簡単なものなんてどこにもないのに間違っちゃいけないって誰が決めたんだ






※現パロ、御手杵二十三歳、同田貫三十一歳
呼吸をやめられずにもがいているのの続き



「おにいちゃん、だいじょうぶ?」

同田貫がそう声をかけられたのは同田貫の父の葬式でのことだった。同田貫は「おにいちゃん」と呼びかけられるほど若くなかった。今年で三十一になる。しかし声をかけてきた青年を見て、同田貫は「あっ」と声をあげてしまった。見間違うはずがない、その青年は十三年前、少年だった。同田貫を拾ってやると豪語した、同田貫がずっと、十三年間、頭の片隅にだけ留めておいた、少年だった。

「大人になったから、拾いにきた」

そう言って御手杵は、同田貫をまるで猫でも拾うように、拾っていった。あの薄暗い路地裏から、あたたかい場所へと、導いた。同田貫ははじめ、こわいと思った。あたたかいのが、こわいと思った。きっとまた捨てられるのかもしれないとも、思った。御手杵の興味が尽きたら、きっとまた薄暗いところへ置いていかれて、そうして、誰にも見つからない場所で、ひっそりとしぬのだと思った。それを想像することの方が、同田貫は安心する。今までどおりの、薄暗い生活。同田貫はそっちのほうが、ずっと、安心する。

御手杵は同田貫を拾うにあたってまず、同田貫が親と住んでいた家を処分した。それから、相続についても片をつける。遺産なんてものはほとんどなく、むしろ借金がかさんでいた。相続を全部放棄する手続きを、御手杵は丁寧に同田貫に教えて、同田貫は戸惑いながらもそうした。借金を返すあてもなかったし、幸い、借金は父親名義のものだけだった。御手杵は同田貫に、「身の回りのものだけまとめて」と言って、それ以外の家財道具は一切を廃棄してしまった。同田貫はほとんど身一つとなって、御手杵に拾われることとなった。御手杵は「猫とかは拾ったらまず風呂なんだろうなあ」なんて言いながら、同田貫にカードキーを渡した。御手杵の住んでいるマンションの、スペアキーだった。

御手杵の住んでいるマンションは高層マンションの五階にある2LDKで、一人で住むには持て余すような物件だった。御手杵は「ここ、正国の部屋」と言って、リビングの隣の洋間を、同田貫にあてがった。最低限の家具は揃えてあって、ほとんど荷物を持たない同田貫には少し手に余るようだった。御手杵がもとから住んでいた部屋だけあって、その他の部屋はちゃんと生活感が漂っていた。たとえば、キッチンには洗い物が置いてあったり、乾燥機つきの浴室には洗濯物が干してあったり、だ。御手杵はほんとうにここに住んでいたらしい、と、同田貫は思った。そのせいか、これは新しくはじめる同居生活だ、という風には思えなかった。同田貫は御手杵を見て、自分は本当にこの男に拾われたのだ、という気持ちになった。

「なんでこんなオッサン、拾う気になったんだ」

御手杵に拾われてはじめての夜に、同田貫は御手杵にそう尋ねた。夕飯も風呂も終わって、これから何をしよう、という時間帯だった。話すのにはちょうどいい。御手杵は芋くさいジャージ姿で、同田貫もそんなものだった。御手杵はシャンプーの匂いがする髪の毛をいじりながら、「小学生の頃に、約束しただろ」と答えた。

「そんなの、若気の至りだろ…」
「でもあんたもちゃんと覚えてた」
「…どうだろうなあ」
「覚えてたから、ここに来たんだろ。俺に拾われたんだろ。なあ、そんなんで忘れてたなんて、言わせねえよ。昔も今も、あんた変わってねえよ。猫みたいな目してる。捨てられた猫みたいな目」

御手杵はそう言って、同田貫の方に手を伸ばした。顔か、頭か、どちらかに触ろうとしたらしかった。けれど同田貫はそれから反射的に頭を庇った。庇ってから、御手杵はそういうことを同田貫にしようとしたのではないとすぐにわかったので、「わ、悪い」と謝った。こればっかりは長年で染み付いたものなのでダメだった。御手杵は気分を害したふうでもなく、「こわい?」と同田貫に尋ねた。同田貫は「人に触られんのは、ダメだ」とぼそぼそ、呟いた。ずっと長いこと、虐待されていたのだ。その傷が、身体のあちこちに残っている。人が手を伸ばしてくれば、何か痛いことが起こるのではないかと身が竦むのだ。怒声もダメだった。思考が停止して、何も考えられなくなる。

「もうそんな人はいないのになあ」

御手杵はあっけらかんとそう言って、「ほんとうに、野良猫拾ったみてーだなあ」と笑った。そうしてから、「でもこのまんまじゃ、ダメだよなあ」とも呟いた。

「人に慣れる練習、しよう」
「え、」
「ちょっとずつ、触られても大丈夫なようにしようって、話。だっていつまでも昔のこと引きずってたって、なんにもならないだろ。練習しよう、練習。ちょっと辛いかもしんないけどさ」
「そう言ったって、どうすんだよ」
「五分からはじめよう」
「五分?」
「一番触られて嫌なのって、どこ」
「…多分、背中…」
「一番大丈夫そうなのは」

同田貫はちょっと考えてから、「手」と答えた。そうしたら御手杵が同田貫の手をにそうっと自分の手を近づけた。同田貫がびくりとすると、「今から、五分だけ、触るから」と言って、そのまま同田貫の手を取った。

「ま、まて…」
「こわい?」
「…こわい」
「じゃあ、痛い?」
「…いたくは、ない」
「じゃあなんで怖い」
「なんで…」

なんで、と考えると、記憶の淵から怖かったことが蘇ってきて、いけなかった。御手杵の手の生ぬるさから血がどろりと流れるようになって、気持ちが悪かった。痛くなんかされていないのに痛いような気がしてきて、こわくて、きっと自分は死ぬんだというような気になってくる。胸が苦しくなって、息がくるしくなって、世界がぐるぐる回りだして、脳が思考を止めて、ぷつん。

「正国!息!息!」

大きな声がして意識がひき戻された時、同田貫の呼吸はけたたましい音を立てていた。ひきつれたような音と、ひゅう、ひゅう、とまるでなっていない呼吸音がするばかりだ。指先の感覚がどんどんなくなって、苦しくなって、視界までぼやけてくる。御手杵はすぐにキッチンから紙袋を持ってきて、それを同田貫の口にあてがった。同田貫ははじめ、こんなに苦しいのに、どうしてもっと苦しくなるようなことをするんだ、と思ったが、紙袋が何度か膨らんだり萎んだりしていくうちに、自分の息の仕方をどうにか思い出してきた。そうして、その袋がちゃんと正常に、ちょっとだけ膨らんだり萎んだりするようになったときには、同田貫の呼吸も意識も落ち着いて、過呼吸だったのだ、と、わかるようになった。同田貫はどっと身体が重くなった気がして、リビングの床に身体を投げ出した。御手杵は背中をさすることはしないで、同田貫の目の前でひらひらと手を振った。

「ああ、びっくりした」
「…ほんとうに、ダメなんだ」
「うん、わかった。でも、毎日やろう。慣らしてこう」
「…絶対か?」
「だって、猫だって、だんだん撫でさせてくれるように、慣らすだろ?」
「猫と一緒かよ…」
「だって、拾ったんだ。ちゃんと面倒みないと」

御手杵はそう言って、けらけら笑った。同田貫もなんだかおかしくなってきて、へらりと笑った。手触りのいいカーペットが頬にあたって気持ちよかった。

その訓練は毎日続けられた。二人が夕食を終えて風呂に入って、さあこれからなにをしようという時間帯に、決まって行われた。同田貫は二回目からはどうにか過呼吸を起こさずに済んでいたが、一分の壁がなかなか越えられずにいた。どうしても、他人に触られているのに痛くないのがこわくっていけなかった。他人のぬるい体温が自分を傷つけるでもなくそこにあるのが気持ち悪かった。御手杵は「無理になったら我慢しないで手、ひっこめて」と言うので、同田貫は自分の思考がぷつんと切れてしまう前にいつも手をひっこめた。

「今日は三十一秒」
「…昨日よりダメになってやがる」
「こういうのはさあ、体調とかにもよるんだから、仕方ない。猫も気分屋だしなあ。まあ、ゆっくりいこう」

そんなことを言いながら、御手杵は「今日はこれ見たい」と言いながら、レンタルショップで借りてきたらしいDVDを取り出した。同田貫は映画なんてほとんど見たことがなかったし興味もなかったが、付き合いで見ることにした。ただ音量だけ下げてもらった。

御手杵の借りてきたのはなんの変哲もないアクション映画だった。「話題作だったやつ、ずっとみたかったんだよなあ」なんていいながら、プレイヤーにセットする。テレビはかなり大画面で、これでゲームをしたら楽しいだろうなあという感想を同田貫は抱いた。ゲームなんてものはやったことがなかったけれど。

その映画はアクションだけあって、途中途中に大きな音が入った。クライマックスともなると尚更だ。同田貫は事あるごとに身体をビクつかせて、だんだん、映画の内容が頭に入ってこなくなった。ついには真っ青な顔で下を向いて、ガタガタと震えはじめた。こんなのでは真っ当な生活なんて、送れやしない。もう同田貫の運命は薄暗いところに縛り付けられているのだと思った。そうしたら途方もなく悲しくなって、同田貫は久方ぶりに泣きそうになった。世界がじわじわ滲み出し、ぐらぐらと揺れ始める。しかしそれがぷつんと切れてしまう前に、隣の影が動いて、「ちょっとだけ触るぞ」と断ってから、同田貫の右手を握った。涙のような感情は全部そこから溢れて、終ぞ目からは溢れてこなかった。生温い人の体温を感じて、ずっと気持ち悪いはずなのに、これは違うのだとちゃんとわかった。このぬるさが自分を傷つけることはないし、痛くすることもない。そう思うとやけに安心した。けれど心の底の方ではまだ怖いという感情もたしかにあって、頭が混乱してしまう。ぐるぐる混乱する。頭がぼんやりして、目眩がしてくる。けれど自分から手をひっこめたくはなかった。心地よい混乱の中にあることを、心のどこかで望むようになった。ぼうっと生温い熱に浮かされたようになって、御手杵と繋がっている手から、どんどん、身体があったかくなっていく。くらくらした。

「なあ、今、何分かわかるか」
「…え、」
「十分、経った」
「なに、が」
「手、触って、十分」

御手杵がそう言うあたり、映画はクライマックスもとうの昔に終えて、エンドロールに入っていた。流れてゆく文字を、同田貫は信じられない気持ちで見た。なんだか眩しいと思った。


それから一ヶ月も一緒に過ごせば、同田貫は手を触られることはもう随分平気になっていった。毎晩行われる練習でもどんどん時間を延ばして、ついには三十分、御手杵の手に触っていられるようになった。大の大人二人がリビングで向かい合って手を握り合っているなんて絵面はたいへんおかしかったが、二人はいたって真面目だった。その手はじっと重なっているだけではなくって、御手杵はたまに指を絡めたり、指先で同田貫の手についた傷跡をなぞったりした。傷跡をなぞられると、もう痛くなんかないのになんだかぴりぴりするような心地がして、少しだけ怖かった。自分の心の襞に入り込まれているような、そこを撫でられているような気がした。そうなるときまって頭がぼんやりして、深く物事を考えられなくなる。そういう時は手から伝わってくる御手杵の熱だけがやけに感じられて、頭がおかしくなりそうになるのだ。セックスというものは、あるいはこういうものなのかもしれない、と同田貫は思った。指先だけの、セックス。ヘンな話だ。同田貫はもう三十一なのに、セックスを知らない。御手杵と触れ合っているこの毎晩の練習だけが、他人と重なり合う、唯一の時間だった。他人の熱を知る、唯一。

「手じゃないとこも、触っていい?」

手だったらもうどれだけ触られても平気だった。平気というと語弊がある。少しぼんやりしたり、目眩がしたりすることはあったし、胸がどくどくと高鳴ることはあった。けれど悪い方にはいかなかった。過呼吸を起こしたり、吐き気を催したり、心がずっしりと沈むようなことはなかった。御手杵が出し抜けに手を握ってきても、少し驚きはするが、叫んだり、震えたり、倒れたりするようなことにはならない。ここまではうまくいっている。だから御手杵は先へ進もう、と言っているのだった。そのことは同田貫にもちゃんとわかった。

御手杵は同田貫が恐る恐るだが静かに頷くのを見て、まず、手の甲を触った。いつもと同じだ。御手杵は同田貫の手の甲を撫でながら、「手の甲」と言った。それからすうっと手をのばして、「うで」と言った。御手杵はじっと同田貫を見つめながら、そうする。同田貫はあんまりはずかしくって、御手杵を見ることはできなかった。同田貫が視線をあらぬ方へと向けていると、御手杵が「ちゃんと見てて」といって、同田貫の視線をがんじがらめにしていく。たしかに見ていない方がずっと怖いのだけれど、それでも御手杵の触ったところからじりじりとした不思議な感覚がおきてきて、いけなかった。ちっとも痛くなんかない。御手杵の手は同田貫のいいように動いた。御手杵の手はどこまでも優しい。同田貫を傷つけることなんかきっとないのだと信じさせてくれる。手放しで安心をくれる。心を震わせる。その震えた心を撫でつけて、同田貫から考えることを奪ってゆく。これでいいのかと思うけれど、それ以外が考えられなかった。

「肩」

喉が震えた。同田貫は色々なものが混ざった息を吐く。こわいことはないとわかっていたけれど、なんだか違う怖さが湧き上がってくるようだった。御手杵の手が触れたところから自分が自分でなくなってしまうような、そんな感覚がした。

「鎖骨」
「…くすぐったい…たぶん…」
「ほんとうに?」
「ほんとう、だ、びりびりする」
「くすぐったいっていう感覚、さ、気持ち悪いって感覚と、気持ちいいって感覚を同時に感じてんだって。他の人にほんとうは触られちゃいけねぇとこなのに、気を許してる相手だから大丈夫って気持ちと、やっぱダメだって気持ちが一緒にあるんだって。それで脳が混乱して、くすぐったいって信号出すんだってよ」
「なんだ、それ」
「なんだろうなあ、ほら、くび」

御手杵が指の腹とは反対の部分で、同田貫の首を撫でた。「猫はここが一番気持ちいいって、きくけど」なんて、ケラケラ笑っている。同田貫はやっぱりくすぐったさを覚えながら、頭の中をぐらぐらさせた。脳が混乱している。首なんて、人体の急所中の急所だ。そんな場所に他人を許している。御手杵の手はついに、指の腹で同田貫の首を撫でた。締められたら苦しいのだと同田貫は知っている。けれど、御手杵に絞められても全然苦しくなんか、ないのだとも思った。きっとそれは甘美な心地よさをして、同田貫を包み込む。いつか御手杵が同田貫の傷を丁寧にガーゼにくるんだように、そうなのだ。きっと、そうだ。

「かお」

御手杵の指のやわらかいところが、同田貫の顔の傷に触れた。心の襞に触れた。いちばんやわらかいところだ。肌色になりきらなかった醜い場所を、御手杵が撫でる。まるでほんとうに愛おしいものを撫でるようだと同田貫は思った。視界に御手杵の手がうつったり、消えたりする。不安が増したが、それでも耐えられないほどじゃない。御手杵は同田貫をあっさりと受け入れている。まるで十三年なんて空白、なかったみたいにそうだった。

「あたま」

御手杵はそう言って、最後にぽんぽんと同田貫の頭を撫でた。まるで猫にそうするように。よくできましたと言わんばかりに。三十代にむかってそれはどうなんだと思ったが、うまく考えつかなかった。それぎり御手杵の手は同田貫から離れた。今日の訓練はこれでおしまいらしい。同田貫はまだ混乱して、ぼんやりと機能を失っている頭で、御手杵に手をのばした。そうして、御手杵の手を軽く掴む。御手杵はちょっとびっくりした顔になって、その繋がっている部分を見た。同田貫も驚いた。まだ頭を混乱させておきたかった。混乱しているうちはいいのだ。まだ御手杵を受け入れられないという感覚がこわさとか、くすぐったさで残っている。全部受け入れてしまったら自分はどうなってしまうのだろうという怖さがあった。同田貫はもう三十一なのだ。人生をやり直すのにはとても苦労が必要な年なのだ。それなのに御手杵は突然現れて、突然(十三年前に申告していたにせよ)同田貫を拾って、そうして、同田貫をバラバラに解体して、組み直している。同田貫正国という人間を急速に作り変えている。同田貫はそれが恐ろしかった。こんなにも無造作で簡単に作り変えられてしまって大丈夫なのかと思った。なにか悪いことが起こるのではないかと思った。たとえば、御手杵の興味が失せて、また暗いところに置いていかれるとか、そういうこと。

「正国から触るのは、怖くないんだ」
「…わるい」
「悪かない。どうしてほしいか、言ってごらん」

その言い草は自分より八つも年上の男に向けられたものではまるでなかった。もっと小さな少年に向けられるようなもの。けれど同田貫は不思議と腹は立たなかった。安心をした。同田貫はこういうことに飢えていたのかもしれないと思った。御手杵はからからに乾いてひび割れた同田貫の隙間に、とぷとぷと水を注ぐ。どこから溢れてくるのかわからない水だ。底の見えない水。正体のわからない水。そうして、同田貫の正体も、わからなくさせようとしている。じっさい、同田貫はここに拾われる前、自分がどんな生活をしていたのか、何を考えていたのか、うまく思い出せなくなっていた。御手杵が何を考えているのかわからない。何を同田貫に求めているのか、わからない。御手杵はただ正体のわからないものを同田貫に与えるばっかりだ。

どうしてほしいか言ってごらん、と言われたのに、同田貫はどうしてほしいかがわからなかった。脳みそが違う風に混乱する。まるで叱られた子供のようになって、謝罪の言葉しか出てきそうになかった。べつになにかしてほしかったわけじゃないのに、その言葉だけ聞いているとまるで同田貫がなにかしてほしかったみたいだと思った。けれどその「何か」の正体は掴めないし、わからないし、もとから知らないのだ。脳みそが熱に浮かされて、同田貫ははくはくと口を動かした。動かしても、それは声にならない。御手杵はその様子を見て、「ごめんなあ、いじわるだったなあ」と同田貫の手を握った。同田貫は御手杵を見返すときに、自分の視線にへんなものが混じるのが、わかった。


その日の晩、同田貫は夜中になってもなかなか寝付けなかった。いつもは日付が変わる前に瞼を落として、一時間ほどしたらどうにか寝付けるのに、今日ばかりは身体の奥に熱のようなものが溜まって、寝付けなかった。夜中の二時まで粘ってみたがうまくゆかず、喉がからからになった。このまんまではさらに寝付けないので、同田貫はそろりとベッドを抜け出し、キッチンで水を飲むことにした。すると、真っ暗なキッチンに人影があって、同田貫は一瞬びくりとした。けれどそれはもちろん御手杵だった。御手杵もちょっとびっくりした様子だった。御手杵は水道のところに立っていて、手にはコップを持っていた。御手杵も夜中に喉がかわいたらしかった。

「びっくりした」

御手杵はそう言うと、コップをすすいで、水切りに立てかけた。真っ暗な中で声だけが飛んでくる。同田貫はそれがちょっと不思議だと思った。

「のど、かわいてさ」

御手杵はやけに饒舌に、そんなことを言った。同田貫がそろそろと水道のところに寄ると、御手杵は首の裏の方に手をやった。そのしぐさで、御手杵のほうから妙に子供っぽいような匂いがした。同田貫はあっと思ったが、なんにも言わなかった。コップをとって、水を注いで、乾いた喉に流し込んでゆく。ごくりごくりと音がした。御手杵がそれをじっとみつめているのがわかった。見えやしないのに、見つめていた。

その晩はそのままベッドに戻っても、朝になるまで、ちっとも眠れやしなかった。明け方になってとろとろと眠ったら、どうして、高校生だったあの日の夢を見た。御手杵が同田貫を丁寧に手当てした、あの時の夢。


「今日は背中、触るぞ」

それから一週間くらい経って、御手杵がそんなことを言い出した。それまで御手杵は同田貫の腕や脚や腹、身体のすみずみまでに手をいれていた。御手杵が触っていないところの方が多いんじゃないかというほど、手をいれていた。けれど背中にだけは決して触ろうとしなかった。そこは同田貫のいっとうやわらかい部分だ。御手杵は「こわい?」と尋ねた。同田貫はなんにも答えられなかった。御手杵は慣らすためにいつも通り向かい合って、同田貫の手を触った。同田貫は不思議だと思った。御手杵の手つきは昨日見た夢とかわらない、ただ同田貫を手当てしているだけのソレだったのに、そこに違ったものが混ざっていると思った。けれどそれが気持ち悪いってことはちっともなかった。同田貫の視線にもそれは混ざっている。

「こわくなったら、言って」

御手杵はそう言いながら、同田貫の腕を伝って、その根本、いつか羽が生えていたところに触れた。自然、御手杵の身体は同田貫にもたれて、ゆったりと包み込んだ。子供みたいな匂いがする、と同田貫は思った。それから、こわいところを触られているのだ、というぞわぞわする感覚も、あった。ぞわぞわするのに、どこかなつかしい気持ちがして、また脳みそが混乱をはじめた。瞼がぴくりと動いて、視線が甘くなる。息が少しだけ、あがった。御手杵は同田貫の肩甲骨をゆったりと撫でて、「けんこうこつ、尖ってる」と言った。同田貫も触ったことがないようなところを、御手杵は丁寧に触った。くすぐったい心地がして、同田貫は小さく声を漏らす。自分たちが今なにをしているのか、わからなくなってきた。これはなんだかとてもいやらしくって、親なんかにはとても言えないようなことじゃないのか、と思った。御手杵の手が肩甲骨を降りて、背中の中程あたりに触れた。御手杵の顎が同田貫の肩に乗って、そこもじりじりと焼けるようになる。今まででいちばん、触れている面積が広い。このまま、身体の隙間もぴったりと埋められたらどうなるのだろうと、思った。きっと頭がおかしくなる。同田貫はすこしこわくなって、両腕をぴくりと動かした。行き場のない腕だ。どこにやればいいかわからない。いつもは御手杵がちゃんと握っていてくれるのに、今日はその御手杵の手が背中に回っていた。同田貫はぼんやりと思考を緩め始めた頭で、ゆっくりと、その腕があるべき場所を探した。腕をのばして、曲げて、空を掴んでからやっと、その腕は御手杵の背中に辿り着いた。同田貫がそこに触れると、御手杵はすこしだけ肩甲骨を動かした。いままでちっともわからなかった御手杵の身体の動きが、手に取るようにわかった。同田貫の鼻が御手杵の肩口に埋まって、まだ大人になりきらないような匂いをいっぱいに吸い込む。なんだ、まだ大人になんてなっていないんじゃないか、と不思議な気持ちになった。その気持ちを吸い取るように御手杵の手が動く。同田貫の眉がぴくりと動く。二人の動きは連動していた。まるでひとつの生き物みたいに、そうだった。二人の隙間がだんだんなくなっていって、どんどんひとつになっていく。そういうことを、している。同田貫の息が熱くなって、くすぐったいのがどんどん違うものになって、感情が手のひらから全部溢れて、どうにもならなくなる。身体の力が抜けて、ぐったりとして、意識が朦朧としてきた。御手杵の手はもう腰まで降りてきて、同田貫はいやいやをするように身を捩った。なのに御手杵はそれをやめてはくれなくって、同田貫は小さく呻いた。御手杵の手が服の裾から直接肌に触れて、同田貫の傷をなぞった。背中には数え切れない傷がある。同田貫はちゃんと見たことはなかったけれど、いっとうひどいのだとわかっていた。そういうところに御手杵が触れているのがとても不思議だった。けれど至極まっとうなことなのだとも思った。御手杵の手が同田貫の肌をまさぐって、肩甲骨のあたりまで、戻ってくる。まるで自分の身体の中に手を差し入れられて、好きなようにされているような心地がした。こんなにみだらなことって、ない。御手杵は同田貫の耳をがじがじと噛むようにしながら、「こわい?」と聞いた。同田貫は「あ、あ」と声を漏らしながら、「くすぐったい」と言って、御手杵の背中の布を、ぎゅっと掴んだ。

もう何時間もそうしていたような気がした。じっさいは数十分にちがいなかったが、二人の間にある空気がそうさせた。離れてしまうには惜しかった。けれど同田貫が、もうどうにかなってしまうと思って、御手杵の背中をとんとんと叩いた。そうしたらずっとすんなり、御手杵の身体は離れた。そうして御手杵は「もう訓練はいらないかもしれないなあ」と困ったように、わらった。同田貫はそう言われたことを、うれしく思うべきなのに、なんだかかなしかった。同田貫はもう薄暗い世界のことを半分も覚えていなかった。御手杵と過ごした一ヶ月そこらの生活が同田貫を作っていた。これからもそうなるはずなのに、なんだか同田貫は捨てられたような心地がした。それがこわくってこわくってたまらなかった。

「なあ、俺、もう覚えてねんだ」
「…なにを…」
「お前に拾われる前、どんな生活してたか」

御手杵はそう言われたことにびっくりしたようだった。それは同田貫の深い深い傷だった。身体のそこかしこに残っている傷だ。

「なあ、おまえ、俺のこと拾ったんだろ」
「…うん」
「拾ったんだったら、ちゃんと面倒みろよ」
「…うん」

御手杵は母親に叱られた顔で、頷いた。そうして、「飼う。ちゃんと、飼うから」と、いって、同田貫に無造作にもたれかかった。「こわい?」と御手杵が尋ねる。同田貫は「くすぐったい」と言った。御手杵のやわらかい髪の毛が猫みたいで、ほんとうにくすぐったかったのだ。それから、御手杵は「猫も飼おう。正国が、寂しくないように、真っ黒なやつ」とぼそぼそ、呟いた。同田貫は、寂しいのはきっと御手杵なのだと、ちゃんとわかった。同田貫は御手杵の頭を撫でながら、見たこともない、もう死んだ猫のことを思って、「名前、なんにしようなあ」と、言った。


END


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