窒息するまでの辛抱/坂高
家に帰るとまず寝室に入りネクタイを解くのが習慣だった。堅苦しいスーツの上着を脱ぐより早くネクタイの結びに指を突っ込んでそれを抜き取る。途端に息苦しさから解放されて坂本の中は安堵感で満たされた。1日の終わりは零時だったけれど坂本にとってはタイを解いた瞬間に1日が終わりを迎える。とても不思議な安心感がそこにあった。
「仕事と俺、どっちが大切だ」
ある日高杉が突拍子もなく言った。随分使い古された表現で、けれど愛とかいう不確かな存在を確かめるには幾分か有効な質問。
「んー?おんしに決まっちょるき」
「即答、は嘘だな」
「わしが嘘つきよるような男に見えると?」
「嘘に足が生えたような男に見える」
煙草の煙が頬を掠める。坂本は「かなわんの」と呟きくるくるとせわしない髪の毛に指をつっこんだ。ちょうど、タイを解くように。
「おんしゃもう少し、わしを信じてもよかっとーに」
「嘘を信じるほど馬鹿にはなれねぇな」
坂本はやれやれと肩をすくめてみせた。高杉はきっと彼が仕事と称して遊びに行っているのを知っているのだ。隠喩的な表現でもってそれを責めている。高杉はプライドの高い男だからして妥当だろう。もしくは単に仕事に費やす時間が多いことを責めているのかもしれない。なんにせよ高杉は坂本を責めているのだ。坂本はどうにも、ネクタイで首を締められているような心地がした。
「…わしはおんしだけぜよ」
「よく言う」
高杉は悲しげに笑って何枚かの名刺を坂本に投げつけた。それは坂本に届かずひらひらと力無く床に落ちる。冷たいフローリングに、坂本が抱いて、しかしもう名前すら覚えていないだろう女の欠片が散らばる。
不誠実にすぎる坂本はああやっぱりと息をついた。きっと窒素するまで、このネクタイは解けないだろう。
END