(副作用はありません。)
(勿論治療効果もありません。)
薬の使用量というのは完全なパーセンテージではないものの、日本国内で処方されている千差万別の薬各々に、治療域が定められている。
濃度が低ければ治療効果は得られず非有効域となり、高ければ治療効果よりも有害作用が強く出る中毒域、それよりも更に濃ければ致死量になる。
そして勿論その治療域は薬毎に異なる。
吹雪は今手に持っている薬を一回内服量の何倍飲めば中毒域になるのだろうかと、自身の掌に納まる透明な小瓶を傾けた。小瓶には残り三分の一程度、糖衣の錠剤が入っている。
もし百錠飲んで死ぬ事が決定しているのならば、九十九錠まで飲んでみたい。
そう望んだ瞬間心の中が微かに猛った。
作用域には体質や年齢や体格などを踏まえた個人差があるので、例えばその数字にまで達しなくとも、自分がその薬の効能と相性が異常に良すぎればその錠数より少なくて済む。
その逆もまた然り。
効きにくい体質ならば百錠飲んでも死なないかもしれない。
別に人に叱りを受ける程、自分に自殺願望があるのだとは思わない。
しかし時々考えるのだ。
死にたい訳ではないが、死のギリギリの際まで――そのラインの内でも外でも構わないから――近づいてみたい、と。
「風邪薬なら二瓶飲み干したって死にゃしねーぞ」
南雲は胡乱な目つきでベンチに座り、痛い程の冬風にマフラーを靡かせている吹雪に声をかけた。
グラウンドは日が落ちているので既に人が引き、突風と寒気に晒されて水分をなくした土埃だけが世界で動いている。
吐く息が白くないのは生まれた瞬間に風に吹かれて霧散しているからだ。
寒空の下だというのに吹雪は防寒具をマフラーしか身に付けておらず、その他は何時も通りのジャージだったので南雲は聞こえるように舌打ちをした。
「もし死ぬとしたって、咽喉に嘔吐物詰まらせて窒息死するだけだ」
「……何それ。僕三錠しか飲んでないよ」
対象年齢十二歳以上に対する内服量の定量を言ったが、南雲はどうだか、と吹雪の目の前に缶を差し出した。
余程熱いのか人差し指と親指だけで支えて、早く受け取れとばかりに一回揺らす。
吹雪はそれを両手で受け取ったがやはり熱かったので、ジャージの袖を親指が隠れるぐらいまで引いて熱さの緩和を図った。
「風丸が探してたぞ。吹雪が瓶を持ってどっかに行っちまった、風邪引いてんのにって」
「え、どこかって……」
吹雪は心底不思議そうな顔をして、「僕はここにいるのにね」と首を傾げた。
「それを風丸は知らねぇだろうが」
南雲はどっかりと、それこそ古びたベンチが軋む勢いで吹雪の横に腰掛ける。
吹雪もそれに対して嫌な顔はせず、むしろそこにいるのが当たり前だと思うように受け入れた。
「……なんで南雲君には僕の居場所が解ったの?」
「俺だからだよ」
当然のように言い切って、
「お前だって俺がいなくなったら解んだろ」
そう聞き返す。
「……うん、多分」
「多分って……頼りねぇな」
「だって僕が南雲君を探すことはないもの」
「なんでだよ」
吹雪は真ん丸い目を更に丸くしながら、少し不満そうな南雲を見返した。
「南雲君は僕の前からいなくなるの?」
そう率直に聞かれ、南雲はポリポリと頭をかきながら唸る。
「………いなくなんねぇな」
「でしょ?」
吹雪の綺麗に整えられた爪がある人差し指で、缶のプルトップを開ける。
カシッと小気味良い音が鳴った後、甘い香りが漂った。
それは南雲が選んだ、吹雪が好みそうな冬の甘い飲料の代表格であるココアで、南雲の苦手とする香りだ。
優しくて、鼻に残って、飲んでもいないのに舌の上に転がる甘さ。
無償の愛に似ていて嫌になる。
(こいつは解って言ってんのかね)
美味しそうにココアを飲む吹雪をこっそりと横目で見ながら、南雲は何回目かの自問自答をする。
吹雪は人嫌いではないが極端に人を信用しない。
外界に繋がる術を持たない彼の、唯一の蜘蛛の糸となり得るのが南雲だ。
吹雪がどうして南雲にだけ信用を寄せるのか、それは南雲自身あまり好ましくない理由があるのだが、どんな理由でも得られている事に変わりはない。
甘美にも似た、他を寄せ付けない人物からの、唯一のベクトル。
でもそれは吹雪にとって、見返りを求めない所か受け取る事を拒否する、完全な一方通行なのだ。
(お前が一人でいるってのは、俺がいなくなっているのと同じ意味なのに)
側からいなくならないでしょう?という勝手な、しかし確かな事実を持ちながら、お前は一人で俺の前から消えてしまうんだ。
南雲は両手をジャージのポケットに突っ込んだまま、横にいる吹雪の肩に思い切り勢いをつけて体重をかけた。
すると当然の如く、しかし怒った風でもなく、それが当たり前の挨拶のように吹雪は「痛い」と言う。
全体重を預けてもたれかかって来る南雲を押し返そうともせず、吹雪はそれきり何も言わなかった。
「吹雪、早く風邪治せよ」
「うん」
「そしたら必殺技の特訓の続きしようぜ」
「もうちょっとだしね」
「円堂に一泡ふかせてやろう」
「うん」
「すげーの見せたらツートップで試合に出して貰えるかも」
「そうなったらいいね」
「もちろんそれで試合に勝ってさ」
「うん」
「そうしたら、」
「うん」
「……そうしたら」
そうしたら、何だと言うのだ。
南雲はその言葉の続きを知っている。しかし吹雪には何の意味もない事だというのも知っていた。
黙り込んだ南雲を気にせず、吹雪は一口ココアを飲む。飲み下される無償の愛。
生きとし生ける全生物に神様から贈られる、誰にも劣らず、誰よりも優れない、完全平等の南雲が嫌いなもの。
(――……そうしたら、世界で一番お前を愛してるって、抱きしめるのに)
勿論南雲が言うその世界とやらに、死後の世界は含まれていない。
過去の偉人に勝てる天才がいるものか。
それと同じで、美しい思い出に勝てる現実もない。
南雲は嘯く。
あぁ、毒にも薬にもならない愛の、なんて虚しい事。