消耗品、品名、勇気






最初はそんなこと、獅子王も信じていなかった。

まだ小学三年生の獅子王はもちろん、そんな名作小説の冒頭の一部を差し替えただけの文章を思いつくはずがなかった。しかし信じていなかったものは信じていなかったのだ。何を信じていなかったのかというと、ヒトは大人になると臆病になる、ということだ。はじめそんなことを言ったのは和泉守だった。大人は虫を触れなくなるし、木にも登れなくなる。野原に寝転ぶのは汚いと言い出すし、そこらに生えているものを食べるのも嫌がる。それは和泉守に言わせれば単なる臆病からくるものらしかった。獅子王はそれを初めてきいたとき、そんなのはその人の性質だと思った。はじめから臆病な人は臆病なまんまだろうし、消耗品でもあるまいし、自分のこころの中に溢れている勇気が目減りするようなことは信じられなかった。きっと勇敢な自分には関係のないことだと思ったのだ。

しかし信じていなかった、と過去形になっているからには、今は信じている、ということになる。獅子王は自分を勇敢な方だと自負していた。プールの時だって高い飛込み台からためらわず飛び込むことができるし、ほよじの海だって、沖のブイまで泳ぐことができた。虫にだってためらいなく触れるし、木だって高いところまで登れる。秘密基地のハンモックをかけたのだって獅子王だった。獅子王は自分のことを勇敢だと思っていたし、じっさい大人にもそう言われた。そう言われることを嬉しく思っていた。自分のこころの中には勇気が溢れてくる泉みたいなものがあって、そこから際限なく勇気が湧いてくるのだ。獅子王は自分は結構なんでもできると思っていたし、じっさい勇気が必要なことはなんでもできていた。

けれどある日、獅子王は高いところから足を滑らせた。ちょっと油断していたのだ。そのちょっとの油断によって、獅子王は足をくじいた。幸い二、三日で腫れが引くような軽い怪我だったけれど、獅子王の心には足がずるっと滑った時のひやっとする感覚がずっとこびりついた。そのときからだった。こころの中にある勇気の泉から、ちっとも勇気が溢れてこなくなった。そこは泉なんかじゃなくって、ただの大きなタンクになった。そのタンクは、獅子王が何か失敗をするたんびに勇気が減っていった。ちょっとのことで勇気が目減りする。たとえば手を挙げて発言をして、その答えが間違っていたとかそんなことだ。勇気は消耗される。獅子王はだから大人は臆病になるんだと思った。こんなにかんたんに減ってしまうものを消費しながら生きていかなければいけないのだから、それは当然なことだと思った。勇気って、とっても貴重で、減りやすいものだ。それに獅子王は勇気を補充できたためしというのがなかった。獅子王にとって勇気は自分の中にあるものから必要なぶんだけ取り出して使うものだった。だから、獅子王は自分も大人になったら臆病になるのだと思った。

「あ、おてぎね、ふくにクモついてるぞ」

獅子王は小学校の昼休みに、御手杵の服に緑色をした小さな蜘蛛がついているのに気が付いて、そう教えてあげた。御手杵はすぐ悲鳴をあげて、「とって!とって!」と泣きそうな顔をした。獅子王は蜘蛛なんてなにが怖いんだろうと思いながら、それをちょっとつまんで、ぽいっとそこらへ投げた。御手杵は蜘蛛がどこかへ行っても、まだどこかがざわざわするのか腕をさすっている。

「おてぎねはムシにがてだもんなあ」
「うええ、おれほんとムシはむりだあ」
「そんなんじゃ、おとなになったときどうすんだよ」
「えー?」
「おとなになったら、おくびょうってやつになっちまうんだぜ。こどものころはへいきだったモンが、どんどんダメになるんだって、いずみのかみがいってた」
「そっかあ…そりゃあ、たいへんだなあ」

御手杵は獅子王ほどそのことを深刻に考えてはいないようだった。御手杵は獅子王から見たら臆病なところがあるのでそうなのかもしれないと獅子王は思った。御手杵は虫に触ることができないし、プールも高いところからは飛び込めないし、ほよじの海だっていつも浅いところで遊んでいる。木にだって登っているところを見たことがなかった。獅子王は御手杵のそういうところをちょっとなさけないと思うこともあった。しかし御手杵は平気そうにしている。それがちょっとだけ気に食わなくて、「おてぎねはさいしょっから勇気がないからそうあんしんしてられる」と言った。

「勇気っていうのはどんどんへってくもんなんだぜ。どうしたって、ふえてかないもんなんだぞ」

獅子王がそう言うと、御手杵はちょっと考えてから、「それはどうかわかんないぞ」と言った。獅子王は御手杵が苦し紛れにそう言ったのだと思った。けれど御手杵がすっとした顔をしていたので、ちょっとぎくっとした。

「おれはさあ、ひとりっきりだとどうにもなんないんだけど、だれかといっしょのときは勇気ってやつがわいてくるきがするんだよなあ」
「…」
「ほよじの海でな、こないだどうたぬきといっしょになら、ちょっとふかいとこまでいけたんだよ。ブイまではダメだったんだけどな。あしがつかなくなって、まっくらなカイソウのとこまで、いけたんだ。そんときそれがサワッてあしについたから、それでダメになってもどっちゃったんだけど、でもやっぱり、あんときは勇気でてたなあ。今はどっかにいっちゃってるんだけどさあ」
「たまたまだろ」
「うん、たまたまかも。でもさあ、勇気ってたぶん、どっかのあいだにできるもんだとおもうわけよ。自分のばっかつかってたら、へるかもしんないけどさ、どっかのあいだにできるやつをあつめてれば、そうそうなくなっちまうもんじゃないとおもうんだ」
「どっかってどこだよ」
「そりゃあ、どっかだよ。どっかにおちてんだよ」
「そんなのおちててたまるかよぉ」
「そうだけどさあ」

そうだけど、そうなんだよ、と御手杵はなさけなく言った。獅子王はいまいち信用がならないと思ったけれど、ちょっとだけ、そうだったらいいなあとも思った。思っただけで、やっぱりそうだとは、思わなかったけれど。

それから少し経ったある日、御手杵がちょっと高い木に登れるようになった。高いといっても自分の背と同じくらいの高さのところだ。獅子王はそれよりも高いとこに登れる。あぶないから大人がいるところでしか登ってはいけないと言われているので登らないだけだ。けれど御手杵は「のぼれた!のぼれた!」と楽しそうにしていた。前の御手杵だったら絶対無理だったところだ。獅子王はそれを見て、御手杵はどこから勇気を持ち出してきたのだろうかと思った。御手杵の中にはもとから勇気ってやつがあったのだろうかと獅子王は思ったが、だったら最初から登れているはずだとも思った。思い返してみると御手杵ができるようになったことははじめの頃に比べるとずっとふえていた。ほよじの海もだんだん遠くまでいけるようになっていたし、夏休みがはじまる頃のプールでは飛込み台から飛び込めるようになっていたし、虫だってアリくらいなら触れるようになっていた。目覚ましい進歩だ。御手杵はどうやら、どこからか勇気を拾ってきているらしい、と獅子王は思った。それはどこなのだろうなあ、と思った。こないだはっきりしなかったところだ。

獅子王がいったいどこから拾ってきているのだろうとうんうん唸っていたら、木の上から御手杵が「のぼれたけどひとりじゃやっぱこわいなあ」と言った。獅子王はしょうがないやつだなあと思いながら、自分も登っていってやろうと木に足をかけた。そうしたらきゅうに、こないだ足を滑らせたときのずるっという感覚と、ひやっとするものがこみ上げてきて、勇気が出なくなった。獅子王は木に足をかけたままちょっと固まってしまう。御手杵はそれを見て、「どうした?」という顔で獅子王を見た。獅子王はああ、自分の勇気はもうなくなってしまったんだ、という絶望的な気持ちになった。勇気のタンクにはもうちょっとしたそれも残っていなくって、高いところに登るのがとんでもなく怖いことのように思えた。そうしていたら、御手杵が「ししおうはやっぱりやさしいよなあ、おれがこわいっていったら、すぐきてくれるもんなあ」と言った。その言葉をきいたら、なんだかこれはのぼらなければいけないという気分になって、どこかの隙間から、ぽろっと勇気がこぼれてきた。あっと思った時にはもうするっと身体が動いていて、いつの間にか御手杵の隣にきていた。獅子王は隣ですごいすごいと笑っている御手杵の顔をみて、「おまえすごいなあ」とぽろっと口にした。御手杵は「なにがだ?」と首をかしげる。獅子王も、いったいなにがすごいのかよくはわからなかったけれど、とにかくすごいなあと思った。また、こころのどこかに勇気の泉ができた気がした。

最初はそんなこと、獅子王も信じていなかった。けれど、御手杵の言う通り、勇気っていうものはそこらに落ちているものらしかった。大人は単に、その見つけ方を忘れてしまっているだけなのだ。


END


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