(これは何て名前の花だったか)
梅雨を迎えようとする五月晴れの朝、通学路にある日本家屋の裏木戸を越して、橙色の花が蕾を開いていた。
昨日もあったかどうか、敦也の記憶で確かめようとするも定かではなかったが、それは夏の暑さに刃向かうような気構えを見せた、海に良く映える色合いの花だった。
野草なのか、そもそも家人が庭に植えているのか判断がつかないほど、美しく咲いている割には手を入れている形跡が全くなかった。
しかし野草と呼ぶには大ぶりで、人の目を引くには充分な鮮やかな景色だ。
敦也はその名も知らぬ花を見て、十四歳の、しかも男が詳しく花の名前を知っている方が気持ち悪いよなと一人頷いた。
敦也が今の年代で知るべき事は、喧嘩の勝ち方だったり、美味くて安いラーメン屋の場所だったり、どうやったら宿題をサボってその時間をサッカーに割り振れるかどうかとか、そんな方法だ。
花の名前など知らなくても生きていける。
知っていたら何かに役立つかもしれないぐらいだ。
でも何故か、その花が敦也の目に焼き付いて離れなかった。
なんだろう。
誰か、ずっと昔に、この花の名前を言わなかったか。
子供の頃。ずっと側にいた誰かが。この花を、きれいだね、と。
アツヤ、と呼びながら。
「敦也!」
はっとなって後ろを振り返ると、風丸が息咳切らしながら通学鞄をひっかけて走ってきていた。
後ろで一つに纏めた髪は左右に揺れて、雷門の制服を着ていなければ性別の判断が出来難いに違いない。変声期前で、まだハスキーボイスで通ってしまうのもその間違われてしまう理由の一つだ。
「お前何をそんなに悠長に……時計ないのか?もう遅刻だぞ」
「んな事知ってるよ。遅刻になんの分かってっから急いでねーんだもん」
当たり前のように言ってのけると、風丸が呆れたような顔をした。
真面目というか生真面目というか、敦也の性格とは多少真逆な部分がある。しかしそこも含めて友人なのだ。
「でも珍しいな、風丸がこんな時間になるの」
「あぁ、さっき迷子のお婆さんを交番まで案内していて…」
「――王道中の王道だな。今時ドラマの中でだって使われねぇぞ」
随分使い古された嘘臭い台詞でも、それが嘘ではなく真実なのが風丸である。
「そういや風丸。この花の名前知ってるか?」
「は?知る訳ないだろう。なんだ突然」
「ちょっと気になってさ。知らないならいいや」
「そうか。…とりあえずもういいか、俺は急ぐぞ」
「あぁ、また学校でな」
ひらひらと手を振りながら、敦也は陸上部で培った風丸の完成されたフォームを眺める。その後ろ姿はあっという間に見えなくなった。
敦也は手を下ろして、白恋にいた頃の友達を思い出していた。
烈斗、流、礼文、紺子、珠香。違うもっと昔だ。小学校?幼稚園?駄目だ、思い出せない。
雪崩の事故で両親を亡くしたが、敦也は一人で生きてきた。
自分の両親を雪崩で亡くす前に、自分の側に居続けていたのは誰だったんだろう。
自分は何を、忘れているんだろう。
「……誰が花の名前を言ったんだっけか」
敦也にはそれが、分からなかった。