one day of now 6.14






日高は警察学校の休日に久々に外出することにした。日本の警察学校という場所は厳しくていけない。4月に入学してからそのまま入寮し、ほとんど休みはなかったし、訓練も座学も厳しくていけなかった。日高にとってそれはなかなかに苦痛だったけれど、将来立派かどうかはわからないがとにかく警察になるためには必要なカリキュラムであるとも理解していた。少し短くした髪の毛を掻きあげて、日高は外に出る。べたついた湿気がひどい、6月の蒸し暑さの中に。

別段、何をするというわけではなかった。少しの買い物と、散歩がしたかっただけだ。日高は少しの問題を抱えている。それは日高にとっては「少し」だったが、他人からしたら「大きな」問題らしかった。

日高暁には記憶に欠陥がある。

日高はごくごくたまに、記憶が飛んでしまう時があった。それはあまり重要ではないことが多かったけれど、とにかく、鳥が羽ばたいていってしまうように、記憶がすっぽりと抜け落ちてしまう時があるのだ。たとえば、大学4年の夏から卒業の時期まで、自分がどこに住んでいたのか、日高には全くの記憶がなかった。

大学でどんな講義があっただとか、大学の友達とどこで遊んだとか、そういう記憶はあるのだけれど、どこに住んでいたのかは全く覚えていないし、そこで何をしていたのかは全く覚えていない。8月の18日に引っ越しをしたことは覚えているのだけれど、もとのアパートからどこへ引っ越しをしたのかは覚えていないし、そこでどんな生活を送っていたのかも覚えていなかった。気が付いたら日高は警察学校に入学していて、全寮制だったのでそこの寮に入寮していたのだ。荷物の中には見覚えのないものがいくつかあった。買った覚えのない小説に、書道家の作品に、手書きのレシピ集に、ふざけたキーホルダーに、入れた覚えのないケータイのアプリケーション、知らない漫画のドラマCD、南国のお土産らしきもの、それから、どうしてか思い出せないけれど、そんな何か。

買った覚えはないのだからもしかしたら誰かからもらったのかもしれない。しかしそれを誰からもらったのか思い出そうとすると、とたんに頭にもやのようなものがかかって思い出せない。それは大事なことかもしれなかったし、そんなに大事じゃないことかもしれなかった。日高は歩きながらぼんやりと考える。

今まで日高はこの病気のようなものから目を逸らして生きてきた。大事なことはちゃんと覚えているからいいと思って生きてきた。それでも日高は忘れっぽかったのでメモをつけたり、日記をつけたりしていた。そのメモや日記を読み返してみたのだけれど、その内容は覚えていられなかった。何度読み返してもダメだった。それは大学4年の夏から3月にかけての内容についてのことだ。日記を読んでみても、読んだそばから文字が頭の中から飛び去っていく。目が滑る、という表現もしっくりこない。文字はおえているのだけれど、内容が脳みそに届く前にどこかへ飛び去ってしまうのだ。鳥のように。

日高はだんだんと暑くなってきた空気の中を歩きながら、そこらを見まわしてみた。今日は快晴で、雨が降る気配もない。街中に来ていたのでなかなかに人通りは多く、賑わっている。日高はなんだか疲れたな、と思った。随分と、家に帰っていないような気がした。それは実家、という意味ではない。自分の居場所、という意味での家だ。寮は窮屈すぎたし、切磋琢磨する場所ではあっても、羽根を休めるような場所ではなかった。日高が大学4年生の頃に住んでいたボロアパートにしたってそうだ。あそこは少し狭すぎたし、ただ上っ面の疲れを癒すためだけの場所だった。ほんとうの、心のどこかにたまってしまっている疲れを癒せる場所というものが、日高には存在しなかった。それがどうしてなのかはわからない。ずっとそうだ。日高は探している。自分の本当の居場所を。そうして、いつかはきっと見つけたのだろう。そんな気はしている。それはきっと記憶が抜け落ちてしまっているその部分にある。そこに思い至った時、ばさばさという音がした。鳥が羽ばたいていくような、そんな音。記憶が飛び去っていく時に聞こえる、悲しい音だ。


気が付いたら日高は見知らぬ隘路に迷い込んでしまっていた。家を出たことと街中で買い物をしようとしていたことまでは覚えているのだけれど、そこから先は全く覚えていない。自分がどうして今こんな場所にいるのか、まったくわからなかった。

あたりを見回してみると、そこは東京らしからぬ人気のなさで、路肩には緑が生い茂っていた。近くを川が流れているのか水の音と匂いもしており、ここは東京なのかと疑問に思ってしまうくらいだ。時刻は18時近くになっている。日高はとにかく現在地を確認しようとスマホを起動させてみるが、GPS機能では現在地不明だった。日高は途方に暮れてしまう。

とにかく大きな道に出てみよう、そうしたら駅の表示やコンビニがあるはずだ、と思い、日高は歩き始める。そうしなければいけないという決まりはなかったけれど、不安が大きかった。帰らなければいけない。けれど、帰らなければいけない、と思った矢先に、どこへ、という疑問が持ち上がった。どこへ帰るというのだろう。日高に帰る場所なんてあるのだろうか。それは警察学校の寮か。いやきっと違う。自分のあるべき場所へ帰らなければならない。そう思っていると、脚はどうしてか隘路へ隘路へとのびていった。帰りたいのに帰れない。ずっとそんな気持ちを抱えていた。とても寂しい気持ちだ。ただ自分の場所に帰りたいだけなのに、それを邪魔する何かがたしかに存在する。不思議な感覚だった。身体が全部覚えているような気がした。そうして日高は、行き止まりにたどり着いた。

「行き止まり、か」

なんだか泣きたい気分だった。歩いて歩いて、目指して目指してきたのにそこは行き止まりだった。ここまでだよ、と言われたような気がした。神様みたいな何かに。神様ってものは残酷だ。日高はそう思った。そう思った時に、夕方のチャイムの音が響いてきた。イエスタデイだ、と日高はどうしてかわかった。懐かしい、誰しもが知っているメロディ。どうしてわかったのか、わからない。けれど日高はそのチャイムがイエスタデイだとわかった。それだけでなんだか泣けそうな気がした。どうしてかはわからない。はじめて自分の記憶の欠陥が疎ましいと思った。こんなにも懐かしいのに、どうしてそんなに懐かしいのか、わからない。苦しいと思った。

チャイムが鳴り終わるまで、日高は茫然と空を見上げていた。真っ赤な夕日が沈んでいくのが見えた。日高はチャイムが鳴り終わってもしばらくそうしていて、やっと、帰ろう、という気になった。それは帰るべき場所ではなかったけれど、日高には帰らなければいけない場所がある。とても悔しいけれど、ここまでなのだと思った。そうして日高が踵を返した時、背後から声がした。

「お困りですか」

ばさばさと音がした。今までとは違う音だ。全然、違う音だ。日高の知らない音。記憶が舞い戻ってくる音。ぶわっと、抜け落ちていた記憶が補完されていく。日高は思い出した。そうして、振り返ろうとして、やめた。今の顔を、楠原剛に見られるわけにはいかなかったものだから。


END



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