six month ago 12.14






弁財は締切に追われていた。なんの締切かと言うと、酒のラベルの締切だ。新しく販売される日本酒らしく、そのラベルを書くという仕事が弁財のもとに舞い込んできたのだった。弁財は1ヵ月前からこの仕事に取り組んでいた。その日本酒を飽きるくらい飲んで、風味だとか味だとかはちゃんと把握していた。しかしうまく字が書けない。どうしてか筆がうまく乗らないのだ。何に乗らないのかと聞かれると応えるのは難しいのだけれど、とにかく何かに乗ってくれない。何枚もその日本酒の名前を紙に書いたのだけれど、納得できる出来のものは出来上がらなかった。

弁財は墨が塗りたくられた紙だらけの部屋に横になって、どうしてだろうと考えた。考えていた矢先に、とんとんと障子がノックされた。それから「日高ですけど」という声も聞こえる。弁財は「入っていいぞ」と寝たままそれに応えた。日高はすらりと障子を開けてきた。

「わ、死んでる」
「死んでない」
「いや、屍のようですよ」
「返事がない」
「ただの屍のようだ」

馬鹿みたいなやりとりをしてから、弁財は「なんの用だ」と日高に尋ねた。

「いや、弁財さん、しばらく食卓に姿見せてないから加茂さんが差し入れもってけって」
「…そういえばそうだったか」
「消化しやすいようにっておかゆなんですけど」
「…今は食べられないんだ」
「ちょっとだけでも」
「字が書けない」
「食べたら書けるようになるかもしれませんよ」
「そんなことは今まで一度だってなかった」

弁財はうまく食事をとることができない。食べられるときは食べられるのだけれど、食べられない時は全くだった。この家に来てから食べられる時期のほうが多くなっていたけれど、それでも駄目なときは駄目だった。弁財はそういえば最近は食べられない時期だった、と思い出した。もう水分くらいしか摂っていなかったので、自分の身体が幾分薄くなったように感じる。日高の目にもそれは明らかだったのだろう、とても心配した様子で「食べませんか」とおかゆを勧めてきた。しかし弁財はそのにおいだけでもなんだか吐きそうで、「すまない、本当に駄目なんだ」と横たわったまま答えた。

「じゃあ、どうしましょうね、これ」
「日高が食べればいい」
「うーん。それはどうなんだろう」
「捨てるのも勿体ない」
「それはそうなんですけど」

日高は迷いに迷った挙句、「じゃあこうしましょう」と言った。

「俺が食べますけど、弁財さん、それ見ててください」
「なんでだ」
「人がおいしそうに食べてるの見ると、なんとなく食べたくなるもんでしょう?」
「そうなのか」
「少なくとも俺はそうです」

そう言うと、日高は弁財の部屋の紙をかき分けて、その隙間にどっかりと腰を下ろした。そうして律儀に「いただきます」と言って、手を合わせる。

「においが…」
「いい匂いですよ」

弁財はうううと唸るけれど、日高はそんなことは知ったことかと弁財のために用意されたおかゆをするすると食べ始めた。弁財は寝転がりながらそれを眺めている。

いつか誰かが食事とセックスは似ている、と言っていたことを思い出した。身体の中にものを入れるという行為はなかなかに生物的だ。弁財はなんとなく、日高がとてもいやらしいことをしているような気になって、目を逸らした。すると日高が「ちゃんと見ててくださいよ。すごくおいしいですよ、このおかゆ」と言う。弁財は仕方なしにまたそこへ視線を向ける。

なるほど日高はとてもおいしそうにそのおかゆを食べていた。熱い湯気がたっているのを、はふはふと息を漏らしながら食べている。日高はわざとそうしているのか、ゆっくりとそれを食べていた。弁財はいたたまれなくなってくる。そうしてついに「わかった、食べる。食べるからやめてくれ」と折れた。日高は待ってましたと言わんばかりに、「じゃあ加茂さんにもう一杯くれるように頼んできます」と言った。

「いや、一杯は食べられないから一口だけでいい」
「俺の食べ差しですけど」
「もうなんでもいいから許してくれ」
「俺、なんか悪いことしてるみたいっすね」
「十分悪いことしてるよ」

弁財は日高からお椀と匙を受け取ると、するりと一口だけそれを口に含んだ。さっきまでの吐き気が嘘のようにそれはするすると弁財の身体の中に入ってきて、食べた弁財が一番驚いてしまう。弁財は一口と言わず二口、三口とそれを口に運んでから、自分がどれだけ食べ物を求めていたかを思い知った。乾いた土に水が浸透していくように、それは弁財の中の欠けた部分、ひび割れた部分に浸透していった。

「ね、言った通りでしょう」
「日高もたまにはまともなことを言うんだな」
「ひどい」
「ほんとうにたまになんだから仕方ないだろう」
「ほんとうにひどい!」

日高はそう言いつつもうまいことやった、という顔になった。弁財はそれが少しだけ気に食わなかったけれど、腹が少しでも満たされたせいか、怒る気にはなれなかった。むしろ文字が書きたいと思った。今なら書ける気がした。

弁財はおかゆをするすると胃に流し込んでしまうと、「日高、ちょっと見ててくれ」と言って、筆を取った。筆を取って、真っ白な半紙にすっと一本線を引く。悪くない調子だった。そうして、とりあえずの練習だ、と、半紙に「日高暁」と書いた。日高はそれを見て「おお」と言う。夜明けのような文字だった。弁財はそのまま新しい半紙を用意すると、さっきまで何枚書いても納得できなかった文字をそこに書いてゆく。一字一字、丁寧に筆を滑らせた。神経が集中して、ぴんと張りつめているのがわかる。そうして、満たされてゆくのもわかったし、筆が自分の思う通りに動くのも心地よかった。

弁財は最後の一筆をすっといれると、その半紙を両手で掲げて、「うん」と頷いた。そこには「残照」と書いてある。

はじめが「日高暁」で、終わりが「残照」。ちょうどいい組み合わせだとも思った。弁財は「書けた」と言って丁寧にその半紙をテーブルの上に置いた。日高はその様子をじっと見守っていたが、弁財が納得したのを見ると、「ね、食ったら書けたでしょう?」と得意気な顔をした。

弁財は何か反論でもしてやろうと思ったけれどなんだかとても疲れてしまっていて、また、ごろんと横になった。日高の顔を仰ぎ見る形になる。日高は「もっとなにかもってきましょうか?」とそれを覗き込んだ。

弁財はそう言われて、急にお腹がすくのを感じた。だから「うん、頼む」と言った。日高はにっと笑って「わかりました」と言った。なんだかとてもお腹が空いていた。久々に、お腹いっぱいなにかが食べたいと、そう思った。

日高は「じゃあ俺加茂さんに頼んできますんで」と言って、弁財の部屋を出る。弁財は一人になってみてから、「日高暁」と書いた自分の文字をまじまじと見つめた。本当に日が昇り始めて、暁の空が見えるようなそんな気がした。そう思ってから自画自賛も甚だしい、と苦笑する。そうして、一度「日高暁」と名前を口ずさんでみた。そうするとなんだか笑えてきて、弁財は一人、声を殺さなければならなかった。とても明るい、いい名前だと思ったものだから。


END



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