北ヶ峰が例年より少しだけ早い雪に覆われたのは、秋の残滓がまだ色濃く残り、赤く濡れる四季の花々の花弁にすら瑞々しさがある内だった。

本格的な冬に襲われるのはまだ先の話だが、それでも空には灰色の影を抱く雪雲が広がり、陽光の恩赦のない地上は熱という熱を奪われながらも雪を受け入れている。

小さな白い子供は我先にと地上を目指し、冷たい空気の中を生まれるようにして落ちていった。



押入れの中に仕舞い込んでいたコートは、たった一年の間しか離れていなかったのに、吹雪の腕を完全には守れなくなっていた。

たった一年。とはいえ吹雪は成長期であり、自分の体が大きくなっているのだと再認識しながら、少しだけ小さくなったコートの裾を引っ張った。

首に巻くのは白いマフラーだが、もちろんこれはアツヤの遺品ではない。
優しい母親が選び、寒がりだったアツヤに与えた物ではなく、自分で選び、自分で手に入れた物だ。

他人の目から見たらもしかすると同じ物に見えるかもしれない。
しかし吹雪の中では完全に別個であると確信が持てた。

似てすらいない。
だってこれは、誰にも触れられていないのだ。


吹雪は空を見上げた。

あごを少し上げると耳にかけた髪がこぼれ、雪を纏った冷たい風が吹雪の銀糸で遊んでいく。

北ヶ峰は既に八割方は白に落ち着き、残りは木々の幹や突出した岩、雪を嫌そうに落す緑などで縁取られる。

冬の到来を予感させるには十分の寒さだったが、白い息を吐きながらも吹雪はまだ寒くはないと思っていた。

あの時の方がよほど寒かった。

車の中から放り出されたおかげで貴方だけ助かったのよ、と言われたけれども、助けられた時は落ちた場所の雪の層に何時間も沈んでいたせいで、体は至る所が凍傷になっていた。

体温はセ氏二十度台にまで下がり、組織の代謝は完全に低下していて、正直言うと事故当時の事もそれからの事もよく覚えていない。
雪の圧力は強く、息をするのも困難で、低酸素になっていたせいもある。


ただ一つしっかりと覚えているのは、寒かった事だけだ。

涙も出ない程に寒くて、でもだんだん肌がむき出しになっている頬や手が痛くなって、雪が与える暗闇の中で何も考えられなくなってきた。

だからかもしれない。
あの時に奪われた自分の作り出す温度は今でも帰ってこなくて、夏場のくせに体温が低くて冷たいと、燃えるような暑さの手に取られながらそう言われるのだ。


少し前まで、吹雪は死んだ筈の弟の存在に悩まされてきた。
それが事故のショックからの二重人格だったのか、それとも本当にアツヤの魂が残っていてくれたのか、それは吹雪自身解らない。


でも恐らく、自分が抱いている自分への猜疑心が、アツヤという形を成して責め立てていたのだと吹雪は考えていた。

悩まされてきたというのは、不必要だとかいらない人間だとか、己が心底辛いボトルネックの部分を、針穴のような細さでも的確に刺してくる所だ。

それでも吹雪は、そんな事を言われ続けたとしても内に住むアツヤに救われていた部分が確かにあった。


馬鹿にされようが、嘲笑おうが、罵倒されようが、その間だけは確かに吹雪は孤独ではなかったのだ。


(最初は優しかったからね)


おかしくなったのは、自分が誰かに負ける存在であると知ってしまってからで、それまでは本当にただの声、ただの力、ただの優しさだった。

でもあのアツヤと統合してから時々、自分の中にアツヤという存在を作り上げた事が間違いだったのだろうか、と考え込んでしまう瞬間があった。

アツヤ。同い年の弟。親友のような家族。
あの時に死ななければ、一緒に背が伸びていったであろう自分の半身。

存在しない、人



(……でもアツヤが死んでから、僕の中のアツヤと二人で生きてきた間に生み出したものは、君がいなくなった今でも沢山残ってるよ)


二人で作った技だって世界に通用するし、アツヤの事だって、ジュニアチームの時の事を覚えている人や、僕の中のアツヤと出会った人たちが、アツヤは凄いストライカーだったって言ってくれる。

吹雪が存在した分だけアツヤの存在が残っているのだ。


「……アツヤ、僕の声が聞こえる?」

吹雪は声に出して囁けばアツヤに届くかと思ったが、当たり前のように白銀の世界からの返事はなかった。

今までは嫌だと耳を塞ぐ程に鼓膜に響いていたのに、アツヤの声はあの光の瞬間からもう聞こえない。



――アツヤ、今までは一緒の世界を、同じ目で、同じ体で見てきたよね。

僕の前にはあの日よりもずっと小さくて、穏やかな雪が舞ってるよ。

アツヤには今何が見えてるの?

声が聞こえなくなったから、僕にはもう、アツヤの事がわからないよ。



吹雪はそっと、右手を空に掲げる。重ね合う物は何もなく、空の雪原に肌色の手指が広がった。

子供の頃には何も掴めなかった手が、FFIのトロフィーを掴んだ。
それは自身の成長であり、成長出来ないアツヤとの距離が広がった証拠でもあった。


「僕が作り出した人格だって幻だって、なんだって良かったんだ。……一緒にいてくれるなら、なんだって良かったんだよ……」


吹雪は指を握り込んで、くしゃりと顔を歪めた。




ねぇアツヤ

言葉は交わせなくなったけど、約束はまだ胸に残ってる

僕らはまだ、つながってるかな




気を抜くと溢れ出そうな涙を抑える為、両手で顔を覆うとした時に吹雪はそのおかしさに気が付いた。


「……?」

ふ、と見ると吹雪の左手にだけ雪がかかっていなかったのだ。

そして吹雪の左側の足元にも、不自然に雪の薄い円がかかる地面があった。

それは今まさに、吹雪の隣に誰かが立っていて、ずっと吹雪の手を握っていたかのようで。



「―――――っ!」


吹雪は目を見開いた。

今ここに、誰かがいたのだ。
誰かがいて、手を握って、側にいてくれたのだ。

そうだ。声が“聞こえない”だけで、アツヤが“話していない”事にはならないじゃないか。





アツヤ、アツヤ、

今でもここにいるの、
どうして君の声が聞こえないの、
僕はここにいるよ、
いつだっていつまでだって君の事を思っているのに、


ただ、それだけなのに。







「―――……会いたいよぉ、アツヤぁ…っ」




願いはたったそれだけなのに。



もし今この場に吹雪が一人でいるのではなかったら、恥か優しさか強さか、とりあえず吹雪が涙を流す事はなかっただろう。

しかし実際この降り懸かる雪に身を預けているのは吹雪一人であり、音のない世界で声を上げて泣いてしゃくり上げて、子供の頃と同じ涙が頬に零れ落ちる。



昔は珍しく吹雪が泣いたら母や父が優しくハンカチを、弟が乱暴に服の袖をこすり付けてきたというのに、今の吹雪の涙を拭ってくれる存在は何も、何も、なかった。





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