three month ago 3.14





 
「小説が書けない?」

秋山に「小説が書けないんだ」と打ち明けられた弁財は、そう素っ頓狂な声で聞き返した。秋山は本当に参っているらしく、その言葉にうなだれるばかりだった。締切が迫っているというのに、秋山の筆はまだ一字だって進んでいなかった。今日が本当にデッドラインらしい。今日までに取り掛からないと落とす可能性が出てくるとのことだった。秋山は今まで小説やコラムを落としたことは一度もない。今回が初めてのスランプだった。自分が何を書きたいのか、何を書くべきなのか、何を書こうとしているのか、果ては文章の書き方まで一切を忘れてしまったらしいのだ。

「そうだなぁ、書けない、か」

弁財は自分にも当てはまるものがあるのか、腕組みをして考え始めた。職業柄弁財と秋山は気が合う。秋山は小説家で、弁財は書道家だ。同じ文字を扱う仕事であるし、なんらかを表現する仕事でもあった。だから弁財と秋山はこの家に住む前から同じマンションに住んでいたし、知り合ったのも仕事でのことだった。

「弁財は書けなくなった時どうしてる?」

秋山がそう尋ねると、弁財は顎に指をあてた。

「息抜きに散歩してみたり、遠出してみたり、だな。あとは暴飲暴食」
「暴飲暴食はしたあとに絶対吐いてるだろ…」
「まぁ、そうなる。でもそうならない時もあるから不思議だ」

弁財酉次郎は摂食障害を持っている。

弁財は食べ物がうまく食べられない。この家に来てからなんとなくそれが快方に向かっているらしかったが、それでもまだ小鳥がついばむようにしかものを食べなかったし、食べたとしても吐き戻してしまうことが多かった。弁財はその唇を撫でながら、「空でも見上げて入ればアイディアも浮かぶさ」と言った。そうしたら秋山は「空なんていつも灰色をしているだけだ」なんてことを言った。

秋山氷杜は色覚障害を持っている。

秋山の世界はいつもモノトーンで構成されていた。この家に来てからもそれはあまりよくなっていない。よくなるとも思っていないので、秋山は別段気にはしていなかった。ほかの面子はわりによくなっているとも聞くけれど、これが秋山にとって普通なのだから、良くなろうがなるまいが関係なかった。それよりも問題なのは原稿である。原稿を落とすことは今の秋山にとっては死活問題だった。昔に大きな賞を取って注目された秋山だったが、今はしがないただの物書きだ。話題に上ることもなく細々と信用だけでやっている。その信用が失墜することだけはなんとしても避けなければならないことだった。

「新しく何か連載するんだったか?」
「そう。前にも連載させてもらってた雑誌で」
「そうか。それは…中途半端なものは出せないな」
「そう。だから困ってる」
「誰かに話でも聞いてもらったらどうだ。俺じゃまともなアイディアを出せそうにない。それこそ空でも見上げていろとしか」
「そうしてみようかなあ…でもいつもネタに詰まると誰かしらに話とか聞いてるからもうネタが尽きた感はあるんだよなぁ」
「日高には聞いたことないんじゃないか?あいつがきてからお前、そんなにネタに詰まってなかっただろう」

弁財の言葉を聞いて、秋山は「あ」という顔になった。日高は去年の8月に越してきたばかりだった。ばかり、と言っても8カ月は経っているけれど。しかしそれはいい案だ、と秋山は日高のところへ向かった。


日高は大学4年生である。今年の4月に就職が決まっていて、警察官になる。全寮制の警察学校に通うことになるのでここからは一時離れることになるが、まぁ戻ってくるのだろう。ここにはそういう魔力的なものがある。この古びた日本家屋にいると、ここが自分の場所なんだ、という気分になる。前世からずっと住み着いているような、実家にいるような、そんな気分になるのだ。だから誰もここから出て行ったりしない。別段の理由がなければ。

「日高?いるか?」

秋山が日高の部屋の障子の前でそう声をかけると、中から「いますー入っていいですよー」と声がした。秋山がすらりと障子を開けると、日高は荷造りをしているところだった。一週間後に引っ越しを控えているのでそのためだろう。たった8カ月の間に何度も引っ越しをするなんてあわただしい話だ。

「なんですか?」

日高は段ボールを組立てながらそう尋ねた。

「いや、今時間大丈夫か?忙しそうだけど」
「ああ、大丈夫ですよ。早めにやっておきたかっただけなんで。なんせ荷物が多くて。で、どうしたんですか?」
「いや、小説が書けなくて…何か面白い話でも聞けたらと思ったんだ。記憶のこととか」
「ああ、そうなんですか。面白い話かどうかはわかんないっすけど、かまいませんよ」

日高は段ボールだらけの部屋を見回して、「ここだと落ち着きませんね」と言って、居間の方へ行くことにした。


暦の上ではもう春、とはいいつつも、3月はまだまだ寒い季節だ。炬燵も出したままになっている。出したまま、といってもこの家は掘り炬燵なので年がら年中出したままなのだけれど。それでも夏には夏用の炬燵掛けを出すし、今の季節は冬用の厚手のやつを被せている。日高と秋山のほかには平日の午後ということもあって誰もいなかった。弁財は自室で書道の練習をしているし、日高と同じ大学生の五島はどこかへ出かけてしまっている。榎本と加茂は仕事だし、道明寺は夜型人間なので昼間は寝ている。布施も今日は仕事が入っているらしかった。楠原は神出鬼没なのでそのうち出てくるかもしれない。

「で、俺の記憶障害について話聞きたいんですか?」
「うーん。まぁそれに限ったことじゃないんだけど、まぁそうかな。そういうの、どういう気分なんだろうって」
「特に不便はありませんよ。なにせ覚えてないんだから。けどここに連れてこられた時はさすがに困りましたね。ここまで来た記憶がないのに、突然連れてこられて、突然泊まれとか言われて」
「ああ、あのときはそうだったのか。随分前のことのように感じるな。それにしてもせっかく馴染んできたのに、もう出るのか。戻ってくるんだろう?一応」
「ええ、まぁ、そのつもりっすけど。でも警察学校って卒業しても配属によっては絶対寮に入らないといけなかったりするんで、そこは怪しいです。戻ってきたいとは思うんですけど。ここ、居心地すごい好いんで」
「うん。俺もそう思う。で、記憶のことなんだけど、無くなった時とか、無くなる前とか後とかでわかるもんなのか?そのまますっぽり抜けちゃうんだろ?」

秋山の質問に、日高はうーんと考え込んでしまった。考え込んでから「あ」という顔になって「鳥みたいな感じです」と言う。秋山が「鳥?」と尋ねると、日高は「そう、鳥」と言った。

「音が聞こえるんです。記憶がなくなる前。それだけは覚えてます。ばさばさって音がして、記憶が鳥みたいに飛んでいっちゃう感じですね。あとはすっぽり。なんか、ここに来てから多くなった気がしなくもないです。たまにどこに帰るんだっけってなるときもあります」
「それは大変だな…。しかし鳥か…。あと不思議だな。ここに来ると大抵の人は症状が良くなってるのに、日高は悪くなってるなんて」
「そういう秋山さんだって、別段良くなってるわけじゃないんでしょう」
「まぁそうなんだけど」

秋山は縁側から見える外の景色を眺めて、それがモノクロであることを認識した。認識したと言っても、秋山にはモノクロという概念がない。見たものが白と黒と灰色で構成されているだけだ。白と黒と灰色にしたって、みんながそう呼んでいるからそう呼んでいるだけで、秋山にとってはそれがすべてだった。

「今日は晴れてますね。わかりますか?」
「うん。少し明るいから」
「そうなんですか」

会話はそれぎり、少し途絶えてしまった。秋山はその間にメモを取った。「記憶が鳥のように飛んでいく」と。そしてそれはどういう気持ちなのだろうとも思った。記憶というのは大事なものだ。神様が人間に与えた大事な能力の一つだ。これがないと思い出というものが存在しなくなるし、知能も格段に落ちてしまう。自分がどこにいるのかさえわからなくなって、最後にはどうなってしまうのかわかったものではない。そう考えると日高の欠陥はとても重大なもので、とても重要なもののことのように思えた。

日高暁はとても明るい、名前の通り太陽のような存在だと秋山は思っている。ここに来てからは道明寺と組んでムードメーカーになっていたし、いつも笑顔で楽しそうにしている。大学生活も充実をきわめていただろう。秋山のような存在とは真逆にいるのではないかと思う。学校のクラスで秋山はいつも一人で読書をしていた。そんなクラスの真ん中でみんなと笑いあっているのが日高なんだろうな、と秋山は思った。そんな日高に記憶の障害があるだなんて、誰が想像しただろう。日高はいつもそういうことをにおわせない。明るい日向の匂いがする。きっと女子にもモテるに違いない。けれど日高はこれまで一度も彼女ができたことがないと嘆いている。中学ではそういったことに縁がなく男子と馬鹿騒ぎばかりしていて、高校は男子校だったらしい。大学でも何故か彼女ができなかったとか。日高は時々残念なところがあるのでそれが災いしているのかもしれない。けれど秋山は思うのだ。そういうちょっとしたことが主人公には大事な要素なんじゃないかと。完璧な主人公がもてはやされる時代はもう終わったのだ。今は少し欠陥を抱えているくらいがちょうどいい。どんなヒーローにだって弱点がないといけない。たとえば顔が汚れると力が出ないとか、尻尾を掴まれると力が出ないとか、そういうところ。大事なのは共感できるかどうかだ。

「スイミーって知ってるか」

秋山はいつか弁財と話したことを思い出して、話題もなかったのでそう言った。

「小学校でやった気はしますけど」
「そう。日高くらいの年齢でもまだやってるんだ。いいね、ジェネレーションギャップを感じなくて」
「名作ですからね」
「あの話、挿絵があるだろう。俺にはそれがモノクロに見えて赤い魚っていうものがどういうものなのかわからなかった」
「そうなんですか」
「うん。スイミーって、家族を全部食べられちゃうだろう?」
「そうっすね。今思うと結構残酷」
「そうだね。で、新しい家族を見つける話」
「僕が目になろう」
「そう」

秋山にもスイミーはちゃんと目として見えていた。そこだけが真っ黒で、あとは「灰色」だったものだから。

「スイミーは前の家族を忘れることができたんだろうか」

秋山がそう言うと、日高はうーんとうなって、黙ってしまった。残酷な話だ。きっと忘れることなんてできやしない。新しい場所を見つけたって、それはかりそめでしかない。かりそめの場所、という響きに、秋山はなんだか寂しさを覚えた。ここはどうなんだろう、と思わなくはなかったものだから。ここはかりそめの場所なのだろうか。

「忘れらんないんじゃないですかね。忘れられないまま、きっとずっと生きてたんじゃないですか。絶対じゃ、ないですけど」

日高は遠い昔を思い出すような顔でそう言った。かといって日高の家族が健在なことは秋山も知っている。だから日高がどうしてそういう顔をするのか秋山にはわからなかった。日高が意識してそういう顔になったのかもわからない。しかし秋山はそれを見てなんだか映画のワンシーンのようだ、と思った。思ってじっと見ていたら、日高が「俺の顔になんかついてますか?」とテンプレート的なことを言ったので、笑ってしまった。

「いや、映画のワンシーンみたいな顔してたぞ、今」
「え、俺そんなくさいこと言いました?あ、言ったかも。やべ、恥ずかしくなってきた」
「恥ずかしがることはないと思うけど。俺なんかそういうのいっぱい書いてるわけだし」
「それとこれとは話が別じゃないですか」

日高は本当に恥ずかしいのか、顔を赤らめて手のひらで顔を覆った。それもまた映画のワンシーンのようで、秋山はついつい笑ってしまう。

「もう、小説のネタの話でしたよね?」

日高は恥ずかしさに耐え切れなくなったのか、話を一旦もとに戻した。

「スイミーの話でも書けばいいんじゃないですか」
「え?」
「秋山さん、スイミー好きじゃないですか、なんか」
「いや…オマージュするにしたって…」
「何もそんなそのまんま書けなんて言ってませんよ。ただそんなのを題材にした作品にすればいいんじゃないかって話です」
「スイミー…」

秋山は少し考え込んだ。思いつかなかった発想だ。スイミー。家族を失った魚が海を泳いで、新しい仲間を見つける話。思えば自分もスイミーかもしれない。誰だってそうだ。誰だって自分の場所を探している。秋山はたまたまこの場所を見つけることができた。それはとても幸運なことのように思える。たとえここがかりそめの場所であったとしても、そうだった。今こうして日高と向き合っていられるのも、とても幸運なことだ。

「今の生活を書いてみようかな」
「え?」
「俺たちがここにたどり着くまでの経緯とか、ここに来てからとか、そういうの」
「いいんじゃないですか」
「うん。すごくいいと思う。自画自賛だけど」

秋山はふう、と息をついて、これから自分が書くであろう小説のタイトルを考えた。秋山はいつもタイトルから決める。そうして、なんだか空がいつもより明るい気がして、ふと縁側の方に目をやった。

「なんだ、これ」
「どうしたんです?」
「空が…」

秋山はそれぎり言葉を失ってしまった。

空が見たこともない「色」に染まっている。空だけが、そうだった。不思議な色合いだった。時刻は丁度18時になって、ビートルズのイエスタデイが流れ始めた。その音楽と空が妙に馴染んでいて、秋山は息をするのも忘れてしまった。見たことのない景色だ。見たことのない世界だ。

「見えるんですか?」
「…わからない。ただ、見たことがない」
「橙色って言うんですよ。あ、でももう西の方は群青だ。紫がかってて…えーと…こういうの、何色っていうんでしょうね」
「なんだ、これ。すごく、きれいだ。こんなのが毎日なのか?頭がパンクしそうになる」
「毎日違いますよ。それが普通です。毎日違うんです」
「毎日…」

イエスタデイが流れる。雲が流れる。秋山の目にはどうしようもなく美しい色彩が映っていた。これを文字に表わすのにはいったいどれだけの時間がかかるのだろう、と秋山は思った。イエスタデイが終わって、ピーともポーともつかない最後の音が鳴った。それでも空は鮮やかだった。

日高が黙っていたので、秋山はずっと空を見ていた。その空はだんだんと西日が陰って、暗い色に変わっていく。けれど、いつものように真っ黒ではない。知らない色だ。秋山はただひたすら空を見て、はじめて色を知った気持ちを噛みしめていた。それはもう、頭をがつんと殴られたような心地がして、真綿で包まれるような心地がした。それから、なんだか懐かしい色だとも思った。秋山はこの色が何色なのかわからなかったけれど、ただただ懐かしいと思った。記憶にもない。けれど身体の、もしくはもっと概念的な部分が、それを懐かしいと感じている。

「goodbye yesterday」

秋山はぽつりと呟いた。

「え?」

日高は首を傾げる。

「小説の、タイトル」
「そうですか」
「うん。決まりだ」
「よかったです」

秋山はじっと空を見上げながら、ああ、ここでよかったのだ、と思った。秋山の瞳には生まれてはじめて色が映っていた。夕方から夜に変わる時の群青だ。しかし秋山はその名前を知らない。知らないけれど、ただただ懐かしい色。身に纏えたならどんなにかいいだろう。

「あ、小説、書かなきゃ…みんなに話、聞かなきゃ…でも空が…」
「大丈夫ですよ。きっと明日も見えてます。ここにいたら、きっと見えてます」

日高がそう言うと、なんだかものすごい説得力があった。秋山はもう一度空を見つめてから、「そうだな」と言った。明日もきっと見えている。この美しい空が。けれど今日とは違った空が。ここでよかったのだと思った。ここしかないのだとも思った。だから秋山はここにいる。それだけで世界は素晴らしい。


END



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