする方を見る。そこは広場に隣接した、掲示板のところだった。掲示板は夜中でも掲示物がちゃんと見えるように、蛍光灯で照らし出されている。その光の中に、人影がいた。視線を感じる。その中の人物はたしかに、もう、同田貫を見つけてしまっていた。足音が聞こえるくらいなのだからそんなに距離はない。ほんの大股で五歩とかそこらの距離だ。同田貫はまず、逃げようと思った。さっきまでの強気はきっと何かの夢だったのだと思った。なんにも言葉が出てこない。ひいた血の気と一緒にどこかへ行ってしまったらしかった。同田貫は一歩後じさって、もう自分の足がいうことを聞かないということに気がついた。その人物は光の中をくぐり抜けて、こっちに近づいてくる。どうしようと思った。心臓が冷えに冷えて、そのくせばくばくと音を立てる。何を、言われるのだろう。

「俺、変質者、はじめてみた」

変質者、という言葉が、同田貫の脳にざっくりと突き刺さった。けれどそれより何より、同田貫はその人物の顔に見覚えがあることに、さらに肝をつぶした。多分同じ学部で、なんなら同じ学科で、さらにはおんなじゼミだ。名前だって知っている。下の名前はどうだったか忘れたが、苗字は、御手杵。

「同田貫、だっけ。ねえ、なんでそんなカッコ、してんの」

御手杵は同田貫の足元を指差して、表情の読めない顔で、そう言った。ちょっと笑っているようにも見える。満月だから、明るいのだ。同田貫の顔もきっと、御手杵にはっきり、見えているに違いない。同田貫はなんにも答えられなかった。すると御手杵は近づいてきて、同田貫の肩を抱いた。そうしてひそひそとした声で、「女装癖あんだ、男もイケるの?」と。同田貫はぎょっとして御手杵を見た。御手杵の息からは少し、アルコールの香りがした。同田貫が否定の言葉をどうにか口にしようとししたとき、御手杵は「どっちでもいいけど、俺、あんた、いいなって、思ってたの。黙ってて欲しいだろ?とりあえず、ついてきて」と、同田貫の腕を引く。御手杵が歩き出したのは同田貫の家とは逆方向だった。同田貫がとっさに「どこに、」と尋ねたら、御手杵は、「誰もこないとこ」と、答えた。カツンコツン、音がする。すっかり自信を失った、ハイヒールの音だ。

同田貫が連れていかれたのは、大学にほど近い御手杵のアパートらしかった。三階建てで、御手杵の部屋は一階だった。通された部屋はすっきりと片付いているというより物が少ないようだった。けれど同田貫はもうそんなことより、自分はいったいどんな目にあってしまうのだろうという恐怖だけがあった。御手杵は「はいって。あ、靴は脱がないで」と、同田貫に言った。そのくせ自分は靴を脱いでいる。わけがわからない。同田貫はそう言われたので、ハイヒールは脱がないで御手杵の部屋にあがった。ほんとうにいいのかと思ったが、御手杵が「はやく」と急かしてきたので、仕方がなかった。幸い、御手杵の部屋には踏んで困るようなラグが敷かれていなかった。ただ埃を少しかぶったフローリングが続いているだけだ。御手杵は同田貫に「ベッドに座って」と指示して、自分もベッドに腰掛けた。隣に座るかたちになるので、同田貫は終始うつむいていた。

「もうわかってると思うけどさ」

御手杵はそう言ってから同田貫の耳に唇を寄せて、「俺、ゲイなんだ」と。同田貫は驚いて御手杵の方を見た。そうしたら吐息のかかるような距離に御手杵の顔があって、すぐにわっと身体を逸らした。御手杵はそんなことは気にもとめないようで、「俺、ゼミで会ったときからずっと、あんたいいなって、思ってた」と続けた。

「ラッキーだった。こんなことでもなけりゃ、多分まともに話したりもできなかった。あんたに女装癖あって、よかったよ」
「ちが、」
「だって、こんな靴履いて、外出歩いて、誰か、誘ってたんだろ」
「ちがう…俺は…」
「まぁ、そんなこた、どうだっていいんだけどさ。で、あんた、男とヤるのははじめて?何回かヤってる?」

同田貫は続けられた言葉に愕然とした。この男は何を言っているんだと思った。御手杵はちょっと笑って、「あ、はじめてだ。女装癖あっても、ノンケ?」なんて聞いてくる。そうして、「バラされたくないだろ」と、低い声で、そう言った。同田貫は胸が詰まる心地がした。脅されていて、自分には選択権がないのだとわかった。ゲイって、つまりそういうことだ。女と寝たこともないのに、男に抱かれるのだと思うと、絶望的な気持ちになった。同田貫がさっと青ざめたのを見ると、御手杵は「そう緊張すんなって、悪いようには、しねえからさ」と言って、同田貫の耳の下に、唇を寄せた。変な感覚だった。ひとの唇がふれるっていうのは、こんなにこわくて、つめたいことなのだと思った。

「このハイヒール、なんか、あんたと…なんていうんだろう、バランス悪くって、それがすごく興奮する。こんなの売ってんだ」
「…うるせえな」
「なんだよ、似合ってないとかそういう話じゃねんだって。最高だって思う」

その言葉が、たといお世辞だったとしても、同田貫のこころのやわいところを、あまく刺した。同田貫はきゅうになきたくなって、「うるさい」と言い訳をした。犯すのだったら、ごちゃごちゃ余計なことを言っていないで、そうすればいいのだと思った。痛いのも苦しいのもなんだって耐えてやるという気持ちだった。けれど御手杵はそんな同田貫の内心を知ってか知らずか、それとも酔っているから気が大きくなっているのか、同田貫に、「立ってみて」と言って、同田貫から身体を離した。

「なんで、」
「いいから。見たい」

同田貫は言われるがまま、ベッドから慎重に立ち上がった。べつに言うことを聞いてやる義理なんかないのだとわかっていたけれど、甘い痺れがまだ残っていた。同田貫が立ち上がると、御手杵は今度「ちょっと歩いて」と言った。同田貫はわけがわからないまま、二、三歩、歩く。

「あ、なんだろう、やっぱ興奮する。あんたの足、ハイヒールのかたちしてんだ。綺麗」
「…なんだよ」
「ほんとはわかってんだ。あんたゲイじゃないし、女装癖とかともちがうし、なぁ、なんで、ハイヒール」

ほんとうは、話すべきではなかったのかもしれない。けれど同田貫は、この男になら話してしまっても、いいかもしれないと思った。ただちょっとおだてられて舞い上がっているのとは違った。だって、男に興奮するとか言われても、ちっとも嬉しくなんかない。同田貫は誰かのためにハイヒールをはいているわけではなかった。ただひたすらに、自分のため。ちゃんとわかっていたけれど、同田貫はいい加減、誰かに話してしまいたい気持ちがあった。そうして、幼い日の思い出と、その時の自分の気持ちを、ところどころつっかかりながら、うつむきながら、しとしとと、御手杵に離した。

「ああ、そっか、そっか」

御手杵は相槌もいれずにその話を聞いて、妙に納得した顔になった。

「あんた、ハイヒールの脱ぎ方、わかんなかっただけなんだなぁ」

御手杵はそう言って同田貫をまたベッドに座らせると、自分は床に跪いた。そうして、同田貫の足に、手をかける。同田貫はびくりとしてそれをひっこめようとするが、御手杵の手は離れてくれなかった。同田貫の足にぴったりと吸い付いているハイヒールをしげしげと眺めて、それから、「この靴はさ、むりやり脱がしたら、だめなんだ」と言って、シンデレラに出てくる王子様みたいに、同田貫の足を持った。シンデレラとちがうのは、同田貫の足にはもう靴がそなわっていたという点だ。御手杵は同田貫の足の甲にひとつ、キスをした。そうして、同田貫が驚いているあいだに、するり、ハイヒールを同田貫の足から取り去ってしまう。ハイヒールの脱げた同田貫の足は赤く腫れていて、かかとのうえには水ぶくれの破けたのがあった。御手杵はそれにためらいもせずに舌を伸ばす。同田貫はおもわず、「あっ」と声をあげた。御手杵の舌が、唇が、熱を持ったところに触れて、その熱をそいでゆくようだった。神経がそこに集中して、ぴりぴりとした痛みとくすぐったさが、背筋を駆ける。御手杵は丁寧に、同田貫の足をあつかった。まるでブロウジョブをしているみたいに、御手杵の口は動いた。フェラなんて、俗物的なものとは違っていた。ほんとうの意味はおんなじなのだろうけれど、大学生が下ネタで口にするような行為では決してなかった。口で、舌で、御手杵はちゃんと、同田貫をいつくしんでいた。足の甲から伝って、指にキスをして、つちふまずに、舌を這わせる。恥ずかしいようなリップ音が、水滴のように、浮かんでは、落ちた。同田貫の息に熱いものが混ざり始めたあたりになって、御手杵は「はい、脱げた」と言って、同田貫の足から外したハイヒールをことり、並べて見せる。同田貫はその時になるまで、気がつかなかった。そうして、自分の脱いだ靴の、ヒールが折れていないことに、びっくりするほど、安心した。

「…なんだ、」

同田貫は自分の身体の一部ではなくなったハイヒールを見て、かなしくもならなかったし、うれしくもならなかった。けれど、もうこの靴が自分の足のかたちを変えるようなことはないのだと思った。この靴を履かなければならないことは自分にはもうないのだとわかった。そうしたら涙が出てきた。かなしくもないしうれしくもないのに、涙が出てきた。同田貫がうつむいて声をころしていると、御手杵がベッドの隣に身体をうつして、横から、同田貫を抱き寄せた。

「ハイヒールって、ちゃんと脱がないと、だめなんだ。足のかたちがさ、それになっちゃって、もう痛いのか、痛くないのかもわかんなくなってさ。そういうもん。こわいよな」

同田貫はしとしとと泣きながら、御手杵が脱がせてくれたハイヒールを、見つめた。黒いエナメルに、どこでこすったのか少しキズがついていたが、しかし、それはやっぱり綺麗なかたちをしていた。けれどもう、それにどうしようもなく足を通したいとは、思わなかった。幼い日の思い出がやっと成仏したような、そんな、寂しさを覚えた。その寂しさを受け入れると、涙もすうっとおさまって、同田貫のなかに溶けていくのが、わかった。

「…ありがとう」

同田貫はおよそ、自分を脅してきた人間に差し向けるようなものではない言葉を、ぽつりと口にした。御手杵は「どういたしまして」と笑って、大きなあくびをした。酔いが醒めたらしかった。もう時刻は朝の四時で、強姦を働くにも、セックスをするのにも、遅すぎた。御手杵はぼそぼそと眠たそうな声で「あんた、抱いてみたかったんだけどなあ」と呟いて、同田貫の肩に頭を押し付ける。同田貫は少しばかり、この男になら抱かれてみてもいいんじゃないかと思った。きっとそのときのセックスは、やわく、同田貫のこころを刺すのだ。ずっと履いてきた、ハイヒールのように。


END



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