あわがでるまで






私がこの世でいちばん神聖な場所は台所だと思う。

まだ小学三年生の和泉守はもちろん、そんな名作小説の冒頭の「好きな」を「神聖な」に差し替えただけの文章を思いつくはずがなかった。しかし和泉守はほんとうに台所を神聖な場所だと思っていたし、母親以外は立ち入ってはいけない場所なのだと思い込んでいた。

どうして和泉守がそんなふうに思うのかというと、単に台所に入ると決まって怒られてばかりいるからだ。火があぶないだとか、刃物があぶないだとか、何かと理由をつけて、和泉守の親は和泉守を台所に入れたがらない。はじめこそ台所には何かあるのだと思ってそこへ入りたがった和泉守だったが、小学三年生にまでなると台所にはなんにもなくって、ただただあぶないから入ってはいけないのだとわかるようになった。そんなにあぶない場所ならこの家から無くしてしまえばいいと思わなくはないが、台所がなくなってしまうと料理が作れない。料理が作れないとお腹が空いてしまうので、この家に台所があるのはいたしかたないことなのだと思うようになった。台所は和泉守にとっては入ってはならない、けれどなくてはならない、神聖な場所だったのだ。

ある日、御手杵と同田貫が和泉守の家に遊びにきた。暑い夏の日のことだ。児童公園のある方からセミの鳴き声が聞こえてくる。三人は外は少し暑すぎるといって、和泉守の家の中でゲームをして遊んだ。和泉守の家には陸奥守の家ほどではなかったがそれなりにゲームが置いてあった。黒い箱のようなゲーム機だ。和泉守はさんざんにねだってそれを買ってもらったので、みんなでゲームをして遊べることはなかなかの自慢だった。格闘系のゲームをしてひとしきり遊ぶと、御手杵が「のどかわいた」と言い出した。和泉守の家には今、大人はいたがじぶんの部屋に入ってしまっていた。わざわざ呼ぶのもなんだと思い、和泉守は「むぎちゃならあった」と、神聖な台所へ入った。台所は時間によって入っていいかいけないかが決まるのだ。この時間帯は火元にさえ近づかなければ大丈夫な時間帯だった。和泉守はさっさとコップを出して冷蔵庫からプラスチックのポットを出してすぐに居間に戻るつもりだった。しかし御手杵はそうとう喉がかわいていたのか、あろうことか神聖な台所になんてことはない顔でついてきたのだ。和泉守はすこしひやひやして、下腹部がきゅんとする心地がした。しかし御手杵も色々とわきまえているようで、けっして人の家の冷蔵庫を勝手に開けたりはしない。和泉守が冷蔵庫からポットを出すのを待っている。和泉守はポットを出して、ついでに戸棚からコップも出してやった。注いでやるのはなんだかかいがいしい気持ちがしたので、「じぶんでそそげよな」と言って、テーブルにそれだけ並べた。御手杵は「ありがとー」とお礼を言うと、それを手にとる。そこで事件は起こった。御手杵はなんということだろう、手を滑らせて麦茶の入ったポットを床に落としてしまったのだ。あわてて拾い上げたものの、ポットの中身はとぽとぽと床にこぼれてしまい、小さな湖を作っていた。和泉守はぎょっとして「なにしてんだよ!」と怒鳴った。御手杵は「わあ!ごめん!ごめん!」と謝って、何か拭くもの、とあたりを見回した。するとテーブルの上に布巾を見つけたらしく、それを手にとって躊躇なく床を拭いた。

「バカ!それはだいふきだ!ぞうきんはほかのとこだ!」
「うええ、どこだよぉーあんまかわんねーだろー」
「かわる!おれすごくおこられんだ!あーもう、どうすんだよ!」
「いや、ぞうきんどこだよ」
「しらねーよ!」
「しらないのかよ!もうふきんでもなんでもふければいいだろぉ」
「だめだ!ふくな!あっ!もう!むぎちゃ代とふきんよごした代でひゃくまんえんだ!」
「そんなにしねーよ!」
「ひゃくまんえんだ!」

そうやって言い合っていると、騒ぎに気付いたらしい和泉守の家の人が出てきて、「あらあらこぼしちゃったのね」と言いながら、雑巾で濡れた床をささっと吹いてしまった。それでも和泉守の怒りはおさまらなくて、御手杵に手をつきつけ、「ひゃくまんえん!」と怒鳴っている。和泉守の家の人はそんな子供の様子にあきれたようで、「馬鹿をお言いでないよ、こんなのたいしたことじゃないんだから!」と和泉守を叱り飛ばした。叱られた和泉守の怒りの矛先はやっぱり御手杵に向けられ、すごい形相で御手杵を睨んだ。睨まれた御手杵は理不尽すぎる要求と、自分の失敗と、こわい目つきに、とうとう泣き出してしまった。泣き出して、「いずみのかみのばーか!」なんて言いながら和泉守の家から飛び出してしまう。和泉守は「ばかはおまえだ!ばーか!」とそれに追い打ちをかけて、家の人にさらに叱られた。

それから、和泉守と御手杵はなかなか仲直りをしなかった。同田貫が取り持ってもダメだった。和泉守は「ひゃくまんえん!」と言って譲らないし、御手杵もこのことで頭を下げたらもっと理不尽なことを言われると思っているらしく頭を下げない。どうしたものかと周りの方が困り果てた。和泉守は御手杵がなかなかに許せなかった。神聖な台所を神聖とも思わないで入り込み、あまつさえ麦茶をこぼして、あろうことかそれを綺麗なふきんで拭いたのだ。これはゆるされざることだと思っていた。台所はこわいところなのだ。どんな呪いがあるかわかったものではない。

だが熱しやすいのもこの年代だが、冷めやすいのもこの年代である。二三日も経てば二人は口をきくようになったし、四日もすれば遊ぶようになった。ふたりの間にまだ溝はあったが、しかしそんなことは遊んでいれば忘れてしまう。狭い世界だったので忘れることも大事だった。しかし和泉守はやっぱり御手杵がやらかしたことをまだ腹の底に持っていたし、御手杵も同じなようだった。

そんなある日、今度は御手杵の家で遊ぼうという話になった。そういえばまだ御手杵の家には同田貫以外遊びに行ったことがなかったのだ。御手杵が「こんどのにちようびならいえのひといるからいいぞ」と言ったのだ。家の人がいる時でないと家では遊んではいけないことになっていたからだ。遊びに行くのは奇遇なことに同田貫と和泉守だった。他の三人は家が少し遠いから面倒がってそっちで遊ぶことにしたらしい。遊びに行くのはまた今度らしかった。

御手杵の家はそれなりに広かった。二階建てで、庭もちゃんとある。ここに御手杵と御手杵の母親のふたりきりで住んでいるのか、と和泉守は思った。御手杵の母親は「いらっしゃい。ゆっくりしてってね」とだけ言うと、何か用事があるのか、二階へと登って行ってしまった。和泉守は御手杵の家にはみんなで遊べるようなゲームがあるとは聞いていないし、何か家の中ですることも思いつかなかったので、てっきり庭や農道のあたりで遊ぶものだと思っていたが、違うらしい。御手杵はあろうことか、同田貫と和泉守を台所に案内したのだ。御手杵の家の台所はそれなりに広く、六人がけのダイニングテーブルが幅をきかせていた。二人しかいないのにどうしてこんなに広いテーブルが必要になるのだろうと和泉守は不思議に思ったが、問題はそこではなかった。台所は神聖な場所で、子供はみだりに立ち入ってはいけないはずなのに、どうして御手杵はこんなに平気な顔をしていられるのだろうと思った。和泉守がそろそろと御手杵のあとについて台所に入ると、御手杵は「きょうはホットケーキ作っていいってさ」と言った。和泉守ははじめ何を言われたのかわからなかった。それまで和泉守は料理というものをしたことがなかった。調理実習はもっと上の学年になってからだし、親に手伝いを頼まれたこともなかったからだ。むしろ料理をするときは台所に近づくなとさえ言われていた。それなのに御手杵ときたらどうだ。あらかじめ用意されていたホットケーキミックスや牛乳、卵を指差して、「ホットケーキならかんたんにつくれるし、おいしいよな」なんてことを言っている。和泉守は台所に立っていることですらどきどきなのに、御手杵は台所で深く息をしている。まるで台所で寝泊まりしているみたいだ、と和泉守は思った。そうして和泉守がおどおどしているうちに、同田貫と御手杵で材料はみるみる混ぜられ、ボウルの中で薄いクリーム色が完成した。御手杵が「これだけはつかうとききをつけるんだそ」と言いながら、あらかじめテーブルに出されていたホットプレートの電源を入れる。

「くろいとこはさわったらやけどする。しろいとこはだいじょうぶ」

御手杵はそんな呪文を唱えながら、ホットプレートを温めてゆく。もう黒いところが触れなくなったあたりに、ホットケーキの生地をおたまで上手にすくって、そこへ垂らした。まっすぐに薄黄色のどろどろが落ちていって、小さな池のようになる。どこまでも広がり続けるかと思いきや、それなりの広さになったあたりでそれはストップした。御手杵は慣れた手つきでみっつほど池を作った。そうしたらちょっとホットプレートの蓋を閉めて、「ひっくりかえすのがいちばんむずかしいから、うらみっこなしでひとりいちまいずつな」と言った。その手にはもうフライ返しが握られており、和泉守ももう「やったことない」とは言い出せない雰囲気だった。そうこうしているうちにホットケーキの片面が焼けて、表面にぶつぶつとした泡が出始める。御手杵は「このぶつぶつがでてきたらひっくりかえしどきなんだなー」なんて呑気に言いながら、三枚のうち一枚をフライ返しでかるがると持ち上げ、上手にひっくりかえした。同田貫も「じょうずだな」と言うほどには上手だった。次に同田貫がフライ返しを握り、これもまたそれなりに成功させる。ひっくり返されたふたつはこんがりと焼けていて、とってもおいしそうだった。残りひとつの薄黄色が、和泉守の心臓をばくばくとはやくさせた。

「はい、いずみのかみのばん」

御手杵がそう言って、和泉守にフライ返しを握らせる。人生ではじめて持つフライ返しは、それなりに重たくて、じんわりとあたたかかった。和泉守はどうしよう、と思った。かわってくれと言うのも、はじめてだと言うのもプライドが邪魔してうまくいかない。ええいままよ、と御手杵や同田貫と同じようにホットケーキをひっくりかえしたが、それは二つに折れてしまってひどい有様になってしまった。和泉守がどうしようどうしよう、と頭を真っ白にさせていると、御手杵が横から手を伸ばしてきて、「あーあ、しっぱいしっぱい。でもこうすればだいじょーぶ!」と、器用にフライ返しを使ってそれを平らに直し、ひょいっとひっくり返してしまった。尊敬するべきフライ返しさばきである。和泉守はちょっと不恰好だけれどちゃんとどうにか丸いホットケーキを見て、胸をなでおろした。

それから余った生地でもう一回だけホットケーキを三枚焼いた。ひとりにつき二枚いきわたる計算になるよう、御手杵がちゃんと生地を三等分したのだ。二回目は和泉守もなんとか成功して、「よし!」と声をあげた。その頃にはもうキッチンに和泉守がなじんできて、こわいと思うことも、下腹部がきゅんとなることもなかった。皿にうつしたホットケーキをダイニングテーブルに並べ、三人はいただきますをした。そうして、いただきますをしてから御手杵は「てすうりょうこみでひゃくまんえんだからな」と言った。はじめ和泉守は何を言われたのかわからなかったが、すぐにあの麦茶の件だとわかった。つまりはこれでちゃらだからな、ということらしい。和泉守はふん、と鼻を鳴らして、「しかたねーな」言った。だって、マーガリンがもうホットケーキに染み込んでいたのだ。

私がこの世でいちばん神聖な場所は台所だと思う。そこは料理をするための場所でもあったし、仲直りをするための場所でもあったからだ。


END


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -