楽しい話をしよう、きみは先に遠くへ行くんだろう






高校三年生の夏が終わった。季節はもう秋に移り変わって、制服も冬服になった。大学受験は冬に控えている。一応進学校であるので、学校は土日でも午前中だけ開いていた。御手杵と同田貫はそれを終えて、昼下がりの電車に乗っていた。マンションから学校までは歩いていける距離だったので、今日は帰りに息抜きがてら池袋まで遊びに行こうとしたのだ。池袋へは中央線から山手線を乗り継いでいく。電車はそれなりに混んでいて、席はひとつしか空いていなかった。御手杵は立っていた方が楽だから、とつり革につかまり、同田貫が席に座った。妊婦やお年寄りがいればすぐにでもゆずるつもりだったが、そういった人はなかなか乗ってこなかった。といっても二人がこの電車に乗るのはたった10分かそこらだ。同田貫は座らなくてもよかったのに、という顔をした。しかし御手杵の図体が大きいのでドアの付近でたむろするわけにもいかない。仕方がないか、と諦めて、ジッパーが開きっぱなしだった鞄を抱えた。同田貫はそれに気が付いてそれを閉めようとしたが、プリントがはみ出していてなかなかうまくいかない。同田貫は鞄の中を整理しようとそのプリントを引き抜いた。そのプリントは進路志望調査のプリントで、今日配られたものだった。御手杵はそれにもう書き込みがされているのを見て、「もう書いたんだ」と言った。同田貫はこういった類のものは早く書いてしまう性質だったので「ああ」とだけ答える。その志望の欄には御手杵も知っているけれど、この高校が附属している学校の大学ではない大学が書かれていて、御手杵は背中に氷塊の落ちる心地がした。

「この学校じゃないとこ、行くんだ」
「ああ、言ってなかったな」
「なんで」
「行きたい大学があるから」
「そこなんだ」
「ああ」
「そこって、都内だっけ」
「都内だな」
「マンションから通える?」
「通える」
「ふうん」

電車ががたんごとんと揺れて、駅に到着した。同田貫はプリントをそろえて、クリアファイルに入れ直した。そのファイルにはこないだの模試の結果も挟まれていたし、宿題のプリントも挟まれていた。最近宿題の量がやたらめったらに多い。家にいる時間をほとんど全部使わなければ追いつかないくらいに宿題が出されている。御手杵は宿題をよくサボる方だった。サボり方なんてものはいくらでもあるし、それを一回覚えてしまったらもうもとには戻れなかった。授業では忘れたふりをして、解答が配られたのちそれを書きうつして提出するだとか、解答をうつすときは全部丸でなく、ちょっと間違った形跡を残すだとかそういうこずるい手だ。しかし最近はわりと頑張っている。受験が近いのだ。みんなピリピリしている。御手杵も同田貫もピリピリしていた。そんな雰囲気がなんだか嫌で二人は今日遊ぶのだ。今日遊んだらまたしばらくは勉強漬けの毎日を送る。頑張らなくてはいけないのだ。

「頑張らなきゃなぁ…」

御手杵は口癖のようにそう呟いてから、その漠然とした言葉に自分でぎょっとした。頑張るって、何をだ、と。そんなのは勉強に決まっているのだけれど、自分は何のために大学に進んで、何のために勉強を続けるのか、御手杵にはまだわかっていなかったのだ。そう思うと、周りがなんだか急に大人びてきて見えていけなかった。特に同田貫なんかはもう進路希望も決まっていて、なんとなくで今の高校の上にある大学を目指している御手杵にしたらとても眩しい存在だった。同田貫は何を思って他の大学へ進学しようとしているのだろう。聞いてみたかったけれど、聞いてしまったら自分がもっと惨めで情けなくて子供じみたものになってしまうような気がして聞けなかった。電車が動き出す。

「あっ」

同田貫が電光掲示を見て、声をあげた。思考の海におぼれていた御手杵はそれで引き戻される。そうして表示を見ると、降りるはずだった駅が過ぎてしまったのだということに気が付いた。

「うええ、やっちまったなあ」
「次の駅で逆回りに乗り換えるか」
「…うーん…このまま乗っててもいいんじゃねーかなー。いつかは着くだろうし」
「時間かかるだろ。山手線って一周どれくらいだ?」
「一時間くらいだって聞いたことある」
「一時間あればサンシャインでプラネタリウム一本見れるだろ」
「でも見ないだろ、プラネタリウムなんか」
「まぁそうだけどよお」

御手杵は話していて、こういうところなんだろうなあ、と思った。自分のダメなところだ。流されるまんま、楽な方を選んでしまう。ただ待っていればいいのであれば待っていてしまう。同田貫のように自分から迎えにいくことはしない。そうこうしているうちに次の駅に到着した。御手杵は「降りる?」と同田貫に聞いた。同田貫は迷わず「降りるぞ」と言って、降りていった。御手杵もそれについてゆく。二人が降りたのは大塚だった。山手線以外通っていない駅だ。二人はそのままホームの反対側へ行き、そこで電車を待った。一度も降りたことのない駅だった。それなのに同田貫はどうしたらいいかわかっているように、そうした。東京に住んでいれば当たり前につく知識だったけれど、御手杵にはもうそれすらなんだか眩しく思えた。

しんとしたホームで、二人は次の電車を待っていた。その待っている間中、御手杵は急な不安が押し寄せてくるのがわかった。大海原に投げ出されて、右も左も前も後ろもわからない、そんな感覚だ。頑張ったって、どこに辿り着くという保証がない。何をどう頑張ればいいのかわからない。ただ波に身体をまかせて、辿り着く場所に辿り着いてしまった方が楽なんじゃないかと思った。それに逆らうだけの力が御手杵にはないのに、同田貫だけが御手杵を置いて先へ進んでしまう。どろりとした不安はどんどんどんどん大きくなって、もう遊ぶような気分ではなくなってしまった。

「俺らさあ」
「なんだよ」
「いつまで頑張ればいいんだ?何を頑張ればいいんだ?」
「どうしたよ、きゅうに」
「ふと思ったんだよ。なんか急にこわくなったんだよ。だってさあ、大学ってなんのために行くわけ?みんな大学に行けっていうけどさあ、俺勉強そんな好きじゃないし、できるわけでもないし…正直、大学に行って何するとか、大学に行ったあとどうするとか全然考えてないし、大学行ったあとも今度は就職だろ?俺将来何になりたいとか全然決まってないし、何になりたいわけでもないし…こんなんで何頑張れるっていうんだよって…頑張れないし、頑張るのだって、一生頑張り続けなきゃならないんだろうし、じゃあ辛いのもずっと続くわけでさあ、なんで同田貫はそんなに頑張れるんだ?なんで自分が進む方向わかってるんだ?なんで…なんで、俺のこと、置いてっちゃうんだよお…」

御手杵は一息にそこまで言うと、はあ、とホームにしゃがみ込んだ。そうしているうちに電車がきて、ホームドアが開く。同田貫はしばらく無言だったが、ホームドアが閉まった頃にぼそっと「俺は頑張らないことが怖いから頑張るんだ」とだけ言った。電車が行ってしまって、その言葉だけがぽつんと取り残された。

「サボったらつけがくる。誤魔化してもつけがくる。そういうつけが払いきれないくらいたまったとき、どうするんだって、思う。…お前、宿題結構サボってるだろ。俺の見たりとか、解答写したりして」
「う、うん…」
「そうやって解かなかった問題、いつ解くんだよ。もう解かねぇだろ。そういう問題がもう山ほどあるだろ。俺はそれが怖いんだ」
「…」
「お前は怖くないのかよ」
「…」

御手杵は自分が解かなかった問題の数がもうどれくらいになっているのかわからなかったので、さらに怖くなった。どうして同田貫は御手杵が不安になるようなことばかり話すのだろうとも思った。御手杵はそんな答えを求めていたわけではなかった。ただちょっと同情してもらって、ちょっと楽になりたかっただけなのだ。人生なんてクソゲーだ、と共感してほしかっただけなのだ。それなのに同田貫は正論しか言わない。御手杵はぷつん、と思考の糸を鋏で切ってしまった。

「なんかさあ、楽しい話しよう」
「おい」
「電車行っちゃったなあ、次、何分後だろうなあ」
「…」
「池袋、サンシャインにたしかプラネタリウムあったよな。見に行くか?」
「…男二人でプラネタ見てどうすんだよ…」
「それもそうだな。じゃあどこだろうな。映画面白いのやってるかなあ。あ、俺スタバ行きたい。新しいやつ出たって聞いた。秋のやつ。それが飲んでみたい」

それで、それで、と会話は海ほども広がっていった。そうして御手杵が話している間に次の電車がきて、二人はそれに乗った。今度は二人でドアの近くに突っ立っていた。たった一駅だけだったから。たたん、たたん、と電車が進む。そうしている間に、同田貫が「お前といるとたまに辛い」と言った。御手杵は「うん」とだけ返した。そうしてからやっぱり、「楽しい話をしよう」と言った。二人の距離が離れてゆく。


END



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