すきとおった横顔






ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、なつかしみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。

まだ小学三年生の同田貫はもちろん、そんな名作小説の冒頭の一部を差し替えただけの文章を思いつくはずがなかった。しかしまだ小学三年生といえど、同田貫にだってなつかしく感じるものはたくさんある。それはこれまで歩んできた人生の積み重ねだ。とても尊くて、なにものにも代えがたい経験だ。そのなつかしみを覚えるとき、同田貫は自分がちょっとだけすきとおるような、そんな心地がする。その場所の空気に馴染んで、しずんで、溶かされてゆくような、そんな心地だ。

総合的な学習の時間に、方言について調べましょうという授業があった。壇ノ浦小学校は総合的な学習の時間をはまなすタイムと呼んでいる。はまなすタイムは地域に根ざした活動や、普通の勉強ではやらないようなことをするために利用されていた。今回もその一環として、「地域の方言について調べましょう」という課題が出された。

同田貫ははじめ、なんだか面倒な課題が出たなあと思った。自分の親や祖父母に話を聞いて、それをうまくまとめるという作業がとても大変に思えた。自分たちが普段から使ってしまっている方言もあると考えると、それをうまく説明づけて、整理して、ひとつひとつ標本化しなければいけないというのは常識をいちから説明しなさいと言われているようで、むつかしい作業に思えたのだ。同田貫はしかし、やらなければいけないのだろうなと思って、隣の御手杵をちらっと見た。ちょっとだけ「面倒だな」という視線を交わしたかっただけだったのだが、御手杵はじっと黒板を見つめていた。そこで同田貫ははっとしたのだ。御手杵の故郷は、ここではないのだ。

「なあおてぎね、どうすんだ」

授業が終わってから、同田貫はなんとはなしに御手杵にそう尋ねた。方言調べは宿題にされていた。同田貫は御手杵がどうやってこの宿題をこなすのか、ちょっと心配だった。しかし御手杵はなんてことはない顔で、「かーちゃんにきく」と言った。聞いてみると、御手杵の母親はもともと椿市の出身らしかった。今住んでいる家も御手杵の母親の実家らしいのだ。だから方言のことなら母親に聞けばだいたいわかると御手杵は踏んでいるらしかった。同田貫はなるほど、と思って、ちょっとばかり安心をした。

それから少し経って、いつもの六人で下校をする時に、獅子王が「きょうはほいくえんのほうとおってかえろうぜ」と言い出した。ちょっと遠回りにはなるが、たまには昔を思い出しながら帰るのもいいかもしれない、と同田貫と和泉守と大倶利伽羅は賛成をした。そうして、保育園の方を通って帰ったのだけれど、小学校を見慣れていた同田貫は、久しぶりに保育園を見て、こんなに小さかっただろうか、という気持ちになった。そうして、ふとこころがじんわりとあったかくなるような気持ちがして、「なつかしいな」と呟いた。そうしたら、みんなも「なつかしいよなあ」と言った。同田貫はこれがなつかしいって気持ちなのかと噛みしめる心地だった。けれどふと、隣にいる御手杵の顔を見たら、御手杵は新しいものを見る目でそれを見ていた。そうしてやっぱり、同田貫は気がつくのだ。御手杵には、壇ノ浦にも、海口にも、松崎にも、なつかしいと思うようなものが、まだなにひとつないのだということに。

同田貫はその日、家に帰って寝る前に、なつかしいってものがなにひとつない世界とは、どんなものなのだろうと考えた。同田貫には、保育園も、保育園に通うのに使っていたバスも、先生たちも、たくさんたくさん、なつかしいものがあるのだ。なつかしいものを見ていると、むねのあたりがじんわりして、目の奥がきゅんとなる。色をやけにまぶしく覚えていたり、逆にうすぼんやり覚えていたりする。そういうものが、御手杵にはないのだと思った。あるにはあるのだろうけれど、それは「とうきょう」に置き去りにされた感情で、ここらの風景とは結びつかないのだと思った。それはとっても、東京が恋しくなることだろうなあと思った。同田貫はそんなことを考えながら眠ったものだから、その日はなつかしい夢を見た。保育園の頃の夢だ。

その次の日が、方言の宿題の提出日だった。宿題の内容は、できるだけたくさんの方言を調べてきて、さらにその意味をプリントに書き込んでくる、というものだった。同田貫は家族の協力を得て、二十個近い方言を調べてきていた。中には同田貫が知らないようなものもあって、これはよくできた方だ、と思える出来だった。同田貫はふと、御手杵の方が心配になって、「なあ、しゅくだい、どうだったよ」とそれを尋ねた。すると御手杵はプリントのぜんぶの欄がうまるくらいびっしり書かれたそれを同田貫に見せた。同田貫はびっくりしてしまった。どうしてこんなにたくさん方言が調べられたのか、とっても気になった。すると御手杵は、「ふだんきいててわかんないようなことばはたぶんほうげんだから、それおもいだして書いて、いみをかーちゃんにきいたんだ」と教えてくれた。なるほど、御手杵の調べてきた方言はいつもみんなが使っているようなものばかりだった。同田貫が方言だと気がつかないで使っているようなものもあって、これは方言だったのか、と驚くところもあった。御手杵はぜんぜんそんな風ではなかったのだけれど、同田貫はこれはすごいものだ、と思った。

「あたらしいことばべんきょうしてるみたいで、なんかたのしくなっちゃったんだよなあ」
「あたらしいことば…」
「うん、とうきょうじゃつうじない、ここだけのことばだろ?」
「そうだな」
「マスターしたらさ、とうきょうでないしょばなしするときとかにつかえそうだなって」
「そうなのか」
「たぶん」

同田貫はそれを聞いて、なんだか自分たちがとっても格好のいい言葉どもを扱っているような気持ちになった。なんだかスパイのような気分になったのだ。東京じゃ聞けないここらだけの言葉というのも、なんだか希少価値がつくようでとってもよかった。同田貫はこの方言の授業はいつもよりずっと真面目に受けようという気持ちになった。

その日の帰り道、やっぱり六人で歩いていて、久しぶりにタイルの落ちている屋敷跡に立ち寄った。毎日通ってはいるのだけれど、まじまじとタイルを探すというのは毎日はしない。御手杵が「さいきんタイルひろってないなあ」と言ったから、ちょっと寄ることにしたのだ。御手杵はその屋敷跡のところで、いくつかタイルを拾った。同田貫も薄茶色で丸っぽいやつが気に入ったので、それを拾った。久しぶりで、なんだかなつかしいかんじがした。目の奥がきゅんとなった。けれど、御手杵はそんなことなくって、きっとまたあたらしい発見を楽しんでいるのだと思った。すると御手杵が「あっ」と声をあげる。

「レアのやつだ!」

みると、御手杵は小さい真っ青な四角いタイルを拾い上げていた。御手杵はそのタイルについた土を払い落としながら、「なんかなつかしいなあ」と言った。同田貫はその言葉にちょっとびっくりした。

「ここにきたばっかのときにもさあ、ここでこんな青いやつ、ひろったんだ。おぼえてる。なつかしいなあ」

同田貫はその言葉を聞いて、御手杵に「ほんとか」と尋ねた。御手杵はきょとんとした顔で、「うん」と言った。同田貫はその言葉を聞いて、なんだか自分がとってもお節介なことをしていたような気分になった。それから、とっても安心したし、とってもうれしかった。御手杵にとって、この場所にもちゃんとなつかしいものができはじめているのだということに、言いようのない気持ちを覚えた。そういうものがたくさん積み重なって、この場所が、御手杵のふたつめの故郷になればいいなあと、少なからず思った。そうしたら御手杵ともっとずっと深く関われるような気がしたのだ。御手杵は自分の手の中にある青いタイルをじっと見つめていた。同田貫はそっと、その横顔を盗み見たのだけれど、前の頃のような都会的な雰囲気がずっと薄まって、このあたりに溶けていくような表情をしていると思った。もしかしたらずっと、同田貫よりも深いところを見つめているような、そんな横顔。すきとおった横顔だ、と、同田貫は思った。

ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、なつかしみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。名前をつけてしまうには、あんまり、どうしようもない感情なものだから。


END


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