あなたの崇高な理由






弱き者よ、汝の名は小学生なり。

まだ小学三年生の御手杵はもちろん、そんな小難しい演劇の一節の女を小学生に差し替えただけの文章を思いつくはずがなかった。そして御手杵は自分の置かれた立場が弱いと感じたことはなかったし、立場によって不利な状況に追い込まれたこともなかった。しかし小学生ということでままならない経験をしたことは何度もあった。たとえば遊ぶ時間だ。御手杵はいつまでだって遊んでいたいけれど、遊んでいいのは夕方の五時までと決まっていた。テレビの中の大人たちはそんなのに縛られずにもっと自由に遊んでいる。しかし御手杵は小学生だ。学校の取り決めや親の言うことは絶対正しいと思っていたし、じっさいそれをしっかりと守っていた。

御手杵はきまりを守るよいこだったが、ある日、先生からおしかりでもないが、ちょっとしたことを言われた。「字は丁寧に書きましょう」と、それだけだ。御手杵的にはとても丁寧に書いていたのだけれど、どうにも先生の目にはそううつらなかったらしい。遠回しにもっと上達しましょうと言われたのかもしれなかった。御手杵は「ていねいに書いてるのになあ」と自分のノートを見た。そこにはみみずがのたくったというにはちょっと元気すぎる文字が並んでいた。御手杵は教科書の文字と自分の文字を見比べて、しかし小学生にこんなにうつくしい文字を書けというのはたいへんな要求だと思った。そこでやっぱり隣の席の同田貫に「なあなあ、どうたぬきのノートみせて」と言った。同田貫はなんでもないことだ、という風に、御手杵に国語のノートを広げてみせた。するとなんということだろう、同田貫の文字はノートの中できちんと正座をしていた。御手杵の文字があばれまわってサッカーなんてはじめようとしているのに、同田貫の文字は堂々としているのにきちんとそこに鎮座していたのだ。御手杵はすごいと思った。そして同田貫のような文字がかけるようになりたいと素直に思った。

「なんでこんなにきれいな字かけるんだ」
「習字、やってる」
「そういえば、言ってたな」
「そこで習ってるからだ」
「おれも習字やれば字、きれいになるかなあ」

同田貫は「うーん」と考えてから、「かもな」と言った。どうやら必ずしもではないようだった。

「おれも習字やりたいなあ」
「習字の先生が、見学だったらともだちつれてきていいって言ってたな」
「見学…」
「ほんとうに習うんなら、『げっしゃ』がひつようだ」
「げっしゃ?」
「おかねだ」
「ピアノといっしょなんだな」
「そうだ」

しかし見学や体験目的であれば無料で教室へ行くことができるらしい。御手杵は次の土曜日に同田貫の書道教室へついていくことにした。

書道教室は小学校へ向かう坂道の途中にある、とても古い公民館で行われている。週に一回、土曜日だけで、同田貫はそれに小学二年生の頃から通っているとのことだった。御手杵はその公民館は登校と下校の時に眺めるばかりで、入るのははじめてだった。公民館は海口にあるふるさとセンターより狭かった。入り口の戸はたてつけがわるくてガラガラと大きな音をたてたし、二階へ続く狭くて急な階段も古くなってぎしぎしと音をたてた。書道教室は二階の畳敷きの小部屋で行われている。中に入ってみると、小学校で顔を合わせている子ばかりが十人かそこら、低い長テーブルを出していた。そのほとんどが女の子で、御手杵はなんだかちょっとはずかしくなって、同田貫がいてよかったと思った。

同田貫は部屋の奥にいた習字の先生らしいおじいちゃんに御手杵を「ともだちつれてきました」と紹介した。習字の先生はそれで「見学の子だね」と言った。御手杵は緊張して「はい」と答えた。

御手杵は同田貫に言われて書道の道具鞄を持ってきていたので、その日はみんなと同じように習字の指導を受けることになった。やることは習字の授業とあんまりかわらなかった。先生が書いたお手本がみんなに配られて、それを見ながら自分で書く。よくできたと思えるものを三枚用意して、先生のところに見せにいく。そうすると先生が綺麗なオレンジ色の墨汁で添削をしてくれるのだ。他にも、書きあぐねていれば筆をもった手に先生が手を添えて一緒に書いてみてくれたり、ここはこうするといいというアドバイスをくれたりした。

御手杵に渡されたお手本には「青いうみ」と書いてあった。御手杵はまずその綺麗な文字がとても素敵だと思った。こんな文字を書いてみたいと思った。しかしいざ墨汁を硯にたらし、筆をとって書いてみるとなかなかうまくいかない。四文字をきれいに並べることはおろか、ひとつの文字のバランスもとってもあやしかった。御手杵はどうしようこれでは三枚も提出できないととても焦った。焦ったところに先生がきてくれて、一緒に書いてくれた。すると不思議なことに、それは先生の力によるところが大きかったが、きれいに整った文字が書けた。御手杵は感動して、その感覚を忘れないように、と自分の力だけでも字を書いた。そうしたらさっきよりぐっと文字が落ち着いた。いたずらっ子があぐらをかいているというていの文字ではあったが、ずっと落ち着きが出て、整った文字になった。大人びた自分の文字を見て、御手杵は目を輝かせた。

楽しい時間というものはアッという間にすぎてしまうものだ。だいたい二時間程度の書道教室はすぐに終わってしまった。御手杵は自分の満足のいく作品を書くことができて、それを新聞紙の隙間に挟んで持たせてもらった。この一日でぐっと文字が上達したように思えて、御手杵はこの作品を母親に見せるのが楽しみに思えた。きっと上達ぶりに驚くだろうと思った。習字の先生は「本当に通うのであればこの書類を親御さんに書いてもらってきて、それをここにもってきてください」と言って、御手杵に一枚の紙を渡した。そこには月々にはらう金額や、細かい教室の案内などが書かれていた。御手杵にはむつかしくてあまり読めなかったが、とにかくこの書類を親に書いてもらえば、自分はこの素敵な教室に毎週通うことができるのだとわかった。



「ダメだって言われた」

御手杵がそうしょんぼりと同田貫に言ったのは、翌週の月曜日のことだった。御手杵はほんとうにしょげかえり、元気をなくしていた。親に「習字きょうしつにかよいたい」とその書類を渡したのだが、すげなく「ダメ」と断られたとのことだった。御手杵としても必死に説得を試みた。ほしいおもちゃを我慢するから、だとか、お手伝いをきちんとします、だとか、そういうところだ。しかし親としては月に約四回の教室のために六千円は払えない、どうせすぐにあきるのだから、といってきかなかった。そこで御手杵は「ともだちもかよってる!」と言ったが、それがダメの決め手になってしまった。「どうせ友達が通っているから通いたいんでしょう」と言われてしまったのだ。御手杵の心のうちにはたしかにそんな気持ちもあった。しかしそればっかりじゃなかった。そればっかりじゃないことをちゃんと口で説明できればよかったのだけれど、御手杵はその言葉を聞いてとっても悲しくなって、泣いてしまった。泣いてしまってはもうあとの言葉は出てこない。

「いっかいであきらめるんなら、そこまでだって、にいちゃん言ってた」

しょげかえる御手杵に、同田貫はそう言った。話を聞いてみると、同田貫も親の説得には相当苦労したらしい。時間を見つけては書道の道具をひっぱりだして親に書いてみせ説得をし、家の手伝いをしてはそのたびに説得をし、というのを何度も繰り返したとのことだった。御手杵はそれを聞いて、そうか、あきらめてしまったらそこで終わってしまうのか、と思った。続かないと思われているのであれば、自分の中で親を説得できるだけの習いたい理由を整理しなければならない。御手杵にはそれができていなかった。どうして習字をやりたいのか、自分の中でもうまく整理がつけられていなかったのだ。御手杵は習字をやってみて、「これはとってもたのしいものだ」「これはとってもためになるものだ」とは思っていたが、どうして楽しいのか、どうしてためになるのかまでは考えていなかった。きっと、そのことをうまく親に説明することができるようになれば、きっと親も了解してくれるに違いないと思った。

「なあなあ、見学って、一回だけか?」
「いや三回までだ」
「じゃあ、あと二回のこってる」
「そうだな」

あと二回で、うまく整理をつけなければいけないと御手杵は思った。はじめて自分がやってみたいことで親を説得しなければならないことに、ちょっと途方もない気持ちになったが、なげだそうとは思わなかった。なにせ御手杵にはやりたい理由があるのだ。まだ整理はついていないけれど、それをやりたいという崇高な理由が。

弱き者よ、汝の名は小学生なり。今はまだ親の許す範囲でなければやりたいことができないというのが、少しばかり悲しくはあったけれど。


END


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -