青春18きっぷ搭載Suica
※現パロ
※モブが出てきます
※捏造多め
―――お待たせいたしました。東京メトロ千代田線をご利用いただきまして、ありがとうございます。この電車は、西日暮里、大手町、霞ヶ関、表参道方面、代々木上原行きです。次は、北千住、北千住です。乗り換えのご案内です。日比谷線、東武伊勢崎線、JR常磐快速線 日暮里・上野方面、つくばエクスプレス線は、お乗り換えください。…This train is…―――
長谷部は電車に揺られていた。朝の通勤ラッシュだ。がたんがたんと電車は揺れるのに、人々は揺れることを許されていない。ぴしっと着こなしたはずのスーツも、人の波に揉まれてすこしくたびれてしまっていた。しかしそんなことはもう毎朝のことだった。慣れっこなのだ。福岡から上京したての頃は随分戸惑いもしたが、もう何年も同じことを繰り返している。そんなことをしているうちに長谷部は今年、27になった。
長谷部は毎朝同じ時間に電車に乗る。始発の駅なので電車が遅れたことは一度としてなかった。ほとんど毎日、同じ電車に乗る。今日もそのはずだった。しかし、長谷部は前日随分遅くに寝てしまったせいか、その日はスマホのアラームより30分も遅く目が覚めた。しかし会社に遅刻するようなそんな醜態は起こさない。いつもが余裕がありすぎるのだ。長谷部はしかし朝食を抜いて、身支度も高速ですませた。そのおかげで長谷部は電車を一本遅らせるだけで済んだ。
長谷部は電車に乗って一息ついて、つり革を掴んだ腕に額を押し付ける。電車を一本遅らせただけなのに、なんだかアウェイにきてしまった心地がしたからだ。一本遅れの電車も随分と混んでおり、人々がそれなりにひしめきあっていた。
―――次は、新御茶ノ水、新御茶ノ水です。乗り換えのご案内です。JR線、都営新宿線、淡路町接続 丸の内線は、お乗り換えください。どうぞこの先もお気をつけていってらっしゃいませ―――
長谷部は聞いたことのない車内放送にはたと顔を上げた。車内放送は引き続き英語でその内容を繰り返している。しかし頭の隅に「どうぞこの先もお気をつけて」というフレーズがしっかりとひっかかっていた。なんだかいつも乗っている電車より丁寧だ。同じ路線のはずなのに。声もしゃがれた中年男性というより、若い男の声だった。いつもよりなんだかいい声だな、と思って聞いていたのだ。そこへきて「どうぞこの先もお気をつけていってらっしゃいませ」だ。長谷部はそのあとも耳を澄まして車内放送を聞いていたが、乗換の多い駅にさしかかるたび、その車掌は「どうぞこの先もお気をつけていってらっしゃいませ」と言っていた。朝からなんだか得をしたような気分になる。声も好みだ。もちろん長谷部は男が好きだとかそういった嗜好はない。ただ男でもいい声だと思う声だったのだ。長谷部はその日から、毎朝一本だけ電車を遅らせるのが習慣になった。
そんなことを一ヵ月ほど続けたある日の休日、長谷部はいつものように最寄駅から電車に乗った。ちょっとした買い物をしに表参道まで行こうと思ったのだ。恰好もいつもの堅苦しいスーツではなく、カジュアルなアースカラーのセーターにPコート、落ち着いた色のスラックスだった。長谷部の数少ない私服である。上着もこのPコート以外には仕事用のトレンチコートしか持っていない。同僚の宗三には散々私服に文句をつけられる。彼は毎日着てくる上着が違うのだ。社内でも有数のお洒落さんで、長谷部は時たま彼にスーツはともかく私服がダサいだのイモいだの言われていた。そりゃあ貴様と比べればそうだろうが、そこまで衣類にかまっていられない、と長谷部はいつも思う。思うがしかし気になってくるものは気になってくる。だからちょっとお洒落な表参道のお店で何かいい服や小物が売っていないかと探しに行くところだったのだ。
しかし、車内放送で聞き覚えのある声が流れた。いつもの「いってらっしゃいませ」の人だ。珍しく若くて男前な声なのですぐにわかる。長谷部はなんとはなしに行先を表参道から終点の代々木上原に変更をした。なんとなくだ。別段なにか目的があってそうするわけではない。彼が終点までどんなアナウンスをするのか気になったのだ。たたん、たたん、と電車が音を立てる。長谷部は静かに、いつもの「どうぞこの先もお気をつけていってらっしゃいませ」を聞いた。
車内は朝のラッシュ時よりずいぶん人数が少なく、むしろ閑散としている。空席が目立ったので、ずっと立っている方が目立つと思い、席に座った。席に座っていつもの車内アナウンスを聞いていると、なんだか観客かファンになったような気持になり、長谷部はそっと赤面をした。通り過ぎる表参道の駅名を視て、長谷部は少しだけ何をしているんだろうという気持ちになったが、二駅も過ぎればその気持ちもどこかへ過ぎ去ってしまった。昼過ぎのうすぼんやりとした意識を、車内アナウンスが持ち上げて、またフェードアウトさせていく。長谷部はめずらしくうとうととしながら電車に乗った。終点の駅は一度も使ったことがなかったけれど、まぁそこから折り返せば目的地にはつくだろう。目的地がどこであったのかも、もう定かではなかったけれど。
―――東京メトロ千代田線をご利用いただきまして、ありがとうございました。まもなく、代々木上原、代々木上原、終点です。足元にご注意ください。お出口は右側です。お忘れ物なさいませんよう、ご注意ください。どうぞこの先もお気をつけていってらっしゃいませ。担当は……車掌区、長船でした。―――
「長船…」
長谷部は最後の車内アナウンスに目が覚める心地がした。小さく呟いてから、それを心のメモ帳に書き留める。どうせ会うことなんてないとはわかっていたが、憂鬱な朝をちょっといい朝に塗り替えてくれた車掌の名前を知っておきたかったのだ。長谷部はもう一度「長船」と口の中でだけ呟いた。飴玉を転がすように。
その翌週、長谷部はいつものように朝、満員電車に揺られていた。いつもと同じ車両のだいたい同じ場所だ。長谷部はつり革につかまりながら、今日職場についたら何をすべきかということをぼんやりと考えていた。長谷部はいつも窓の外の景色を見ながら、丁寧な車掌の車内アナウンスを聞きながら、そうしている。そうしているとすぐ乗換の駅に到着するのだ。他の乗客はそれぞれスマートフォンをいじったり、新聞紙を小さく折りたたんで読んだりしている。長谷部はスマートフォンには最小限しか触らなかったし、朝のこの時間をゆったりと過ごすのが習慣になっていた。そうして目的地を目指す。同じ今日もそのはずだった。
「この人痴漢です!」
長谷部は最初、その声と、突然握られた自分の右手がうまく結び付けられなかった。車内はもとから少しざわついていたが、それがすっと鎮まって、視線が集中する。長谷部は間の抜けた声で「は?」と言うのが精いっぱいだった。唖然としているうちに駅に到着し、女は抜け目なく非常停止ボタンを押す。そうして長谷部の腕を掴んだまま、引きずるようにして電車を降りた。車内アナウンスで「車内点検のため一旦停車させていただきます」という声が聞こえる。聞きなれた、いつもの声が遠くに感じられた。
長谷部が痴漢に間違われたのだ、と気づくまでに駅のホームに降りてから一分ほどかかった。それくらい長谷部は動揺していた。背中がすっと冷たくなって、痴漢に間違われた場合の本当なのか本当でないのかわからない対処法が走馬灯のように頭の中を過ぎ去っていった。過ぎ去っていくばかりでそれを引き留めることはできない。明らかに冤罪だった。自分はどうしてスマートフォンをいじっていなかったのだろうという後悔が先立ち、それから目撃者は誰かいないのか、いやいては困る、いや無実を証明する目撃者、と車内へと視線をやるも、立ち上がりそうな人も付き合ってくれそうな人もいない。それぞれが一瞬長谷部へ好奇の目を向けて、そのあとは時計に目を落としている。苛立たしげに爪を噛む仕草まで目に入ってくる。長谷部がどうしていいかわからず、途方に暮れているところに、「何かございましたか!」と車掌らしき男が駆け寄ってきた。声の通り見た目は若く、精悍としている。目を引いたのは右目、こちらから見ると左目の眼帯だった。ものもらいにでもかかっているのだろうか。それからその男は眼帯を差し引いたとしてもとんでもない美形だった。長谷部は一瞬時が止まったようになって、「これはその」とも「違うんです」とも言えず、その車掌の造作に見入ってしまっていた。しかしその精神の沈殿は、女の「この人痴漢です!」の声で引き上げられた。そうだ自分は今社会的に死ぬか生きるかの瀬戸際なのだ、ということを思い出す。車掌は困ったな、という顔をして、PHSで一言二言駅員に連絡をとった。そのあとに「目撃された方はいらっしゃいませんか」と車内に呼びかける。呼びかけるも、その場を離れようという人はおらず、また困った顔になってしまった。長谷部はそこでようやく、「冤罪です」と声を張れるようになり、車掌は…車掌の長船は「お時間いただくことになるかもしれませんが、ご了承ください」といつものように丁寧に言った。長谷部はなんだかもう泣きたくなってくる。また少しすると他の駅員が駆けつけてきて、女の顔を見た途端「またか」という顔になった。長谷部は余裕がなく、そんな駅員たちの様子にも気が付かない。たしかこのあと駅員室に連行されるはずだが、そこへ行ってしまったらもう警察に引き渡されてしまう。駅員は警察を呼ぶしかなくなってしまうのだ。
長船らしき車掌が、「すみません、身分提示できるものをこちらに」と言って長谷部に近づいてくる。長谷部は震える手で使うことのない免許証を光忠に手渡した。手渡す際に光忠は長谷部の耳元に唇を寄せ、「隙を見て走って逃げて。身分証はあとで返すから」と言った。短すぎる伝言だ。しかし長谷部は指示に従うのが賢明だ、と、あたりをうかがった。駅員はがなりたてる女性の対応で手いっぱいの様子だったし、長船は長谷部の身元を入念にチェックする「ふり」をしている。長谷部は今しかないだろう、と自慢の俊足でその場を立ち去った。背後から「あっ」という短い女の悲鳴があがるが知ったことか。駅員もわかっているのか長谷部を追いかけるようなことはしなかったし、人混みにまぎれてうまく改札まで通り抜けられた。ここまでくればもう大丈夫だろう。長谷部はわずかばかり緊張のために弾んだ息を整えて、また茫然とした。まさか自分の身にこんな不幸が訪れるだなんて、と。それから免許証を長船に渡したままになってしまっていた。それはどのようにして返却されるのだろう。いろんなことが頭の中を渦巻いて、非現実にくらくらした。くらくらしたままとりあえずは冷静に、「会社に向かわなくては」と考えた。長谷部が下ろされたのは幸運なことに乗り換えの駅だった。そこからはいつも通りにしていればいい、と思った。長谷部は違うホームへ立ち、そこへじれったいほどゆっくりと入ってきた電車に乗った。
電車に揺られている間長谷部は無心にスマートフォンの画面を見つめていた。もう痴漢に間違われないように、だ。車内アナウンスが流れる。しゃがれた声だ。長船の声とは似ても似つかない。もちろん、「どうぞこの先もお気をつけていってらっしゃいませ」なんて文句はついてこない。それがなんだかとても寂しくて、アナウンスが終わったあと、唇だけで「いってらっしゃいませ」と呟いた。情けなく、泣いてしまいそうなものだったから。
その日から長谷部は通勤電車の時間をもとに戻した。なんだか恥ずかしかったのと、またあの女性と乗り合わせるのが怖かったこともある。しかし車内放送は無粋でしゃがれた男の声に戻り、長谷部をイライラさせるばかりだった。長谷部は忘れていた習慣を思い出すように、スマートフォンを触った。新しいニュースを長谷部に見せてくれるアプリまで入れて、通勤の際は必ずそれを見るようになった。左手でつり革を掴んで、右手ではスマートフォンを弄っている。ニュースはためになることを長谷部に教えてくれたし、通勤の時間を有意義なものへと変えてくれた。しかし何かが欠けてしまった。何が欠けたのか、長谷部は仕事に埋もれて、だんだんとわからなくなっていく。
そんな生活を二週間ほど続けたある日、長谷部は遅くまで残業をして、終電に飛び乗った。脚が早いのは昔からだったが、こんなところで役に立つとは夢にも思わない。少し肩で息をしてから、長谷部は空いている車内の空いていた席に座った。今日が金曜日でなくてよかったと思った。身体は泥のように重く、時刻も時刻だったので大きなため息がこぼれる。それと一緒に身体の力も抜けてしまった。疲れのせいか幻聴まで聞こえてくる始末だ。車内アナウンスで「どうぞこの先もお気をつけていってらっしゃいませ」。長谷部は疲れている、と、少し瞼を落とした。少しのつもりだった。
「…さん。…長谷部さん」
長谷部はとんとんと肩を叩かれ、目を覚ました。目を覚まして、真っ先に目に飛び込んできたのは隻眼の伊達男だった。長谷部は驚いてびくりと肩を震わせる。そうしてから「え」と声を上げた。目を閉じたのは一瞬だったはずなのに、もう周りから人の気配はしていない。しんと静まった車内に二人っきりだった。長谷部は少ししてから相手が長船だとわかり、動揺した。ありもしないことだが以前の痴漢の件で通報されるのではとすら思った。逃走を促したのは長船だというのに妙な話だ。それくらい長谷部は動揺していたのだ。
「終点ですよ」
長谷部は「終点」と言われて、やっと状況が理解できた。長谷部は終点まで寝過ごしてしまったらしいのだ。別に終点で降りるのだから間違いではないのだが、寝こけて車掌に起こされるなんて間抜けなことをしたのは初めてだった。カッと顔が赤くなるのがわかる。長谷部は渡しっぱなしの免許証のことも忘れて「すみません!」と席を立った。そうしてバタバタと電車をあとにしようとしたのだが、鞄が開いていたらしく、立ち上がった瞬間にバサバサと書類が落ちた。長谷部はざっと青ざめてそれをかき集める。焦りからかなかなかうまくいかず、見かねた長船が手伝ってくれた。
「そんなに急がなくていいです。あとは見回りだけですから」
「はぁ…けど、すみません…」
こんな失態はほんとうに久々だった。長谷部は書類をそろえるときれいにファイルに綴じ直し、鞄に入れて今度はきっちり口を閉じた。そうして「ありがとうございました」と言って電車を降りようとしたのだが、長船は「あ、少々お待ちください」と言って、長谷部を引き留めた。長谷部は忘れ物をしたかとあたりを見回すが、それらしきものは見当たらない。いぶかしげに長船を見ると、彼はポケットからペンと付箋を取り出して、何か書き留めていた。
「免許証、お預かりしたままでしたよね。今渡せればいいんですが、生憎持ち歩いていなくて。これ、僕の連絡先です」
そう言って、誰の携帯にでも入っているだろうSNSのIDが書かれた付箋を長谷部に差し出した。長谷部は「光忠」「LINE ID:osafune1010」と書かれたメモを反射的に受け取って、「ありがとうございます」と返していた。長船は満足したように笑うと、「この先もどうぞお気をつけて」といつものように言った。長谷部はなつかしさに一瞬たじろいでから、「どうも」と頭を下げて、やっとその場を立ち去った。心臓がばくばくとうるさいほど音を立てていて、誰とも視線を合わせることができそうにない。長谷部はうつむきがちに改札を抜けて、静かに帰路についた。下の名前は光忠だったのか、なんてことをぼんやり考えながら。
その日のうちに連絡をしようかと思ったが、夜遅すぎたので気が引けて、長谷部は翌日の仕事終わりに長船に連絡をした。らしくなく緊張しており、友達追加するのに何回もIDを打ち間違えた。やっとのことでID検索から長船を見つけ出し、追加をする。会社の同僚や上司との間でもよく使われるSNSだったが、この繋がった人を「友達」と呼ぶシステムが未だにしっくりこない。長船と長谷部はほとんど初対面だった。初対面といっても、長谷部は長船の声だけはよく聞いて知っている。長谷部ははじめなんと話しかけたらよいものかと逡巡したが、とりあえず名前を名乗って昨日の失態を詫びるべきだと思い、あたりさわりなく「長谷部国重です。昨日は申し訳ありませんでした」とメッセージを飛ばした。飛ばしてしまってから、いや痴漢冤罪の際に助けてもらったことを先に感謝すべきだったと思いつき、続けざまにそれを打とうとしたが、それより早く、長船から「連絡ありがとうございます。昨日の件はお気になさらず。むしろ連絡するきっかけができて助かりました」と返事が返ってくる。ちょうどタイミングがよかったのだろう。長谷部は重ねて「先日の痴漢に間違われた件、助けてくださってありがとうございました。何かお礼をさせてください」と打ち込む。やはり打ち込んでから、お礼ってなんだ、と頭を抱えてしまった。長船は筆がマメなのか暇なのか、すぐに返事を返してくれる。返事には「いえ、すぐに冤罪だとわかったので。お気になさらず。それより免許証がないと色々と不便でしょう。できるだけ近い日取りでお返ししたいのですが、定休日はいつですか」と書いてあった。長谷部は土日休みのサラリーマンだったので、それを伝える。光忠も丁度今度の日曜日が休みだったらしく、二人は何度かやり取りをして、今度の日曜、昼10時に表参道のスターバックスで待ち合わせることとなった。日曜日というのは明後日の話だ。長谷部は非現実に頭がくらくらした。こんなめぐりあわせは生まれてはじめてだったものだから。ベッドに身体とスマートフォンを投げ出して、はあ、と熱い溜息をついた。緊張に緊張を重ねて心身ともに疲弊してしまっていた。だいたい同世代だろう男と会う約束を取り付けただけでどうしてこんなにも緊張したのか、まるで不思議だった。きっと長船がなかなか見ることのできない美形だからに違いない。長谷部は自分の顔に手をやって、溜息をついた。
困ったのは服装だった。妙に洒落ていてもいけないし、宗三が言うようにダサくてもイモくてもいけないという意識があった。長谷部はその日になって、自分が持っている服がとてもひどいもののように思われていけなくなった。どうしたものかと考えた末、長谷部はこれはもう私服を持っていなかったことにしようというとんちんかんな発想をして、クリーニングからとってきたばかりの一番高いスーツを着た。これなら文句はあるまい、と思ったのだ。長谷部は少し常人とは違った思考をすることがままあったがしかし本人はそれに気が付かない。
待ち合わせのスターバックスはそれなりに混んでいた。長谷部は甘いものがそれなりに苦手だったので、普通のブレンドコーヒーを注文した。店内に長船の姿は見当たらなかった。15分も前に待ち合わせ場所についてしまったのでそれも必然である。長谷部はわかりやすいようにカウンター近くのテーブル席に腰かけ、飲み物に口をつけもしないで長船を待った。長船が現れたのはそれからほどなくしてのことで、待ち合わせより10分も早かった。長谷部は長船が店に現れると、取引先のお偉いさんが来たかのようにがたっと席を立った。長船はそれに気づいたのか、フレンドリーに手をひらひらと振って、どうぞ座ってて、とジェスチャーする。長谷部はなんだか自分が恥ずかしいことをしたような気分になった。
長船が呪文のような注文をすると、店員が恐ろしいスピードでトッピングをしたり何か液体を入れたりして、これまた呪文のような商品名を言ってカウンターから長船にそれを差し出す。長船は嫌味なく「ありがとう」と言ってそれを受け取っていた。やはりいい声だ。長谷部はぼんやりとその様を見ていた。よくよく見ると長船は恰好も決まっている。勿論普段の車掌の制服なんかではなく、黒一色で綺麗にまとめている。コートから靴からすべて真っ黒なのだけれど、それは野暮ったい黒なんかではなく、選び抜かれたことが良く分かる黒だった。ブランド物なのか生地もしっかりしていたし、細部にまでこだわりが見えた。外国人かと思えるほどのスタイルを損なっていないし、むしろラインにゆったりと沿っていて、モデルかと見まがうほどだ。長船の白い肌と比例していて、アクセサリなんか一切つけていないのにキラキラと光って見える。長谷部は自分の凡庸なスーツ姿を思い出して恥ずかしくなった。
「早かったですね」
長船はそう言いながら、自然な感じで席についた。コートの下はこれまた黒いVネックのセーターで、よく鍛えられた身体にそれはよく似合っていた。長谷部はしどろもどろに「そうですかね」と返した。長船はスーツ姿の長谷部を見ると「午後からお仕事ですか?」と尋ねた。長谷部は顔を赤らめて「いえ…私服が…」と言ったっきり黙ってしまった。
「そう、忘れないうちにこれ、返しておきますね」
長船はそう言って、自分のカードケースから長谷部の免許証を取り出して、長谷部に差し出した。長谷部はそれを両手で受け取って、なんとなくじっと見た。不機嫌そうな顔写真がやはり恥ずかしい。
「僕たち同い年でした」
いい声でそう言われて、長谷部ははじめ何を言われたのかよくわからなかった。自分の生年月日に目をやって、首を傾げる。長船は「あれ?今27歳ですよね」と。長谷部はやっと年のことだとわかり、「ええ、27です」と答える。長船は自分を指さして、「僕も27です」と言った。まさか同い年だとは思わなかった。同い年くらいだろうとは長谷部も思っていたが、光忠の物腰は年よりずっと落ち着いて見える。
「今日はどちらがお客様というわけでもないので、砕けたもの言いでいきましょうか」
「はあ…」
「急にそんなこと言われても困るって顔ですね」
「え」
「僕、敬語使ってるとなんだか仕事してるみたいで落ち着かないんです。慣れてきたらでいいですから、タメ口でいきましょう」
「…かまいませんが」
「よかった」
光忠はそう言うと、一口、飲み物を飲んだ。長谷部も思い出したようにカップに口をつける。
「あつっ」
それは思っていたよりも高温で、長谷部は思わず口を離した。唇と舌の先がひりひりする。
「猫舌?」
「…ああ」
フランクに話しかけられて、長谷部は思わずいつもの調子で返してしまった。かまわないといえばかまわないのだが、なんだか仲良くなった気になってしまう。まともに話すのはこれがはじめてだというのに。一回目は痴漢の冤罪、二回目は居眠り、長谷部は長船に恥ずかしいところしか見られていない。人生の汚点と言ってもいい。そして今回もまた間抜けなところを晒してしまった。長谷部はいたたまれなさを感じて、何か話題はないかと思った。しかし長谷部が長船に話題を振るよりはやく、長船が「そうだ」と飲み物から口を離した。
「僕は君に謝らないといけない」
「何を…」
「冤罪の件、あれは僕に責任があるんだ」
「は?」
長谷部が首を傾げると、長船は溜息交じりに、「自意識過剰な話をするけど」と前置きをして、「あの女性は僕のファンなんだ」と切り出した。長谷部は「はあ…」と間抜けな返事をしてしまう。そりゃあ、これだけ顔が良くて車内アナウンスも丁寧であればファンもつくだろう。声だけだって男前なのに、顔ときたら伊達男を絵に描いたような男なのだ。しかしそれとこれとどういった繋がりがあるのか、と長谷部は首を傾げる。長船もそれがわかって、言葉をつづけた。
「あの女性は何度も電車を止めていてね。毎度毎度、この人痴漢ですって、緊急ボタンを押すんだ。困った話だよ。最初の時は本当だと思ったさ。けれど警察に引き渡した途端、この人じゃないかも、って言いだす。わけがわからないだろう?そうして、今度は車掌さんにお礼がしたいって言うんだ。それが二回も続けばだいたいわかってくる。連絡先もしつこく聞かれたし、待ち伏せもされたしね」
「なるほど。それで今回の犠牲者が俺だったわけか」
「そう。申し訳ない。僕がもっときっぱりと迷惑ですって言っていれば長谷部君はこんな目に遭わなかった」
「まぁ、そうなんだが、それは仕方ないことだろう。仕事上の関係もあるだろうし」
「そうなんだ、それなんだ」
はあ、と長船は溜息をついた。長谷部はそれよりも、「長谷部君」と呼ばれたことを気にしていた。別段気に障ったわけではない。ただこの年になって君付けで呼ばれるとは思ってもみなかった。しかしそれが長船の常らしかった。「長谷部君」と頭の中で反芻して、そのむずがゆさに赤面する心地がした。それから名前を憶えてくれていたんだという喜びもあった。長谷部はカップの蓋を外して、ふうふうとそれに息を吹きかけた。長船は「怒らないんだ」と尋ねた。長谷部はよくわからず、「何が」と返した。ここまでくるともうタメ口の方が自然だった。なんなら呼び方も「光忠」になりそうだ。「長船」という名前はなんだか呼びづらかったので。
「僕のせいで酷い目に遭った」
「み…長船のせいじゃないだろう」
「まぁ…そうなんだけど」
「曲がりなりにも俺を信じてくれたんだろう。痴漢なんかしていないと。冤罪だと。それで逃げるように助言した」
「駅員室に連れてかれたらもう警察に引き渡すしかないからね」
「あとから調べたがそうらしいな」
「君の免許証も、足がついちゃうから返してしまったって言い訳してポケットに隠したんだ」
「それはありがたい」
「困った話だよ」
長船は溜息をついてから、はたとした顔になった。長谷部はなんだ、と首を傾げる。長船は「僕の苗字、どうして知ってるの」と。長谷部は「あ」という顔になったがすぐに、「LINEの名前が実名だろう」と。
「おかしいな、LINEは下の名前しか登録してないし、メモにも混乱しないようにって、光忠ってしか書かなかったよ」
「…」
「ねぇ、どうして」
思い返せはそうだった。長谷部が長船から直接聞いたのは「光忠」という名前だけだった。長谷部はしばらく言い訳を考えたが、いいものが思いつかなかった。制服の名札があるだろう、と言えればよかったのだが、痴漢騒動の時長谷部は混乱しており、それどころじゃなかった。長船はいたずらっぽく、「ねぇ、どうして」と尋ねてくる。長谷部は観念するしかなかった。
「…終点まで、乗ったんだ」
「電車に?」
「そうだ。そこで最後に自己紹介してただろう。車掌は長船でしたって」
「え、それで覚えたの」
「何が悪い」
「いや、普通車内アナウンスなんて誰もそんな真面目に聞かないし、声だって…」
「長船の声は若いからすぐにわかる。ほかはしゃがれている。それにアナウンスが丁寧だ」
「え、どこが」
「たまに言っているだろう。『どうぞこの先もお気をつけていってらっしゃいませ』と」
「…参ったな…」
長船は白い頬を少し赤らめ、口元に手をやる。つられて長谷部もカッと頬を上気させる。自分も女性と同様に思われてしまうのではないかと羞恥も覚えた。ファン、と言ってしまえばそうかもしれない。長谷部は一ヵ月も長船の声を求めて電車を一本遅らせていたのだ。ともすればそっちの人かと誤解されてしまいそうで、それだけは避けたかった。長谷部は決してセクシュアル・マイノリティではない。
「ああ、もう、長谷部君は僕に嬉しいことばかり言う」
長船はそう言うと、テーブルに肘をついて、額に手をやった。悩ましげな伊達男だ。とても絵になる。長谷部はあんまり恥ずかしかったので、ほかに何か話題はないかとあたりを見回してみた。周りは表参道に買い物にきた女性の組やカップルでいっぱいだった。男同士という組み合わせ、ましてや片やスーツ、片や私服、という組み合わせなんて存在しない。周囲から自分たちはどのように見られているのだろう、と、ちょっとだけ不安になった。そんな長谷部に気づいてか、長船はすぐに「どうしたの」と声をかけてくる。長谷部は別段言うべきでもないと思い「いや」とだけ返した。
「ああ、僕と君はちょっと目立つね」
長谷部の心を読んだかのような長船の物言いに、長谷部はぎくりとした。
「長谷部君、スーツだったからすぐわかったよ。さっき私服がどうとか言ってたけど、どうかしたの」
長谷部はこの男の前では何を言っても見透かされてしまうんだろうなあという気分になった。そうして観念して、「着て来れるような服がなかった。俺の私服は長船みたいに恰好よくもないしお洒落でもないんだ」と言った。ここだけの話長谷部はユニクロを愛用している。そこをいつも宗三につつかれるのだ。ユニクロの何が悪い、安くて機能的だろうと長谷部は反論するのだけれど、宗三はいつも「これだから長谷部は」と言って取り合ってくれない。
「そんなの気にしなくっていいのに。僕は君の私服が見たかったな」
「またそんな歯の浮くような台詞を」
「正直な気持ちだよ」
嘘か本当かわからない綺麗な顔で長船はそう言った。長谷部はこの男はきっと嘘を吐くのがとても上手なのだろうな、と思った。嘘の時でも本当の時でも顔の表情はほとんどかわらないのだろう。むしろ嘘を吐いている時の方が生き生きとしていそうだなんて失礼なことを考える。
「そうだ、じゃあ僕が君の私服を選んであげようか」
「は」
「君は僕をお洒落だって思うんだろう?だったら僕が選んであげるよ」
「え、でも」
「遠慮とかいいよ。そういうの好きなんだ」
「いや…今日は手持ちが…昼飯を食うぶんくらいしか」
「そう…じゃあまた今度にしよう。僕が貸してあげてもいいんだけれど、また今度にした方が君に会う口実が作れる」
長船の物言いに、長谷部は不快にはならなかったが、どうして、と思った。この男はなぜ自分のような男と交流したがっているのだろう、と思った。今日だって免許証を返してさっさといなくなることだってできた。長谷部が席を外さないのにはそれなりの理由があるが、長船にもそういった理由があるのだろうか。
「どうしてそう俺と交流したがる」
「え、」
「俺といてもそんなに面白くないだろう。ジョークも言えないし、何か共通の話題があるわけでもない。それなのにどうしてだ」
「うーん…そっかあ、長谷部君は覚えてないんだ」
「何を」
「僕、綾瀬で駅員してたことがあるんだ。長谷部君、綾瀬駅よく使うだろう?」
「ああ、最寄り駅だからな」
「あ、そうなんだ。じゃあ僕たち家も近いのかもしれない。まぁ、それはとりあえず置いておいて、もう何年か前の話になっちゃうんだけどね、僕が新卒で今の会社に入社して、勤務何日目かでさ。そうだね、多分四月だ。そのあたりに、駅内でトラブルがあってね、電車が止まっちゃったの。それでクレーム対応とかに追われてたんだけど、すっごくひどいクレームつける人がいてさ。クレームの内容は今でも覚えてるくらい、怖かったよ。新卒だったし、本当にどうしていいかわからなくって、でも先輩方も忙しくしてて、頼れる人もいなくってさ。ただただ駅のど真ん中で怒鳴られてた」
ここまで聞くと、長谷部もなんとなく思い出してきた。そう言えばそんなこともあった。長谷部もそのときはもちろん新卒で、入社したての今の会社に向かうところだった。朝の電車トラブルに巻き込まれたのはそれがはじめてだったので覚えている。長谷部はとりあえずどのタイミングで会社に連絡を入れたものかと困っていた。そこにひどい罵声が聞こえてきたのだ。聞くに堪えないような代物だった。長谷部はもうその内容は忘れてしまったけれど、その人はなんの躊躇もなく若い駅員にぶつけていた。そうだ、その時の駅員も隻眼だった。
「お前、あの時の駅員か」
「あ、思い出してくれた?そう。そのとき長谷部君が助けてくれたんだよ。横から入ってきて、『言っていいことと悪いことの区別もつかないのか』って。僕ほんと助かったよ。そのあと騒ぎに気付いた先輩も助けにきてくれたんだけどね、やっぱり君の一言が大きかったみたい。同じお客様だからね。駅員に何言われたって酷いこと言うのやめないお客さんは山ほどいるよ。騒ぎが治まって、そのあと電車も運行できて、僕はホームで君のこと探したんだよ。君、恰好がよかったからすぐ見つけられた。けどその時君はもう電車に乗るところで、電車も出発するところでさ。結局あの時のお礼が言えてない。あの時君が助けてくれたから、僕はこの仕事、続けられたんだと思う」
「そんな大げさな」
「大げさなんかじゃないよ。君がいなかったら僕はもうお客様みんなのこと怖がって、びくびくしながら仕事しなくちゃいけなかった。けど君みたいなお客様もいるんだなって、そう思うとどうにか前向きになれた。君みたいに優しくて恰好いいお客様のために頑張ろうって気になったんだよ」
「大げさだろう…」
「はは、そうかもしれないね。でも僕はそれからずっと、二年くらいかな。朝の通勤時間には君を探したし、夕方の帰宅ラッシュの時も君を探してた。見つけられる日もあれば、見つけられない日もあった。うん、見つけられない日がほとんどだったな。でも月に何回か、君の姿を見ることができた。お礼を言おうかと思ったけど、きっと君は覚えてないだろうって、なかなか言い出せずにいるまま、声をかけられないまま、僕は車掌になった。車掌になったらもう君の姿探してる余裕もなくって、僕は君が電車に乗ってることを考えながら、なるだけ丁寧に仕事をした。『この先もどうぞお気をつけて』って言葉はほとんど君に向けられたものだったんだよ。本当に聞いているなんて思いもしなかったけれど」
長谷部は自分の一ヵ月のファン活動がちっぽけに見えるほど長く続いていたらしい長船の話を聞いて、まさか、と思わなくはなかった。けれど長船の瞳は懐かしいものを見る目をしていたし、そうでなければ痴漢騒動の真っただ中で長谷部を長谷部とわかるはずもなかった。だからきっと本当なのだろうな、と思った。そうして長谷部は、自分もとんでもないファンを持ってしまったものだと思った。
「だから僕は君とできれば…仲良くしたいんだ。君さえよければだけれど」
長谷部はもちろん悪い気はしなかった。長船は紳士的で嫌味なところがなく、好感を持てる。こんなめぐりあわせは二度とないだろう。しかし大学も卒業して社会に出た自分が、会社の外でこんな友人を作るというのもおかしな話だと思わなくはなかった。青春時代には開け放たれていたはずの心のシャッターはもう下ろされていたし、手放しに相手を信用するほど長谷部はお人よしでもない。働いているぶん時間は限られているし、損得勘定抜きに人と付き合えるほど純真でもなかった。長谷部はどうこたえていいかわからず、自分の気持ちとにらめっこをはじめてしまった。長船は長谷部の劣等感が刺激されるほどにはいい男だった。長谷部が見惚れるほどにはいい男だった。見た目だけじゃない、中身もだ。ほんの数十分話しただけでなんとなくわかった。長船は距離をとるのがとても上手だ。距離をつめるのももちろん上手だ。長谷部が嫌でないように、それは自然と行われる。長谷部は考え込んでしまったが、あまり時間をおくのもなんだろうと思い、「嫌ではないが」と適当な返事を返した。
「ほんとう?」
「…嫌ではないのだけれど…俺はまだ長船のことをよく知らないし…」
「そんなのはあたりまえだよ。僕だって長谷部君のことほとんど知らない」
「…それでよく仲良くしたいと思えるな」
「だって、長谷部君はいい人だってわかってるから」
「また歯の浮くような台詞を…」
長船は落ち着いているのか無邪気なのかよくわからない。もしかしたら長谷部をからかっているだけかもしれなかった。長谷部はここで結論を出すよりも、付き合っていくうちに結論を出していくのが妥当だろうと気が付いた。長く付き合える男なのであれば長く付き合うだろうし、一時的なものであれば一時的なもので終わるだろう。そんなものだ。少なくとも長船は誠実そうだった。こういうところで交友関係を広げておくのもいいかもしれないという気持ちになってくる。そこまで考えて、長谷部は少しおかしくなってしまった。そうして、くすりと笑ってしまった。長船はその様子を見て、「どうしたの」と首を傾げる。
「いや、俺は友人の作り方も忘れてしまっているのだな、と思って」
思えばそうだった。長らく職場以外の人と話をしていなかった。学生時代の友人たちとは疎遠になってしまい、職場外では人とあまり話さなくなっていた。仕事一筋で生きた結果がこれだ。長谷部はひとつ溜息をついて、少しの後悔をにじませた。
「仕方ないよ。友達って、作るものでもないし」
「そういう光忠は…いや、長船は友人が多そうだ」
「光忠でいいよ。友達はみんなそう呼ぶんだ」
「そうか。どうしてか、長船という名前は呼びづらいんだ」
長谷部はなんとなく、長船と少し仲良くなれた気がした。はじめは浮いていた存在の二人が、やっとスターバックスの風景になじんでくる。その頃にはもう周囲の視線も気にならなくなっていたし、周囲も長谷部と長船をさして気にしていないようだった。ただいい年の男性二人がお茶をしている風景になる。長谷部はいつの間にか緊張がとけていることに気が付いた。コーヒーもずいぶん冷めて、舌に心地いい温度になっている。だから長谷部は自然に言えたのだ、「このあと少し街をぶらぶらして、昼飯に行かないか」と。友人を気軽に誘うように。
長谷部は翌日、いつものように通勤電車に乗った。正しくは違うが、だいたい同じだった。昨日はあのあと二人で街をぶらぶらして、正式に今度一緒に服を買いに行く約束をした。その下見をして、昼食を一緒に食べた。行ったのは長船がよく行くイタリアンのお店で、長谷部はそこでクリームパスタを食べた。とてもおいしかった。そうして二人は帰路についたが、驚いたのはそこからだった。二人はなんと同じアパートに住んでいたのだった。長谷部が一階で、光忠が三階。偶然というものはあるものだ、と二人で子供のように笑いあった。もしかしたらこれまでに同じスーパーで買い物をしたかもしれないし、同じコンビニに駆け込んだことがあったかもしれない。そうしてひとしきり笑いあったあと、長谷部は一階の自室に、長船は三階の自室に帰った。部屋に帰ってからすぐに、長船から「今日は楽しかったよ。また」とLINEが送られてきた。長谷部もそれに「俺も楽しかった。また」と返した。
長谷部は揺れる電車に乗りながら、昨日のことをぼんやりと思い出して、くすりと笑った。はたから見たらちょっとした不審者だ。もうニュースアプリに頼ったりはしなかった。そんなアプリに頼らなくったって、ニュースは舞い込んでくる。欠けていた何かを取り戻したような気がした。そうしている間に、車内アナウンスが流れてくる。長谷部の友人の声で。
―――お待たせいたしました。東京メトロ千代田線をご利用いただきまして、ありがとうございます。この電車は、西日暮里、大手町、霞ヶ関、表参道方面、代々木上原行きです。次は、北千住、北千住です。乗り換えのご案内です。日比谷線、東武伊勢崎線、JR常磐快速線 日暮里・上野方面、つくばエクスプレス線は、お乗り換えください。どうぞこの先もお気をつけていってらっしゃいませ…―――
END