桂と影






桂は幼少の時に一度死んで、蘇生している。彼は運だけは人一倍ついていたので、助かったらしい。医者も随分驚いたものだったと母から聞いた。しかしながら実際、今の桂にとって幼時の知らぬ思い出など小指の爪ほども意味は無かった。彼を悩ませていたのは時折みえる暗い影である。それが不自然だと知ったのは十を数えたあたりだったか。「あれは何だ」と指差す度に家人に不思議がられるものだから、賢い桂は直ぐに口を噤むようになった。それは見えたり見えなかったりするものだから、別段桂は気にしない。十の半ばあたりからは眼の病かも知れぬとさえ思った。だがその影はとても奇妙だった。人にまとわりついている。最初はうっすらと。しかし段々濃くなる。桂はひとり、その影をじつと見つめる。影は、一体、どうだろう。

それから何年か経って、桂が攘夷戦争に参加すると奇妙なのは拍車がかかった。不思議なことにその暗い影がまとわりついた仲間はばったばったと死んでゆくのだ。不謹慎だがそれは面白いくらいで、よく見える時には何十もの影が見えた。が、見えぬ時にはとんと見えぬ。しかしそれが所謂死相のようなものではないかと思い始めた桂は、いよいよ頭を悩ませた。死ぬ仲間がわかったりわからなかったりするのだ。いつであろうと死というのは気紛れなものである。自然桂は俯きがちになり、仲間と距離を置いた。仲の良かった銀時や高杉、坂本とも話さなくなった。彼等が死ぬと知って、気の狂わぬ自信が無かったからだ。そうして一人になると、考える時間ばかりが増えた。ふと、母に聞いた幼時の話を思い出し、手前は少し他人よりも死というものに近いのではないかと思い始めた。この眼球は一度死んでいるためにあんな暗いものが見えるのだ。そうか、そうか。妄想はどんどん広がるが真相はついぞわからなんだ。結局、終いには手前に潜む死の影に怯える始末。斬られて死ぬ覚悟はあったがわけのわからぬ死と向き合う覚悟はなかったのだ。疲れた桂は眼を閉じ始めていた。



「なぁお前どうしたんだ」

本拠地にしている寺の部屋の隅で小さくなっている桂に、銀時は膝行して近付いた。ささくれ立った板張りの床なので、膝に棘が刺さっている。それを払ってから、膝がつき合うような距離で桂をじつと見詰めた。

「…つらいのか」
「ああ、つらい」
「なら俺にはどうしようもないな」

いや、なにか悩みがあるなら聞いてやろうと思ってな。まぁ聞くだけだけど。悩みったって悩みまくらなきゃいけない状況だしなぁ。結局、意味、無かったかも。
銀時は桂が頼みもしないのにベラベラとよく喋った。そうして最後に「生きてりゃなんとかなるさきっと」と言った。誰にとは言わないが。どうにも臭い。桂の方が恥ずかしくなって、照れを隠すように「お前は死んでくれるなよ」と言った。桂は影でなく銀時の目をじつと見つめた。酷く、辛い。幸い死相は見えなかった。けれど見えても見えなくても死ぬのだから結局同じだ。見えぬなら見えぬ儘で良かろうに。桂は膝を抱えるようにして小さくなった。そうしてから、眼を閉じる。あの暗い影が網膜にこびりついているような、暗い世界が桂の世界になった。

あいわかった、と桂の眼球がそれを承諾したのかどうかはわからない。が、その日から(正確には違うが)ぱったりと影は見えなくなった。桂はそれに気付かない。もともと見えぬ時期があったのでそれが長く続いているのだと思った。しかし敗戦という形で戦争が集結してから、桂は「ん?」と気がついた。こんなに長い間見えなかったことは一度としてない。ついに呪いが解けたのだろうか。よくわからない儘、桂はどこか晴れ晴れとした気分になった。しかし一方で、見えていたものが見えなくなったという世界の欠落も、感じていた。あの真っ黒は未だ、どこかで渦巻いている気がしてならない。



それからまた何年かして、銀時と再会し坂本にエリザベスを貰い受け、高杉とも再会した。濃度を増す日常の中のある朝、身なりを整えようと鏡を覗き込むと黒く煙っている。鏡を袖でこするがそれはとれない。暗い影が、桂にまとわりついていた。

「ふむ、なんだ、お前。まだいたのか」

桂は百年の知己に再会した気分になった。きっと自分は近いうちに死ぬのだろうが、不思議と怖くはない。何せ、この影は長年手前の眼球に潜んでいたのだ。幼時に取り憑いたこの暗い影は随分な怠け者だったらしい。やっとこさ今、ゆっくり、ゆっくりと色を濃くしている。暗い影は漸く、桂をじつと見詰め始めたのだった。

END



生きるということについてがお題でしたが分かり難いですね、すみません。

企画サイト様に捧げます。




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