ten month ago 8.31






日高は8月の半ばに引っ越しをした。どうして引っ越しなんて面倒なことを大学4年の夏にしようと思ったのかは覚えていない。日高の記憶には欠陥がある。しかしきっとそれは意味のある引っ越しだったんだろうなぁと妙に納得もしていた。日高はまだ部屋の片隅に積まれている段ボールを眺めながら、今日は暑いな、と思った。この部屋にはエアコンというものがついていないので、ガラリと窓を開けている。部屋の広さは六畳ほどで、寝起きするには苦労しない程度だった。日本家屋の一室を借りているので台所もトイレも風呂も居間も別にある。なかなかの良物件で、しかも家賃はタダ。これはたしかに引っ越したくなるかもしれないなぁと日高は思った。だから引っ越したのかもしれないなぁとも思った。
 

日高がこの日本家屋を知ったのは8月のやはり半ばだった。その時のことはよく覚えていない。気が付いたら隘路に迷い込んでいて、気が付いたら楠原という男にこの家へと連れて来られた。そうして言われるがままそこに一泊して、楠原に「ここに越してきませんか?」と言われたのだ。日高はぼんやりとした頭のまま、なんとなくここが自分の居場所のような気がしたので、「うん、いいよ」と言ってしまった。そこからは前のアパートを解約して、荷物をまとめて、レンタカーを借りての引っ越しになった。随分ばたばたとことが運んでしまった。その途中途中の記憶が日高にはない。けれどここへ来たことを後悔しているかと言われると、そうでもない。

時刻はちょうど18時になるところだった。日高は目を閉じて、耳を澄ませる。すると、懐かしいメロディが流れてくるのだ。イエスタデイ。日高はその曲の名前をこないだ知った。秋山に教えてもらったのだ。それから、歌詞は最近五島に教えてもらった。昨日なんかは道明寺とつたない英語で合唱をしたくらいだ。イエスタデイ、ただただ懐かしい、さよならの曲。


日高がそのチャイムを聞き終えると、とんとんと障子がノックされた。日高が「はーい」と答えると、楠原の声で「ちょっといいですか」と言われた。日高は「いいよ」と応える。するとすらりと障子をあけて、楠原が顔を覗かせた。

「日高さん、麦茶飲みません?」
「いいよ、べつに。でもなんでまた」
「いや、なんか6時のチャイム聞いてると誰かと麦茶が飲みたくなるんです」
「ふうん。そんなもん?」
「そんなもんです」

楠原はこの家の管理人だった。自称、幽霊。日高はそれをまるっと信じていた。だって日高が隘路に迷い込んだ時、楠原は唐突に現れたのだ。その時のことを日高はあまり覚えていない。覚えていないけれど、不思議なものを感じた。だから、幽霊。日高は幽霊でも麦茶なんて飲みたくなるんだな、と思いながら、腰を上げた。


楠原は居間のテーブルにことん、と汗をかいた麦茶を置いた。二人分。日高が「他には誰もいないんだ」と楠原に尋ねると、楠原は「ええ、今日は誰もいないんです」と言った。古びた日本家屋に二人っきり。なんだか不思議な心地がした。

居間は大きな窓で外と区切られており、そこからは庭が一望できた。楠原が毎日手入れをしている庭だ。庭にはドクダミの花が咲いていた。もう季節ではないというのに。楠原の好きな花だ。巷では基本的に雑草として駆除されるものだが、楠原はその花を好んで育てている。庭が少し薬臭いのはそのせいだ。

「いっつも思うんだけどさ」
「はい」
「なんでドクダミなんて育ててるわけ?」
「うーん…僕がはじめてここに来たときに咲いてたんですよね。それで思いいれがあるというか…あと花言葉もなんか思い入れがあるというか…」

楠原の言葉は曖昧で、あまり日高の脳みそには残らなかった。日高はちびりと麦茶を飲んで、夏の終わりを感じていた。ドクダミもどこかもうくたびれている。白い花弁が、西日に照らされてほんのりと温かい色に染まっていた。

「花言葉って、何?」
「言っても日高さんは覚えてられないですよ」
「人を馬鹿みたいに言う」
「そういう意味ではないんです。だって、日高さん覚えてられないんですもん」
「ああ、そっちの意味でね。どうかはわかんないけど。」
「そうです。きっと覚えてられない」
「なんでわかるわけ?俺にもわかんないのに」
「なんとなくです」
「ふうん。でもたしかに、なんか最近忘れっぽいからなあ。俺、さっきまでこの家になんで住んでるんだっけ、とか考えてたし」
「僕がそういうふうにしたからです」
「そうなんだ」
「そうです」

日高はその言葉を全部信じたわけではなかった。しかし少しだけ、そうなんだろうな、とも思った。不思議な力が働いているような気がずっとしていたのだ。日高がこの家に来たのにはきっと意味がある。自分が忘れている何か大切なことを思い出すためにそれは必要なことかもしれない。大切なことかどうかは、わからなかったけれど。なにせ覚えていないのだ。日高は大切なことはちゃんと覚えている。

「俺が忘れてることってなんなんだろう」
「きっと、覚えてなくてもいいことですよ」
「やっぱそうなのかなぁ」
「覚えてない方が幸せなこともあります」
「幽霊なのに悟ったようなことを」
「幽霊だからです」

楠原はそう言って、ちょっと寂しそうに笑った。いつもそうだ。日高の記憶の話をするとき、楠原はちょっとだけ寂しそうな、安心したような、そんな顔をする。日高はそれが不思議だった。どこかで前にも楠原と出会っていただろうか、と考える。けれど思い出せない。そういうとき、日高はふと不安になるのだ。自分が忘れている記憶は実はとても重要で、大切で、忘れていてはいけないものなんじゃないかって。

「俺、ここにいるとなんだかすげー懐かしい気持ちになることがある」
「そうですか」
「うん。でも、それがなんでなのかはわかんない。忘れてるのかもしれない」
「そうですか」
「思い出したいって、思う」

それは日高の正直な気持ちだった。日高はそう言ってから、またちびりと麦茶を飲んだ。麦茶の入ったグラスの水滴が、肘まで滴って、日高の膝のあたりを濡らした。

「僕は日高さんに思い出してほしいような、ほしくないような、そんな気でいます」
「楠原は俺が何忘れてるか知ってる?」
「内緒です」
「またそんなことを」
「だって、言っても日高さんは覚えてられない」
「またそうやって」
「本当のことです。僕は本当のことしか言わないです」

じゃあ本当のことを隠すこともできるんだ、と日高は思った。本当のことは言うこともできるけれど、隠すこともできる。だって言わなければ伝わらない。本当のことだけ言うっていうのは、そういうことだ。

「僕は幽霊なんです」
「知ってる」
「亡霊なんです。過去の、違う世界の、亡霊」

幽霊というとなんだか可愛いけれど、亡霊というと、なんだか怖い感じがした。日高はなんで楠原がそんなことを言うのかわからなかった。楠原はどんな未練があるのだろうとも思った。

「未練があるんだ」

日高はそう尋ねる。すると楠原は「はい」と言った。けれど、その先に言葉は紡がなかった。だから日高もそれ以上は追及しなかった。しかし未練ってなんだろう、とは思った。楠原は何か思い残すことがあったのだろうか、と思う。それから日高は自分が今幽霊になるようなことがあったら、それはどんな未練なのだろうとも思った。日高にはやりたいことが山ほどある。とりあえず警察官になりたかったし、女の子といちゃいちゃしたかったし、この家の人たちとももっと仲良くしたいと思った。未練って、結構あるけれど、どれも平凡で、ありふれていて、それで懐かしいような、あたたかいようなにおいがするものなんだな、と思った。日高はまた麦茶をちびりと飲む。楠原もちびちびとそれを飲んでいた。

「なあ、俺たちって、どっかで会ったこと、あったかなあ」

日高はなんとなく、そう尋ねた。そう尋ねた瞬間に、ばさばさと音がした。聞きなれた音だ。記憶が飛び去っていく。鳥のように。それは決して戻ってはこない。日高は「あ」、と声を上げた。その飛び去っていく鳥たちの尾に、なにかとても大切なものが見えた気がして。


「日高さん」

楠原の声に、日高は「あれ?」と首を傾げた。自分はさっきまで部屋にいたはずだ、と。しかし今はどうだ。居間にいて、楠原が目の前にいる。しかし何をしていたか思い出せない。日高はぐるりと視界を巡らせてみた。そこには飲みかけの麦茶があった。自分はどうやら楠原と麦茶を飲んでいたらしいということは覚えていた。しかし記憶がない。すっぽりと抜け落ちている。部屋でイエスタデイを聞いていたことは覚えていた。どこか懐かしい、あの曲。さようならの曲。

「ごめん、なんの話してたっけ」

日高が申し訳なさそうにそう言うと、楠原は泣いたように笑って、ただ「他愛もない話ですよ」と言った。

「ほんとうに他愛もない話です」
「ほんとうに?」
「ええ、本当です」

楠原はにこりと笑った。まるで最初から知っていたと言わんばかりに。日高は申し訳なくなって、何か違う話題がないかと頭を巡らせる。そうしてから、あ、という顔になった。

「楠原剛」
「はい、なんでしょう、改まって」
「俺、前々からなんかその名前、呼びづらいなって思ってたんだよね」
「そうですか?」
「うん。楠原っていうのもなんか違う気がする」
「僕の名前はそれなんですけどね」
「うーん。なんか違うんだよなあ」
「そういわれましても」
「あだ名つけよう。エノとかゴッティーみたいに」
「はぁ、」

日高はそう言うと、ちょっとだけ考えた。考えながら、「楠原」だとか「剛」だとかぶつぶつ唱える。そうして少し経ってから、「そうだ」と言った。

「タケ!」

そう呼ばれた時、楠原はびくりとした。びくりとして、なんだかとても懐かしいものを思い出しているような顔になる。日高はそれをひどく不思議がって、「気に入らなかったか?」と。

「…いえ、そんなことは…」
「じゃあタケって呼ぶ。いい?」
「…いいですよ」
「タケ」
「はい」
「いいね、なんかこっちの方がしっくりくる」

日高はそう言って、「タケ」と何度か楠原を呼んだ。そのたんびに楠原は泣きたいような声で「はい」と返事をした。

「タケ」
「はい」
「タケ」
「もう、なんですか」
「ははは、なんでもない」
「日高さんったら、酷いんだから」
「え、俺なんか悪いことした?」

日高は悪びれもせずにそう言った。楠原は喉の奥までこみあげてきたそれをぐっと飲み込んで、「麦茶、おかわりいります?」と日高に尋ねる。日高は「うん」と答えた。


「なあ、タケ」
「なんでしょう」
「俺、きっと思い出すよ」
「何を」
「忘れてること」

日高は楠原がまた持ってきた麦茶をちびちびと飲みながらそんなことを言った。楠原は「うーん」と考える。

「思い出さなくったって、いいと思いますけど」
「俺が思い出したいんだ」
「…そうですか。じゃあ、思い出せると、いいですね」
「タケ?」
「…うん。…うん…」

楠原は静かに、大粒の涙をこぼしていた。日高はわけがわからなくて、自分はまた何か忘れてしまったのかと思った。楠原を傷つけるようなことを言って、それをまるっと忘れてしまったのかと思った。日高がおどおどとしていると、楠原はただ、「ありがとうございます」と言った。

「タケ?」
「日高さん、日高さん、僕はとてもわがままなんです。とても、とてもわがままなんです。こんな僕のわがままに付き合わせてしまってごめんなさい。本当にごめんなさい」
「何言ってんだよ」
「ごめんなさい」
「何…」

楠原はただただ謝った。日高はわけがわからなくって、ただ「どうして」と首を傾げる。日高にはわからなかった。けれど楠原にはわかっていることがある。楠原はぼろぼろと涙をこぼした。さっきからずっと止まらない。身体中の水分が抜けてしまうんじゃないかってくらい、そうだった。日高は楠原の背中をさすってやりながら、「きっとそれはわがままじゃないって」と言った。そう言うと、また楠原は泣いてしまう。日高はもうどうしていいかわからなくなって、何か違う話題はないかと視線をめぐらせる。すると庭に咲いたドクダミの花が目についた。

「なぁ、そういえば、なんでドクダミなんて育ててるわけ?」
「…僕が好きだからです。この家に僕がはじめて来た時にも咲いてましたし…花言葉が、好きなんです」
「へぇ、そうなんだ。どんな花言葉?」

日高がそう尋ねると、楠原は少しだけ困ったような顔になってそれから、泣いているのに、また泣き出しそうな声で、「日高さんは覚えてられないですよ」と言った。日高は「人を馬鹿みたいに」と言った。そうすると、やっと、楠原が笑顔になる。涙を拭って、「だって覚えてられないんですもん」と言った。

「ああ、そっちの意味ね」
「そうです」
「試してみないとわかんないぞ」

日高がそう言うと、楠原はへらりと笑って、「それもそうですね」と言った。そうしてから、すんと鼻をすする。

「で、どんな花言葉?」

日高が再度尋ねると、楠原は遠い昔を懐かしむような顔になって、「白い追憶」と、答えた。日高よりずっと大人びた顔をして、静かな、それこそ今の時間帯のような、さびしい声音で。グッバイイエスタデイ。その曲を日高はなんとなく思い出した。さようならの曲だ。


END


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