化石、海硝子、雨が降る






夏が二階から落ちてきた。

まだ小学三年生の御手杵はもちろん、そんな難しいサスペンスもしくはミステリー小説の冒頭の春を夏に差し替えただけの文章を思いつくはずがなかった。それに夏は二階から落ちて来ずともそのへんに転がっていたし、御手杵はずっと前から最近暑いなあと思っていたし、明日から夏休みだということに浮かれ気分になっていた。夏休みといってもこの田舎の夏休みは一ヵ月もない。七月の後半から八月の半ばまで。そのかわり都会と違って冬休みも同じくらいある。御手杵は終業式が終わったのち、夏休みのしおりや「あゆみ」、さまざまのお知らせの書かれたプリントを受け取って、明日からの夏休みに胸を膨らませた。

御手杵はあまり自分の評価というものを気にしたことがなかったが、「あゆみ」はなんとなく真面目に見た。引っ越してきてはじめての自分の生活が先生から見てどんな評価を下されているのか気になったのだ。「あゆみ」というのは小学生の成績通知表で、一学期、二学期、三学期の終わりに配布される。成績は三角、丸、二重丸で起債されており、おおむね、三角が「がんばりましょう」、丸が「よい」、二重丸が「たいへんよくできました」だ。御手杵は自分のあゆみを見て、二重丸がひとつもないことに落胆した。今までの通知表には少ないとはいえ何個か二重丸があったのだ。ここの先生は厳しいのかとも思い、同田貫に「あゆみ見せて」と頼んで見せてもらったが、同田貫のあゆみはほとんどが二重丸だった。

「なんでだろう」

御手杵がそう言って落ち込むと、同田貫が「いっかげつもいねんだ、せんせいだってそうそう『よくできました』はつけらんねんじゃねーか」と言った。御手杵はそれもそうだと思い、そのことは気にしないことにした。先生のコメントが書かれる欄には「みんなにとけこんで毎日元気にあそんでいます。手もたくさんあげてくれる子なのでたすかります。病気もなく元気で明るくすごしています」と評価が書かれていた。悪いことは書かれていない。御手杵はそのことになんだかほっとした。

先生は夏休みの過ごし方、宿題はどの範囲か、注意事項などをさっくりとみんなに伝えた。そうして子供たちの顔がきらきらと輝いているのを見てから、「では今日の授業はここまでです。みなさん夏休みが終わったらまた会いましょう」と言った。すると日直の和泉守がよく通る声で「きりーつ」と言った。みんなが元気よく立って、「ありがとうございました」と言う。御手杵もちゃんと元気に「ありがとうございました」と言った。

真昼の太陽が照り付けるなか、御手杵、同田貫、陸奥守、和泉守、大倶利伽羅、獅子王は空腹にあえぎながら下校した。昼間に下校するのはたいへん珍しいことなので、六人はいつもと違う景色に目をしぱしぱさせながら帰った。大人たちはほとんどが仕事のために町の方へ出ていて、あたりはみょうな静けさをまとっている。それがまた空腹を刺激して、ちょっとだけ辛かった。しかしそれを補ってあまりあるのが明日から夏休み、という事実だった。宿題もたくさん出たし、持って帰る荷物は多いしで大変だったが、それもこれも明日からの夏休みのためだった。ランドセルからびょんとリコーダーのケースが飛び出ている御手杵は、いてもたってもいられない様子で「なつやすみには海でおよげるんだよな?」と同田貫に尋ねた。同田貫は「そうだな」と答えた。

「おれ、海でおよいだことねーからすげーたのしみなんだよなー明日にはおよげるかな。あっでも大人についてもらわないといけないんだっけ。明日やすみじゃないから、おかーさん、しごとだ…」
「うみには『かんし』がつくから、おやがダメなときでもおよげる」
「『かんし』?」

御手杵が首を傾げると、和泉守が「なんだそんなこともしらねーのか」と言ってきた。

「『かんし』は大人のとうばんだ。まいにちとうばんで大人がふたり、ほよじの海をかんしするんだ。大人がふたりみてるから、こどもはすきにおよいでいいことになってる」

和泉守がそう言うと、その言葉に獅子王が続けた。

「でも天気がわるい日だったり、さむい日にはおよげないきまりになってんだ。その日は『あかはた』だ。ほよじのテントがたってるとこに『あかはた』がたつ。およげる日は『しろはた』がたつ。かんしのおとなもやすみになる」
「へー」

御手杵はそういうものなのかと思い、感心した様子で田舎事情を聴いていた。それからふと疑問に思って、「『かんし』のとうばんはどうやってきめるんだ?」と尋ねた。すると今度はめずらしく大倶利伽羅が口を開く。

「こんばん、『こどもかい』がある。そこでおとながきめる」
「『こどもかい』?」

御手杵がまた首をかしげると、陸奥守が「なんじゃ、しらんのか」と驚いた声をあげた。

「『こどもかい』はこどもかいぜよ。なつやすみのぎょうじもきめる。だいたいやるのはふるさとセンターじゃな」
「こんばん、あるの?」
「七時からじゃ」
「よるにみんなとあつまるんだ!」

御手杵はぱっと目を輝かせた。夜にみんなと集まるのははじめてだった。いつも遊んでいいのは夕方五時のチャイムが鳴るまでと決められていたので、夜にみんなと集まるのはとても新鮮なことのように思えた。それは他の五人も同じようで、目がきらきらと輝いている。今日の夜がとても楽しみになった。


ふるさとセンターは和泉守の家の近くの大きな坂を登った上にある。御手杵は一度だけ同田貫を探して辿り着いたことがあった。ふるさとセンターのちょっと下のところには広い空き地もあって、夏休みは土日以外毎日そこでラジオ体操をするとのことだった。今その場所は大人たちの車でうまってしまっていたが。御手杵は母親と一緒に、十分前にはふるさとセンターについた。歩くと十分くらいかかるので母親の車でだった。御手杵はいつも一時間近くかけて小学校に通っているので苦ではなかったが、母親にしたらちょっとした距離らしかった。

ふるさとセンターの玄関にはもうすでにたくさん大きな靴や小さな靴が集まっていた。中は土足厳禁で、板張りの廊下になっている。どこかの家にも似ていた。夏休み中は基本的に松崎地域と海口地域がかたまって活動することになっているらしく、山の向こうの壇ノ浦地域の子や清瑞地域の子の靴はなかった。そっちはそっちで活動をするらしい。

ふるさとセンターは二階建てになっていて、一階には小学校の体育館の半分くらいのホールがあった。床には白いガムテープで体育館のように四角い囲いがある。子供たちが遊べるようにとのことだった。ステージもあって、敬老の日にはそこで子供や地域の人が出し物をするらしい。ついでに炊事場もついていた。色々な地域イベントがここで行われるので、多機能に作ってあるらしい。災害が起こった時の避難所としても指定されていた。子供会は二階の座敷で行われるらしく、階段を登っていくと小学校の教室くらいある畳敷きの部屋があった。そこには折り畳み式の座って使う長テーブルが並べられていた。御手杵はそこで同田貫の姿を見つけると、ぱっと表情を明るくしてそこに駆け寄った。部屋の前のテーブルは子供たちが使って、大人たちは後ろで見守るのがきまりらしい。テーブルについているのは子供ばかりだった。

しばらくすると大倶利伽羅や陸奥守、獅子王、和泉守もやってきた。子供は全部で二十人ちょっとで、大人はそれよりも少なかった。それでも部屋はぎゅうぎゅうになって、蒸し暑かった。窓は網戸になっていて、前の方で扇風機も回っていたがいかんせん人が多い。しかしそれでも夜というのは魅力的だった。御手杵はほどよい眠気にうっとりとした。いつものこの時間はテレビを見ているか、居間で宿題をやっている。それが今日はどうしたころだろう、仲良しの友達とあつまって夏休みの計画を立てるところなのだ。御手杵はわくわくして、どきどきがとまらなかった。

子供会の内容は簡単だった。プリントが子供には一枚、大人には二枚配られる。子供の方に配られたのは夏休みの行事予定表だった。大人にはそれともう一枚、海の監視員の当番表が配られたようだ。御手杵はプリントに目を落とし、どんな行事があるのかとそれを確かめる。プリントにはお楽しみ会、廃品回収、キャンプ、勉強会の日付と時間が書いてあった。勿論難しい漢字にはルビがふってある。御手杵は隣の同田貫に「おたのしみ会ってなんだ?」だとか「はいひんかいしゅうってなんだ?」と尋ねた。同田貫はそのたんびに小声で「おたのしみ会はおたのしみ会だ」だとか「はいひんかいしゅうはいらねーもんをちいきのいえからあつめんだ」と律儀に答えた。一週間に何かしらひとつはイベントが催されることになっているらしく、御手杵はプリントを見ただけでいまからわくわくした。

子供会はイベントの確認をして、海に入る時の注意事項を確認したらあとはお開きだった。高学年の子たちは一階のホールでドッジボールを始めていたが、低学年の子たちは親に連れられて帰るところだ。和泉守は家が近かったので高学年の子たちにまざってドッジボールをやっていたが、御手杵や同田貫はそれなりに距離があったし、親も帰りたそうにしていたので帰ることにした。田舎の夜道は歩くには暗すぎる。同田貫のところもそんな理由からか車だった。

「またあしたな」

御手杵がそう言うと、同田貫は「ラジオたいそうでな」と言った。それがまたちょっと新鮮で、「ラジオたいそうで」とオウム返しをした。外に出ると夜風がひんやりとしていて、それが少しだけ寂しい。


翌日は気持ちがいいくらいの晴れだった。朝のラジオ体操は七時からで、七時の時報が流れると、そのあとに続けて子供の声で「みなさんおはようございます。今日も元気にラジオ体操をはじめましょう」という放送が聞こえる。時報を鳴らしているスピーカーを使ってラジオ体操を流すのだ。この地域ではいたるところにスピーカーが設置されていて、漁協がある場所に放送用の機器が設置されていた。六年生の子が放送の係をやるので、ラジオ体操には大人の姿は見当たらない。御手杵はラジオ体操を第二までやって、ラジオ体操カードに判子をもらった。判子の係ももちろん六年生だ。ラジオ体操が終わったら解散するのかと思いきや、子供はそう簡単に帰りたがらないらしい。もちろん帰る子もいたが、それはほんのひとにぎりで、あとの子供は陣取り合戦をはじめた。陣取り合戦というのは、空き地の隅にある水飲み場と、その向かい側にある石像をそれぞれの陣地として、その陣地にチームの誰かがタッチできたら勝ち、というものだった。もちろん簡単にはタッチできない。タッチするまでの間、敵にタッチされれば自分の陣地にもどらなければいけないし、敵も攻撃してくるのでそれを防ぐために追いかけてタッチしなければいけない。なかなかに頭を使う戦略ゲームだが、子供たちはそれを好んでやっていた。もちろん遊びは日によって違う。氷鬼の日もあれば、色鬼の日もあるらしい。とにかくそれで遊んで、日が高くなってきた頃に家に戻る。あんまり長くいると九時からの勉強の予定に間に合わなくなるからだ。

御手杵は九時から九時半までそわそわと勉強をすると、水着に半そでのパーカーを着て浮輪を持ち、頭にはゴーグルをひっかけてほよじの海へと向かった。泳げるのは日が充分にのぼった十時からだったが、御手杵は待ちきれずに三十分もはやく海に向かった。もちろんほよじについた頃には人影もなく、なまぐさいような潮風の匂いが充満するばかりだった。ほよじの海は、波打ち際は丸い砂利だったが、海からちょっと離れるとごろごろとした石がいっぱいで、とても歩きづらい。海は岩肌に抱かれるようになっていて、道からよく見える海口海岸と比べると、ごくごく狭い海岸だった。石がごろごろしているところには運動会などでよく見かけるようなテントが建てられており、そのテントに長い旗棒が据えられていた。旗はまだ監視員がきていないので赤いままだ。御手杵は誰もいない海岸がちょっと怖くて、テントの下で体育座りをして人がくるのを待った。ちょっと怖かったとはいえ、わくわくはもちろんとまっていない。

少しすると人の足音がして、同田貫と同田貫の保護者が現れた。今日の担当らしい。はじめて見る同田貫の家族は、大人にしては若かった。御手杵が不思議そうにしていると、同田貫は「きよくに兄ちゃんだ」と御手杵に紹介した。

「にいちゃんいたんだ」
「いる」
「おとな?」
「こうこうせい」
「ずいぶんはなれてるなあ」
「そうでもない」

そうこうしているうちにもう一人の監視の大人もやってきた。大人二人は海の水の温度を測って、下敷きをした用紙に何事か書き込んだ。そうして波打ち際からテントまで戻ってくると、赤い旗を降ろして、白い旗をあげた。御手杵は「やった!」と歓喜する。そのまま海へ飛び込んでしまいそうだったが、きまりは守らないといけない。御手杵は同田貫と体操をしながら、十時になるのを待った。

「十時になりました!泳いでいいです!」

監視員の大人がそう言うと、御手杵はわっと海に飛び込んだ。海の水はとても冷たく、最初は「つべて!」と海水に浸した足をもとに戻した。海の水はプールの水よりずっと冷たくて、きらきらと光を反射している。御手杵はそういえばプールでも足からゆっくりと水に慣れさせていたっけな、とやっと思い出し、波打ち際にそろそろと足を下ろした。波が寄せたり返したりしているところに足首までをつけた。そうして立っているとだんだんと自分が海水のにおいに侵食されてゆくのがわかった。海の水がひんやりと冷たく御手杵を呑み込んでゆく。御手杵は胸いっぱいに息を吸い込んで、はあ、と吐いた。今までつまっていた息が栓がとれるように吐き出されるのがわかったし、胸の中が海でいっぱいになるのもわかった。御手杵はそのままゆっくりと足を進めて、腿のところまで海につかった。脚をすすめるたんびに海は濃さを増して御手杵に絡みつき、侵食し、御手杵を海にしていくようだった。御手杵はだんだんと海になっていく。波が寄せて返すたんびに、海に近くなっていく気がした。

「そっから先、きゅうにふかくなるから気をつけろ」

御手杵が意識を海からずるりと引き上げると、隣には同田貫がいた。御手杵と同じように浮輪を持っている。そこから先、と言われ、御手杵は足元に注意しながら、そろそろと足をすすめた。すると本当にそこから先は深くなっていて、一気に水が御手杵の腹まできた。その先はまた深く、三歩も歩かないうちに浮輪が手放せなくなった。同田貫はとうに足の届かないだろうところでばしゃばしゃと泳いでいた。御手杵はちょっと怖いと思って、足がつくところでだけ泳ぐことにした。跳ね返る塩水が目にしみたので、御手杵はゴーグルをつけた。ついでにちょっともぐってみようと思い、足がつくことを確認してから浮輪を手放す。そうして息を止めて、とぷんと潜ると、海の水は見た目より透明だということがわかった。海の水は透き通っていて、結構遠くまで見通すことができる。御手杵の足がつかないだろうところのあたりに視線をのばせば、そこにはもじゃもじゃと海藻が生い茂り、海星や小さな魚がいた。御手杵はひっと息を飲んだ。海藻の森が真っ暗闇に見えて、のみこまれそうだと思った。ちょっとではなく怖いと思った。さっきまで御手杵は海と一緒だったのに、ぜんぜんちがう生き物がそこにいるようだった。御手杵は水面に顔を出して、少し流されていた浮輪を手繰り寄せる。同田貫は海藻のあるあたりを悠々と泳いでいた。よく泳げる、と御手杵は身震いした。御手杵はほんのちょっとの時間で海のうつくしさとこわさを両方経験した。足のつかないところへは行ってはいけないのだと本能的にわかった。だってあんな真っ暗闇に引きずり込まれたらきっとしんでしまう。御手杵はちょっと怖いことを考えて、それを振り払うように浮輪にしがみついた。

御手杵と同田貫が遊び始めてからしばらくすると和泉守もやってきた。和泉守もやっぱり浮輪を持っていて、この海で子供が遊ぶには浮輪が必需品なのだ、とわかった。御手杵は浮輪を持ってきたことをちょっと恥ずかしく思っていたのだ。もう低学年でもないのに、と。和泉守は身体を水に慣らすと、御手杵に「なあ、沖のブイまでおよごうぜ」ととんでもないことを言った。御手杵がびっくりして沖の方を見ると、それなりに距離があるところにブイが浮かんでいた。距離があるといっても五十メートルあるかないかだ。そこまでが泳いでいい範囲という目印だった。それでも学校のプールの二倍は距離があったし、下は海藻の森が茂っている。御手杵が「でも…」と言うと、和泉守は「なんだよ、こわいのか?」と御手杵を挑発した。御手杵は怖いと思ったが、和泉守に負けたくないという気持ちもあって、うんうんとうなった。

「ほよじになれるまでむりはさせんなって、にいちゃん言ってた。ほよじじゃむかしなんにんかしんでんだって」

うんうんとうなる御手杵に助け船を出したのはやはり同田貫だった。同田貫は浮輪を尻にしき、ぷかぷかと器用に波の上を漂っている。同田貫の言葉に、御手杵はこわい思いがした。「なんにんかしんでる」場所で自分たちは遊んでいるのだと思った。それから真っ暗な海藻の海を思い出して、あの黒の中に吸い込まれた人たちが今もまだ浮かび上がれずにいるのかと想像してしまった。想像したらぶるぶると震える心地がして、御手杵は「おれつかれたからちょっとやすむ」といって、海からひきあげた。

御手杵が波打ち際まであがると、和泉守もそれについてきた。まだなにか言いたいことがあるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。「海でやすむときはおんせんつくるんだ」と言って、波打ち際からちょっと離れたところの砂利をざくざくと手で掘り始めた。

「なにやってんだ、おまえもほれよ」
「え、うん」
「あ、つめはたてんな。あいだに砂がはさまってすげえイテーから」
「うん」

言われるがままに掘り進めていくと、掘った先からあたたかい海水が湧き出した。それは浅い水たまりだったけれど、御手杵にしたら本当に温泉がわき出したかのようだった。和泉守は掘った砂を防波堤のように波打ち際に積み上げ、「ひろげんぞ」といって、掘る場所をもっと広くした。御手杵もさっきの怖かった気持ちを忘れて、夢中になってそこを掘った。最終的にそこは御手杵と和泉守が並んで座れるくらいの広さになり、御手杵と和泉守ははそこに並んで座ってみた。温泉は尻のあたりをちょっと濡らす程度しかわいていなかったが、達成感に胸が膨らんだ。温泉に溜まった水は日光をうけてぬるくなっており、冷えたからだにはじゅうぶんあたたかい。御手杵はへらりと笑って、海って楽しいとこなんだな、と思った。

御手杵はちょっとあったまってから、自分たちの盛り上げた砂のなかにきらりと光る石があることに気が付いた。気になって拾い上げてみると、それは水色で、白っぽく濁っていて、けれどちょっと透き通っていた。大きさは小指の爪ほどもないが、それはとてもうつくしかった。御手杵は思わず、「サファイアだ!」と言った。驚いたのは和泉守で、和泉守は御手杵の手元を見るそうして「なんだ」という顔になった。

「そいつぁ海がらすだ」

御手杵はきょとんとした顔になって、「うみがらす」と繰り返した。

「海にすてられたガラスが波にあらわれてそんな白っぽくなるんだ。ほうせきじゃねぇ」

宝石じゃない、という言葉に御手杵は少なからず落胆した。しかし綺麗なものは綺麗だ、と思い、ほかにもないかと探し始める。すると泳ぎ疲れて温泉であたたまりにきたらしい同田貫が、「なにさがしてんだ」と首を傾げる。御手杵が「うみがらす」と答えると、同田貫は「ほよじさがしたってだめだ。ここらにはあんまりねんだ。海口海岸のほうさがすといい」と言った。御手杵はすっかり海硝子にとりつかれてしまっていたので、「じゃあ、そっち行ってくる!」と言った。目はしぱしぱと輝いており、もう夢中なのだとすぐにわかった。同田貫は「ひとりじゃだめだ」と言って、御手杵についてきた。

海口海岸の方は波の隙間から岩が飛び出していた。岩と岩の間は潮だまりになっており、ほとんどが磯だった。砂利のところもあるが、「ほよじ」と比べるとどうにも泳ぐのに適していない。潮が引いているときは大きな岩のところまで歩いていけるらしかったが、今は潮が満ちていて、岩に辿り着くまでにはふくらはぎが濡れるようだった。大人がいるところ以外では泳いではいけない決まりになっていたので、御手杵は決して泳ごうとはしなかった。同田貫は御手杵の前を歩き、海口海岸のちょっと奥の方に案内した。そのあたりが一番海硝子がとれるらしい。言われた場所で目をこらすと、たしかに色は違ったが、御手杵が拾ったものと同じようなきらきらした半透明の硝子が落ちている。硝子というと手を切りそうなイメージだったが、海硝子は違った。波にもまれるうちに角がとれて、とがった部分がどこかへいってしまっている。まんまるではなかったが、丸に近く、どれもがだいたい薄かった。

「茶色いのがいちばんよくある。水色のがふつうで、白がちょっとレア、すげーレアなのはまっさおなやつと、みどりのやつ」
「うみがらすにもいろいろあんだな」
「あとびい玉のうみがらすはほとんどみつかんねんだ。おれもひろったことねぇ。にーちゃんにみせてもらったことはあるけど、きれいだった」
「へー…」

御手杵は夢中になって、海硝子を探しはじめた。同田貫の言う通り、茶色いものはいくつかあって、水色のやつも二、三個みつかった。しばらく探すと白いのも一個だけみつけた。けれど同田貫の言う青いやつと緑のやつは見つからない。探しているうちに、御手杵と同田貫は海口海岸の一番奥の方まできてしまった。奥の方はもうほんとうに磯で、岩がところどころ突き出ている。御手杵は戻ろうと思ったが、岩と岩の間に人が通れそうな場所があるのに気が付いた。

「なあ、この先ってなんかあんのか?」

御手杵がそう尋ねると、同田貫は「くじら浜がある」と答えた。くじら浜とはなんとも珍妙な名前だ。ほよじも変な名前だが、それとはまた違うおかしさがあった。

「おれが三才のときに、この先の浜にくじらがうちあげられたんだとさ。それからこのあたりのひとはくじら浜ってよんでる」
「くじらがいるのか」
「まよいこんできたやつな。ふつうはいない」
「そのくじら、たすかったの?」
「いや、食ったらしい」
「えっくじらって食えるのか」
「食える」

御手杵は「くじらはま…」と言って、その岩の道の方を見た。頭の中ではくじらのことを考えていた。くじらはどうしてこんな場所にまで迷い込んできたのだろうか、とか、砂利が痛かっただろうなあ、だとか、食べられるときはもっと痛かっただろうな、だとか、そんなことだ。

「あとくじら浜は化石がとれる」
「かせき?」
「めずらしいもようがはいった石だ」
「きょうりゅうとかの…」
「むかしはきょうりゅうもとれたって。でももう『けんきゅうしゃ』がねこそぎとっちまって、カスみたいのしかひろえない」
「でも、すごい」
「いってみるか」
「いく!」

御手杵は期待にキラキラと目を輝かせた。行く道はやはり同田貫が先を行った。結構な岩場だったのだ。これは転んだら相当痛いだろうな、と思いながら、御手杵は岩を登ったり下りたりした。何度か上り下りをすると、急に開けたところに出た。そこはほよじとおなじように岩肌に抱かれた海岸だったが、ほよじよりちょっと狭かった。流木があちこちにあって、岩もそこら中から突き出ている。石もほよじに比べてごろごろしていたし、そこには黄土色のものも混ざっていた。

「このきいろっぽいやつをちゃんとみるんだ」

同田貫は化石を探す気になっているらしく、御手杵にそう言った。「かたつむりみたいなもようがあったらそれが化石だ」と言う。御手杵は恐竜の化石あるかな、なんて淡い期待を抱きながら、いくつか黄土色をした石を拾ってみた。

くじら浜はほよじに比べるととても静かだった。まるで世界に取り残されたみたいだ、と御手杵は思う。時間までもがゆっくりめぐっているようで、太陽がいっそう眩しく感じられた。岩肌のせいで閉鎖的な空間のようにも感じ、まるで秘密の場所を探検しているかのように思った。

「ひみつきち、ここにつくれないかな」

御手杵がそう同田貫に聞くと、同田貫はちょっと考えたのち、「ここはみんなしってるばしょだからひみつになんねー」と言った。御手杵は「そっか」とちょっとしょげる。御手杵は先日みんなの秘密基地を解散させてしまったことがあった。それはどうしようもないことだったけれど、御手杵はちょっとばかり責任を感じていたのだ。それで毎日そこらを歩くたんびに抜け道はないか、どこか面白い場所はないかと目をこらしていた。それでくじら浜はどうかと思ったのだけれど、どうにもダメらしい。なかなかみつからないなあと御手杵が溜息をつくと、同田貫は「そんなかんたんにみつかっちゃ、長くすんでるおれらがくろうしてるわけがねえ」と言った。御手杵はたしかにその通りだと思い、目のつくところにあった黄土色の石を拾い上げた。

「あっ」

御手杵が拾ったそれにはカタツムリのぐるぐるがあったのだ。それはくぼんでいて、指でさわってみるとちょっとでこぼこしているのがわかった。石の大きさは御手杵の掌くらいで、波に削られたのかすべすべとしていた。御手杵は驚いた顔のまんま同田貫に「これ化石?」と尋ねた。同田貫は注意深くそれを見て、「化石だ」と言った。御手杵は思わず「やった!」と叫んだ。御手杵は今日一日だけでたいへんなものをいくつも拾ってしまった気分だった。いくつかの海硝子に、化石。どれも宿題の一行日記では収まりきらない出来事だった。なんなら人生ではじめて海でおよいだし、はじめて海藻の森を見た。御手杵は手の中の宝物たちを見て、うっとりと溜息をついた。きらきらしている。とてもうつくしいものたちだった。



くじら浜で遊んでいたら十二時のチャイムが鳴ったので、御手杵と同田貫はあわててほよじに戻った。ほよじに荷物や浮輪を置いてきたまんまだったのだ。ほよじに戻ると、同田貫は兄に「どこ行ってたんだ?」ときかれ、「ちょっとそこまで」と答えていた。くじら浜は行く過程がちょっと危ないので行ってきたとは大きな声では言えないらしかった。高学年になったらそれもまた変わるんだろうな、と御手杵は思った。

ほよじをぐるっと見回してみると、もう人影は二、三人しか残っておらず、その二、三人も水泳タオルを巻いていた。水泳タオルを巻いていたが、波打ち際に固まっている。なにかあるのだろうか、と御手杵が目を向けると、ちょうど振り返った和泉守に見つかった。すると和泉守は「ちょっとこいよ」と御手杵を手招きした。御手杵はなんだなんだ、とそっちへ向かう。

「これ、みろよ」

指刺された地面を見ると、御手杵は「うわっきもちわるっ」と叫んだ。和泉守はしてやったりという顔になる。波打ち際には海藻のようなものが落ちていた。見た目は海藻ににているが、まるまると水を含んでおり、ぶよぶよしていて、赤いような紫なような茶色いような、そんな色をしていた。大きさは大人の手くらいあって、触ったら破裂するんじゃないかっていうほどぶるんぶるんしていて、てかてかと日光を反射している。御手杵は「なんだよこのきもちわるいの」と和泉守に尋ねた。和泉守はいたずらっぽく、「あめふらし」と答えた。御手杵は「あめふらし?」とオウム返しをした。

「へんななまえ。生きてるの?かいそうじゃないの?」
「うみのいきものだ。まだいきてる」
「なんであめふらしっていうの?」
「いじめるとあめふらすから」
「うそだ」
「みてろ」

みてろ、と言って、和泉守はあめふらしをぎゅっと掴んだ。御手杵はそれを見て「うわっ」と悲鳴をあげる。御手杵には触れそうにないものをためらいなく触ったからだ。御手杵が「ひええ」と言っている間に、どろりと紫色の液体があめふらしからあふれ出た。それは和泉守の手も紫色に染め上げた。

「ほら、あめふった」

和泉守は綺麗な紫色になった掌を御手杵に向けてにやりと笑った。御手杵は信じられないものを見る目でそれを見た。海にはいろんな生物がいるんだな、と思ったし、それよりもずっときもちわるい、と思った。御手杵は「こっちむけんな!」と言ったが、和泉守はそれをずいっと御手杵の方にやった。御手杵はあやうくそれが自分の肌につきそうだったので、わっと後ろに飛び退いた。和泉守は面白い、面白い、と手を突き出したまま御手杵を追いかけ、御手杵は情けなく逃げ回ることとなった。

御手杵が半分泣きそうになりながら逃げ回っていると、海側の方の空がぴかっと光った。白い稲妻がぽろりとおちて、消えた。御手杵がそれに気を取られていると、和泉守につかまって、腰のあたりに紫色の粘膜をつけられた。御手杵は「うわ!!」と悲鳴をあげて、じゃばじゃばと海に入り、それを洗い落とした。和泉守も満足したのか、じゃばじゃばと波打ち際で手を洗った。御手杵は半泣きになって、和泉守にぶつくさ文句を言った。和泉守は「いまのうちになれとけよ」といって、御手杵をばかにするばかりだったが。そうして二人が海からあがると、御手杵の鼻先にぽつり、水滴が落ちた。はじめ御手杵は飛沫かと思ったが、違うらしい。ぽつり、ぽつり、と空から落ちてくる。

「きつねのよめいりだ!」

そう言ったのは誰だったか、定かではない。空は綺麗に晴れているのに、雨だけがぽつぽつと降っていた。まるで空が溶けているように。あめふらしは本当に雨を降らしたのだ。



夏が二階から落ちてきた。雨に溶け込んだ夏が、空という二階から。


END



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