呼吸をやめられずにもがいているの






※現パロ、御手杵小学四年生、同田貫高校三年生




希望に満ち溢れているくせに、ほのかに絶望の香りのする言葉を、小学四年生の御手杵はちゃんと知っていた。けれどその言葉は使われることなく、御手杵の胸にひっそりとしまわれている。こんな卑怯で魅力的な言葉は使ってはいけないのだと御手杵は齢十歳にしてきちんと学習していた。

三日前、御手杵は猫を拾った。春先のまだ肌寒い空の下、住んでいるマンションからほど近い、路地裏のところで、その猫はゴミのように捨てられていた。毛の真っ黒な、縁起の悪い猫だ。しかし御手杵はその猫をしごく真っ当に可哀想だと思い、拾っていった。御手杵の住むマンションはペット可だったことを御手杵はちゃんと覚えていたのだ。しかしいざ連れ帰ってみると、ありきたりに親に反対をくらい、もとの場所に戻してきなさい、と言われた。御手杵の母親がひどい猫アレルギーだったのだ。御手杵は残酷に、しかし素直に、大好きな母親が苦しむのと、この今日出会ったばかりの猫が飢えるのとを天秤にかけた。天秤にかけた結果、猫は路地裏の住人となることが決まった。御手杵はせめて餌くらいは、と、もらっている月々のお小遣いから、安いキャットフードを買って、その猫に与えた。ドラッグストアで売っている中で一番安い餌だった。けれど猫は満足そうにそれを食べた。今までどんな仕打ちを受けていたらこんなに美味しそうに餌を食べるのだろうというくらい、うれしそうだった。

そうして今日も、御手杵は学校帰りに裏路地に寄った。しかしそこには黒い塊が横たわっていた。それは猫なんて大きさじゃなく、ぐったりとしていた。御手杵はそれがなんなのか、すぐにはわからなかった。おそるおそる近付いてみて、やっと、学ランを着た男だとわかった。黒い隙間からは肌色が見えていたが、その肌色は御手杵の知っている健康的な肌色ではなくって、傷だらけで、赤もしくは紫に倦んでいた。死んでいるのかと血の気の凍る心地がしたが、しかし、その身体はゆっくりと上下しており、息はあるのだとわかった。御手杵は知らない人には近付いてはいけない、と言われているのと、困っている人や病人にはすすんで手を差し伸べなさいと言われているのとを、同時に思い出した。それから、困っているかどうかよくわからないけれどきっと困っているだろうと自分が予想できる人に声をかけるというのはとても勇気が必要だということをはじめて知った。電車で席を譲る勇気なんてめじゃないのだとわかった。

そうこうしているうちに、黒い塊が大きく身じろぎをした。御手杵の気配に気がついたらしかった。それは低く唸って、じろりと御手杵を睨んだ。顔に大きな傷のある男は、そのこわい眼だけでじゅうぶん迫力があった。けれどその眼を、御手杵はどこかで見たことがあるような気がした。けれどそれはどうしても思い出せない。つい最近、御手杵はこの目を見たことがある。

「おにいちゃん、だいじょうぶ?」

学ランを着ていたので、中学生かもしくは高校生なのだろうと御手杵は思い、「おにいちゃん」と呼びかけた。その「おにいちゃん」は気だるげの手をしっしっという風に振ったが、それも辛そうに、下を向いたまんまだった。御手杵は「ケガしてる。救急車、よばないと」と言ったが、「おにいちゃん」は「いらねぇ。呼んだら殺す」と言った。御手杵はその言葉にびっくりしてしまった。「殺す」なんて言葉、御手杵の周りには使う人がいなかった。けれどその「おにいちゃん」は自分の名前をサインするように、その言葉を使った。そのくせ、ちゃんとその言葉の意味を知っているようだった。人ひとりの命がなくなってしまうことがどういうことなのか、すみずみまで知っているような顔だった。御手杵はとにかくびっくりして、こわくなって、小さな声で「ごめんなさい…」と言って、後ずさりし、がくがくする膝で、その場を後にした。猫のことなんて、もうすっかり忘れてしまっていた。

次の日も、御手杵はその路地裏に顔を出した。あんなのは昨日ぎりだと思ったのだ。今日にはかわいい猫がちょこんといるだけなのだと思った。けれど現実っていうのはうまくいかないもので、路地裏には昨日と同じように「おにいちゃん」がいた。今日は起き上がっていて、ぼんやりと虚空を見つめていた。その眼差しを御手杵はどこかで見たことがあるような気がした。それは昨日自分の名前を書くように「殺すぞ」と言った男には似つかわしくない気がした。御手杵は意を決して、その「おにいちゃん」の近くへ、そろそろと近づいた。御手杵に気がついた「おにいちゃん」は、「なんだ、おまえ」と御手杵を見た。どうやら昨日のことは覚えていないらしい。御手杵は昨日よりずっとこわくない気持ちがした。この人は満員電車で妊婦さんやお年寄りが立っていたら、ちゃんと席を譲ることができる人なのだと思った。そうして相手に、「すみません」と言われてしまう人なのだとも、思った。

「ねこ、みなかった…ですか。このあたりに、いるんですけど」
「…さあ、」
「まっくろな子…です。まだちいさくって」
「悪ぃなあ、ほんとうに、知らねんだ」

「おにいちゃん」は本当に知らないらしく、頭の後ろをかいた。それから、「俺ぁよくここにいんだけど、見たことねぇなあ」と言った。御手杵はその丁寧な言葉に、この人と昨日の黒い塊はきっと別人だ、と思った。けれどちゃんと同一人物だということもわかっていて、だから、ちょっと興味を持った。前にオカルトちっくなテレビ番組でやっていた、二重人格というやつなのではないかと想像が膨らんだ。

「もしかしたらここにくるかもしれない…ので、待たせてもらっても、いいですか」
「いや、俺に許可求められても、なぁ…。好きにしたらいいんじゃねーか」

御手杵はそう言われたので、「おにいちゃん」の横に腰を落ち着けた。「おにいちゃん」はちょっと居心地が悪そうに視線をうろうろとさせた。まるでここ以外の居場所を知らないようだった。御手杵がいても、他の場所へ行こうとはしない。この路地裏が好きなのだろうかと御手杵は思ったが、きっとそんなことはないのだろうとすぐにわかった。御手杵はしばらくこの人と一緒に時間を過ごすのだろうと思い、「俺、御手杵。おにいちゃんの名前、教えてください」と言った。万が一のために下の名前は教えなかった。御手杵はそういうずる賢いこともちゃんとできる子供だった。すると「おにいちゃん」は「同田貫正国」と答えた。なるほど、この人はずるいことはできない人らしい、と、御手杵は思った。

その日は結局、猫は現れなかった。御手杵は二言三言、同田貫と話をした。あってないような内容の話だ。まだ寒いだとか、今日はでもあったかいだとか、そういう話だ。同田貫は御手杵の敬語が苦手らしくって、「なあ、タメ口でいい。小学生のくせに、おまえ、なんでそんなに敬語使えるんだ」と言った。御手杵は「小学校で先生と話すときに使う」と答えた。同田貫は「俺のとこはタメ口だったけどなあ」とちょっとしたギャップを感じたらしかった。そうこうしているうちにあたりが暗くなって、午後六時になった。御手杵の家の門限は六時だったので、御手杵はその時間に路地裏をあとにしたのだけれど、同田貫はそこからちっとも動く気配がなかった。いつまでいるのだろうと御手杵は思った。それから、きっと真夜中になっても、そこにいるんだ、とも思った。

そのまた次の日も、御手杵は路地裏に顔を出した。猫と、同田貫に会いにきたのだった。御手杵は同田貫がそこにいるとわかって、今度は会いにきた。別段面白い話をしてくれたわけではなかったが、どうにも、同田貫が気になったのだ。同田貫は謎に包まれている。小学生という生き物はミステリアスなものに惹かれる運命にあって、それはどうしようもないことだった。果たして同田貫はそこに座っていたし、猫はやっぱりいなかった。御手杵が現れると、同田貫は今度は昨日のことを覚えていたらしく、「またきたのか」と、ちょっとぶっきらぼうに言った。なんだか口を動かしずらそうにしていると思ったら、同田貫の左頬は紫に腫れていた。御手杵が「誰かとケンカしたんだ」と言うと、同田貫は頬に手をあてて、「喧嘩じゃねぇ」と言った。じゃあイジメだろうか、と御手杵は思ったが、口には出さなかった。気をつかったとかそういうことじゃなく、同田貫はいじめられている子の顔ではなかったので。

「正国はさあ、ずっとここにいたんだ、猫、こなかった?」
「昨日の今日で正国呼びかよ…いいけどよ。猫はなぁ…ほんとにきてねんだよ」
「そっか…」
「なあ、その猫って、ここに住んでたのか」
「うん。ここに捨てられてて…俺がここで餌、あげてたんだ」

同田貫はちょっと考える顔になった。

「なあ、こんなこた、教えたくねんだけどよ、猫って生き物は、死に様は誰にも見つかんねーようにするって、知らねえか」
「…なに言うんだよ」
「いや、餌もらえる場所に出てこねーのは、妙だろ。で、捨てられてた猫なんだったら、ここらじゃそう長くは生きらんねぇだろうなあって…俺ぁしばらくここにいるけどさあ、そんな猫、見てねぇし、まだ子猫だったんなら…なあ」

御手杵はそう言われて、考えられるだけの最悪な妄想をひとしきりしてから、その黒い子猫が誰にも見つからない場所で静かな塊になっているところを妄想した。けれどそれはあんまり上手には想像できなかった。御手杵はまだ死というものを体験したことがなかったし、周りにもそんなものは存在しなかった。たしかにテレビの中では毎日誰かが死んでいるけれど、それは遠い世界の話だった。そんな遠い世界の話がこんな身近な路地裏で起こるはずがないと思った。同田貫はなんて残酷なことを思いつくのだろうとも思った。それから、自分の名前をサインするように「殺すぞ」と言い放った同田貫のことも思い出した。そうしたら、この同田貫とあの同田貫はほんとうに一緒の人物なのだ、ということに気がついた。同田貫の周りにはちゃんと死があるのだと思った。けれどそれでも御手杵は猫が死んだなんていう事実は受け入れられなかった。ここに死体があるならまだしも、いなくなっただけで、この世界のどこにももういないのだとは信じられなかった。

「…誰かに、拾われたのかもしれない」

御手杵がそう言うと、同田貫はそんな発想はどこにもなかった、という顔になった。そんなことあるわけない、という顔もした。一度捨てられてしまったらもう、あとは死ぬだけなのだとしか思っていないようだった。御手杵の考えは希望的観測でしかなかったが、しかし、たしかにその可能性もちゃんとあった。けれど同田貫にはそれはあんまりに、非現実的らしかった。そういう場所に、同田貫はいる。同田貫は「そうさなあ」と、とても悲しい顔をして、「そうだったら幸せだなあ」と、遠い世界のことを話すように言った。御手杵はびっくりしてしまった。世の中にはこんな人がいるんだと思った。

その日もしばらく猫を待ってみたけれど、猫はやっぱり現れなかったので、御手杵は同田貫とさようならをして、家に帰ることにした。そうしてすぐ、家にはついたのだけれど、リビングに行ってみると、母親がとても怖いような、悲しいような、何かに怯えているような、そんな顔をしていた。御手杵が「どうしたの」と、恐る恐る尋ねてみると、母親は「だいじな話があるの」と言った。そこから先、母親が話したこと、御手杵はどこか遠い世界の話のようだ、と、思った。

次の日、御手杵はこそこそと隠れるようにして、路地裏に向かった。御手杵はそこに至るまでに最悪の妄想をたくさんした。同田貫がなんにも言わない、なんにも喋らないただの塊になっているんじゃないかって、何度も考えた。同田貫が纏う不思議な空気がなんだったのか、ちゃんとわかった。わかったけれど、理解はできていない。それが怖かった。御手杵はまだ十年しか生きていない。死ぬってことをよく考えないで生きてきた、十年。

御手杵が裏路地についたとき、そこにはなんにも喋らない、動きもしない黒い塊があった。御手杵はひゅっと息を飲んだ。それは間違いなく、同田貫だった。いつもの学ランを着て、そこに冷たく横たわっている。遠目から見てもひどい怪我をしているのがよくわかった。御手杵が近づけずにぴたりと固まっていると、その塊は小さく、ほんとうに小さく息をついた。それがわかるとやっと金縛りになっていたようなのがほどけて、御手杵は「正国!」と、同田貫に声をかけることができた。こわかった。それまでこわい妄想だと思っていたものがバシバシと現実になっていくさまが、とてもこわかった。

「ケーサツ…救急車…」

御手杵が持っているスマートフォンで百十番か、百十九番をしようと思ったら、それを同田貫にバシッと払われた。ほんとうは、そんなに強い力じゃない。同田貫にはそんな力、残ってなかった。手がちょっと触れただけだ。それだけでも、震えていた御手杵の手からはそれが簡単に落ちてしまって、カシャン、と音を響かせながら、地面についた。同田貫はひゅうひゅういいながら、「ころすぞ」と御手杵を睨んだ。あのはじめて会った日のようだ。その言葉は明確な殺意をもって、御手杵に突き刺さった。どうして、と御手杵は思った。けれど、子供って生き物は、そういうふうに作られているのだとも、思った。御手杵が子猫と母親を天秤にかけたように、同田貫も同田貫の親と自分を天秤にかけている。御手杵はそれがわかったとき、自分がいかに残酷なことをしたのかということが、痛いほど、わかった。命は天秤にかけちゃ、いけない。そんなことは神様にだって許されちゃいないのだ。

「おとうさんに、されたんだ、こんなに、ひどく」

御手杵が呆然と呟くと、同田貫はなんで、という顔で御手杵を見た。その目も半分は開いていなかった。片目は腫れていて、ちゃんと見えているのかどうかも怪しかった。唇はざっくりと切れていたし、同田貫の身体はどこもかしこも血生臭かった。

「おかあさんに、昨日しかられたんだ。同田貫の家の子と会っちゃいけないって、…あすこの家は親が…とか、そういう、はなし…こわいところだとか…そんな、こと」

同田貫という珍しい苗字も助けてなのか、このあたりで同田貫の家は有名らしかった。同田貫の父親は近所では有名なアルコール中毒者で、昼間から酒を飲んでは、人に絡んだり、ものを壊したりしているらしい。外でそうなのだから、中ではもっとひどいのだ。妻、つまり同田貫の母親にも日常的に暴力をふるって、ひどい言葉を何度もぶつけて、何年もかけて施設送りにした。同田貫だって、何度か児童相談所のお世話になっていたらしい。一時保護の対象になったこともある。それでも色んな事情から親元に返されて、今もまだこうして暴力をふるわれているのだった。御手杵はそんな話を、一時間くらいかけて母親から聞き、さらに一時間くらいかけて、遠回しに「もうあすこの家の子とはかかわらないで」ということを噛んで含めさせられた。それでも御手杵は同田貫に会いに来た。同田貫の目が忘れられなかったのだ。ここで同田貫まで天秤にかけることは、できなかった。御手杵はひどい人間になんか、なりたくなかったのだ。なにかできることがあるはずだ、なんて傲慢なことは思わなかった。だって御手杵はまだ十歳なのだ。同田貫が十八年かけて苦しんできたことを、どうして解決なんかできるだろう。ただ自分のエゴを押しつけることしかできない、小学生だ。

同田貫は御手杵の変な視線に、「おまえ、育ち、いいだろ」といやみを言った。それくらいの元気はあるらしかった。けれど、御手杵はその言葉をいっとう嫌に思った。

御手杵はそういう嫌味に敏感だった。御手杵の父親は企業の経営者で、母親は専業主婦だ。御手杵はお金に不自由した経験がない。愛に飢えたこともない。けれど御手杵は、それをはずかしいことだと思っていた。誰しもが背負う苦労を、御手杵をしたことがなかった。それは不勉強というものだ。知らないことは、恥ずかしいことだ。だから御手杵は必要以上にお金を使わないようにちゃんと節制していたし、自分の家柄を見せびらかすようなこともしなかった。だって、恥ずかしいのだ。持っていることがはずかしい。けれど同田貫はそれを見抜いていた。御手杵が何一つ不自由したことがないということを、ちゃんと見抜いていた。そうして、それを御手杵に突きつけてきた。同田貫は何も持っていない。持たない苦労だけで、身体が作られていた。

「もうここには、くんな」
「どうして…、だって、正国、どうすんだよ」
「…どうもしない」
「そういって、しぬんだ」

御手杵は生まれてはじめて、ちゃんとした意味で「死ぬ」という言葉を使った気がした。それは氷のような冷たさとは違う、そこにただひたすらになんにもないだけの冷たさをしていた。触ってみても手は濡れないし、冷たすぎて痛くなることもない。ずっと触っていられるけれど、そうしていたら気が狂ってしまいそうな、そんな冷たさ。

「まってて」

そう言って、御手杵は踵を返して、その場を一旦離れた。御手杵は、とにかく、同田貫の傷の手当てをしなければいけないと思ったのだ。けれど御手杵はなんにも持っていない。家から道具を持ってきてしまうと母親に不審に思われてしまう。御手杵はドラッグストアに走りながら、はじめて、自分がお金持ちの家の子でよかったと思った。普通の小学生では絆創膏の箱ひとつ、買えないかもしれない。けれど御手杵の財布の中身くらいあれば化膿止めの薬だって買えるし、ガーゼも、テープも買える。必要なものはスマートフォンで調べれば簡単に出てきたし、手当ての仕方だって、そうだった。御手杵は買い込めるだけ買い込んで、路地裏に戻った。そこにはまだ、同田貫が横たわっていた。同田貫は他に行くところがないのだから、当たり前だった。悲しいことだけれど、御手杵はそのことをちょっとだけ、ありがたく思った。


「こんなこと、したって、なんになる」

御手杵に学ランを剥ぎ取られながら、同田貫はぐったりと呻いた。

「ちょっとは痛くなくなる」
「おまえが痛いわけじゃない」
「そう、だけど…このままじゃ、しぬんだ」
「もっとひどく殴られたことだって、あんだ、死なない」
「だからって、このままほっといていいはずないだろ」

苦労して同田貫の学ランを脱がせると、半袖のインナーから伸びた腕のそれに、御手杵はひっと息を飲んだ。肌色をしているところの方が少ない。背中はもっとひどいのだろう。同田貫はいつもうつ伏せに蹲っているのだ。

御手杵はペットボトルの水で湿らせたハンカチで、同田貫の顔や腕の傷を丁寧に洗った。同田貫はそのたんびに、小さく呻いて、目を眇めた。不思議だった。肌色の部分は触っても冷たいのに、色のついている部分は触るとどくどくと脈打っていて、熱いのだ。そこだけ違う生き物のように苦しんでいる。そこに触るのはとても勇気が必要だったが、御手杵は薬を塗るのにまぎれて、その生きている部分に、たくさん触れた。そうすると、同田貫がちゃんと生きているのだと安心できた。まだこんなにあったかい。こんなにやわらかい。御手杵が触るたんびに、同田貫からなにかが溢れてくるような気がした。暗いものも、あったかいものも、ぜんぶいっしょくたになって、同田貫から溢れてくる。血液にも似ている。御手杵はそれを丁寧にすくいとって、ガーゼに包んだ。ぞくぞくした。興奮するということを御手杵はまだよく知らなかったので、それは失禁したいような感覚で、腹の底でぐつぐつと煮え滾った。

手当てが終わる頃にはもう、六時になろうとしていた。門限が迫っている。同田貫はいくらか楽になったのか、気だるげに身体を起こして、あきらめたように不恰好な包帯を巻き直していた。御手杵は同田貫の傷をすみからすみまで受け止めたような気になって、ずっと悲しかった。なにかいい言葉はないかとずっと探していた。御手杵にとっては非日常でも、同田貫にとってはこれが日常なのだと思うとことさらに悲しかった。とても無責任な言葉を使いたくなった。

「俺が大人になったら」

希望に満ち溢れているくせに、ほのかに絶望の香りのする言葉を、小学四年生の御手杵はちゃんと知っていた。

「俺が大人になったら、あんた、拾ってやるよ」

御手杵は同田貫の寂しいような、薄暗いような視線の正体を、やっと掴めたような気がした。捨てられた猫の目だ。あの黒い猫と同じ目だ。同田貫はその暗い目をさらに翳らせて、「何年後の話だよ」と、言った。その言葉に含まれたちょっとの希望を、御手杵は見逃さない。それだけあればいいと思った。自分がどんなに残酷で、自分勝手かなんて、思いもしない。


その日の晩御手杵は夢を見た。なんだかよくわからない夢だ。同田貫がひどい怪我をしていて、御手杵がそれを丁寧に手当てする夢だ。なんにもいやらしいことなんてしていないはずなのに、御手杵はそのことにひどく興奮をした。昼間に感じた失禁してしまいそうなそれを、もう一度疑似体験した。けれどそれは昼間の体験なんか目ではないもので、御手杵の下半身を甘く痺れさせる。あっと思って目覚めた時、御手杵は下半身の甘だるいかんじと、パンツの湿った感覚に、さっと青ざめた。この年になって失禁をしたのだ、どうしよう、と、とても焦った。けれどそれはそうではなかった。御手杵はズボンを脱いでから、かっと顔を赤くした。友達が、いつか話していた。図書館でもちょっと盗み見たことがあった。御手杵は精通したのだった。それはとんでもない背徳感と、混乱を御手杵にもたらした。泣き出してしまいそうだった。こんなことは誰にも言えないのだと思った。誰にも合わせる顔がないのだと、思った。同田貫にももう会いに行けない。こんなことって、ない。

顔を覆った手のひらの隙間から、ほのかに絶望の香りがした。


END


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