別に染岡は昔から同性が好きだった訳ではない。女の子が好きだ。今もそう信じている。
 しかし周りが女子と交際をして大人の階段を上っている辺りで医者になりたいと医学部を目指し、勉学に勤しんでいたから高校時代は誰とも付き合った事がなかった。
 そしてそもそもの話、染岡は自分の容姿に全く自信がなかった。強面、色黒、アロハを着たらそっちの人と呼ばれ、低い声は女子を怖がらせてきた。
 女子が好きそうな会話を提供するスキルもないし、女子から好きだと言われた事もない。
 大学に進学して医学部に入学し、その頃に出会った半田や豪炎寺達のおかげで、多少女子との会話も慣れた。半田は女子に優しいし、豪炎寺は何も話さなくたってモテる。そういう奴らだったのだ。
 医師となった今では高収入の釣り書きの元、合コンに行けば当たり前のように女性が寄って来て、女性経験だって一般の平均より交際人数は少し多いぐらいだ。
 しかしその交際期間が余り長く持った事はない。いつもいつだって、別れの台詞は「一緒にいて楽しくない」だ。



「……どうしろっていうんだ」
 予約の手術が一件、救急の手術が一件、執刀医はもちろん自分ではないが、持ち上げる側だとてさぁ帰ろうと腰を上げた時には既に九時を回っている。
 染岡は病院から四駅離れた所に一人暮らしをしていた。
 地域医療を担う、という理念とはまた違うかもしれないが、人間一番近くの病院にかかるのが距離的に面倒ではないのは道理で、患者の八割方が病院と同じ区内に住んでいる。ほぼ新人と言って構わない染岡は近所に住んでいた方がもちろん楽なのだが、院内だけでの関係ならまだしも、仕事が終わってからまで患者に行動を見られているのは遠慮したかった。
 近所に住んでいる先輩医師の話だが、あるレストランで食事をしてグリーンピースを残した所、その数日後に診察に訪れた患者に「先生グリーンピースお嫌いなんですってね」と言われたそうだ。そのレストランの従業員が先生の顔を知っていて、井戸端会議で話題に上がったらしい。この話を聞いた時、染岡はぞっとした。こちらが知らなくても向こうが知っている事は恐怖に近い。
 芸能人はそこの所、変装などで切り抜けるのかもしれないが、一介の医師如きがそんな事をしていたらただの自意識過剰である。
 だからこそ染岡は避難的措置として、あまり遠くはない場所に居を構えるという手段を取った。駅四つ分というのがささやかな反抗精神だ。

 染岡が住んでいるマンションの直ぐ近くに、深夜十二時まで営業している惣菜屋がある。染岡はよくそこを利用していた。
 得手不得手はあるものの、一人暮らし歴がもう直ぐ二桁に突入するのだ。炊事洗濯掃除、家事全般は平均的にはこなせる自信がある。
 しかし休日ならまだしも疲れて帰って来た時に自炊をする気力はないし、ファーストフードやレトルト食品、コンビニ弁当はどうしても口にしたくない。疲れた時はどうしたって人の手で作った温かい物が食べたくなるのだ。
 そこの所、染岡の欲求をその惣菜屋はおおよそ満たしてくれていた。保存料や化学調味料を使用しない家庭の味、レパートリーが多い訳ではないが、野菜中心の作りで毎日置いている物が変わる。主食も旨い、副菜も旨い、椀物がないのは仕方がないが、店内の雰囲気だって暖かい。
 これで迎えてくれるのが厨房で働く年嵩の店主の妻ではなく、誰もが看板娘と口を揃えていうような若い女の子だったらな……と妄想を膨らませて、染岡は一つ咳をした。駄目だ。駄目な人間になりつつある。
 最後の彼女と別れてもう六ヶ月だ。人より別に過剰な訳ではないが、性的欲求は人並みにある。捌け口が映像だけという現実が少々物足りない事だけは事実だった。

 染岡も自分と同性である男を好きになったのかもしれないと思った時、自分自身どん引いた。
 最初あの少年を見た時、女の子だと思った。正直可愛いと思った。そして半田に調べて貰って、少年だと知った。驚いた。心底、驚いた。

 しかし、だ。
 性別を知ったのにも関わらず、自分の中の彼への恋心が消えなかったのだ。
 好みなら性別なんて関係ないのか。これには自分自身どん引くしかなかった。

 自動ドアではない片開きの手動の扉を押すと、ドアの上にかけられたドアベルが軽い鈴のような音を立てる。そうすると出来立ての惣菜を補充していたり、老眼鏡をかけて帳簿と睨めっこしていた奥方の目がこちらに向き、少し語尾の延びたいらっしゃいませー、が真っ先に聞こえる筈なのだが、
「あれ、先生?」
 今日は違った。声が若い。新しい店員でも入れたのかときょろりと声のした方に目を向けて……絶句した。
 目下染岡の頭を悩ませている少年、吹雪士郎がそこに立っていた。
「………!」
 ばっ、と顔を背けた事に対して染岡は直ぐに後悔した。これでは顔も見たくない程に避けていると思われても仕方ない。脳内で既に後悔をしつつ、でももう一度見返す勇気も既になかった。不意打ちで体力はゼロに近い。
 一般の中学生を前にして冷や汗をかきつつ背中を丸めている大人である筈の自分の姿を脳裏に想像して物凄く情けなくなったが、基本的に染岡は直情の行動型であり、後悔がついて回るがあまり悩まない性格だ。
 あぁ、後ろからくたびれたワイシャツが見られているのかもという考えがちくちくと神経を攻撃していた所で、件の少年は不愉快そうな声はさせずにまた声をかけた。
「人違いだったかな……染岡先生じゃないですか?」
 染岡は恐る恐る、といった風に振り返り、こちらが吹雪をきちんと視覚に入れたのならば向こうにもこちらが認識できるのは道理で。吹雪は自分の間違いではなかったと安心したのか、染岡を見てにっこりと笑った。
「良かった、間違いじゃなくて。あ、でも僕の事解らないですよね。吹雪士郎と言います。すみません急に声をかけて」
 ――名前も顔も知ってる。そんな余計な事はもちろん言わず、染岡は曖昧に頷いた。
「いや……顔は解る、けど。この間……女の子と一緒に病院に来てた奴だろ?」
「はい。その説はお世話になりました」
 吹雪がぺこりと頭を下げる。
「あの子もやっとご両親に話して、相手の人のご家族とも話し合いの場がもてたみたいで。この間よりは落ち着いてます」
「相手……って、お前じゃなかったのか」
 言ってから染岡はあまりに無粋すぎたと気づき、口を隠して悪ぃ、と返した。
「いえ、別に大丈夫ですから」
「いや……どうも俺はデリカシーに欠けるらしいから、そーいう所には気をつけるようにしてるんだけどな……駄目だな、口が先に出ちまう」
「僕は気にしないから平気ですよ。友達にも見かけより、って色々言われるんで。まぁそういう所から今回も付き添いを頼まれたんですけど」
 確かに普通、未成年の子が妊娠して婦人科にかかる場合、一人で受診する子ももちろんいるが、付き添いを連れてくる場合の殆どが、相手の男性か自分の母親だ。異性の友人というのはあまり聞かない。
「元々あの子の彼氏と僕が友達で、あの子が一緒に病院に行って欲しいって行ったのにその彼氏が断ったんですよ。行きたくないって。だからそんな状態の女の子を一人にしておく訳にいかないし、友達にも母親にも言えないっていうから僕が一緒についてきたんです」
「そうか。まぁ言っちゃ悪いが、女の子と一緒に来られないなんて情けない彼氏だな」
「そうかもしれないですけどね。でも庇う訳じゃないですけど、中学生で父親になるかもしれないと思ったら、やっぱり怖いんですよ。もちろん女の子側もですから、男だけ逃げるのは卑怯に違いないですけどね。それに先生方の目から見たら、どちらもただ避妊を怠ったからの、自業自得に思えてしまうかもしれないですけど」
 中学生にしては少し大人びた、達観した物の言い方に染岡は目を瞬いた。卑屈な感じは受け取らない。相手の非も情も受け止めて、それでも庇うというスタンスを、同学年だった頃の過去の染岡は持っていなかっただろう。
 ――見た目と少し、感じが違うのかもしれないな。染岡は思った。

「先生は今仕事終わったんですか? 今から晩御飯を?」
「ん? あぁ、仕事柄長引く事が多くてな。夜中に食べるのは体に悪いのは解ってるんだが、何か腹に入れないと眠れねぇんだ」
「だったらこれ、召し上がってください」
 吹雪が自分のバッグから出したのは、密封のタッパーに入ったクッキーだった。手作りのようにも見えるが、見た感じあまりにも形が綺麗だ。店舗で作ったプロの物か? と染岡が考えた所で吹雪が笑った。
「これ僕が作ったんです。オカラのクッキー。実は先生みたいに晩御飯が遅い知り合いがいて、今からここのお惣菜を買って届ける所だったんですけど、その人はいつも食べているので。……お世話になったお礼がクッキーっていうのはちょっと恥ずかしいんですけど」
 そう呟く吹雪の手には既に購入済みの惣菜屋のビニル袋があった。
 その白い手からタッパーを受け取りつつ染岡も戸惑う。誰かの手作り物なんて口に出来るのは、彼女と別れた以来滅多にない事だった。
「え……お、悪いな」
「いえ、お口に合えばいいんですが」
 そう言って微笑んだ吹雪の顔はとても女の子らしくて、くらりとしそうな己の頭をなんとか保つ。お口に合ったって合わなくたって、そんなの世界で一番旨くて今までで一番嬉しいに決まっている。
「それじゃあ僕はお先に失礼しますね。先生もお疲れ様でした」
「あぁ、気をつけて行けよ」
 ここで危ないからそこまで送るよという台詞が出ないのが染岡である。
 夜闇に消えていく小さい体を見送りながら、一瞬自分の妄想がここまで再現出来るようになったかと思ったが、手の中にあるクッキーがそれを現実で起こった幸せなのだと教えてくれる。
 甘い、それこそ染岡が味わう事のなかった淡い青春のように花びらが舞う異空間に、無言の目線を送る、現実にしっかり存在している店員が立っていた。
そうだ、全て見られていたのだ。

「お客さん先生さんだったんだねぇ、学校の先生? 中学校?」
「い、いや……」
「あれだよ、自分の教え子に手ぇ出しちゃいけないよ。この間もそんなんで捕まった奴がいただろう」
「いやだから」
「なんだい、そのやに下がった顔で否定すんのかい」
 面白いものを見たぞとばかりに話しかける奥方に染岡は冷や汗をかく。
 いつも使っていた惣菜屋の店員がこんなにお喋りだったなんて。これで心労なく使える店が一軒減ってしまったと、染岡は一人汗を拭った。










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