※暴力的表現がありますので注意。






吹雪は知っている。
染岡が吹雪を殴らない事を。

いや、正確に言えば殴れないのか。

現在進行形で染岡の前で仁王立ちをする吹雪の右手には、じゅうじゅうに焼け焦げた肉汁がこびり付くフライパンがあった。

熱されたまま冷える事のないそれはついさっきまで強火の熱に炙れていた物で、中で踊っていた胡椒が塗された肉とアスパラガスは、食卓に上る料理として八割方完成されていたにも関わらず無残に床に落ちている。

染岡の口に入ってさえいれば美味だと解ったものだが、こうなってしまっては味の批評をする者も味わう者もいない。

流石に這い蹲って食べようとまでは思わないし、そもそも食欲が沸く現状ではなかった。

吹雪の手に調理器具ではなく武器として握られたフライパンの底は、壁まで逃げた染岡の頭部にしっかりと狙いを定めていた。

三流ホラー映画のようなその光景でも吹雪の目はいたって真剣で、冗談を切り取ったような雰囲気ではない。

熱されたフライパンを握って人を追いかけている時点で警察を呼ばれても冗談でしたでは済まされない段階であるし、実際そのまま染岡の頭や体にスイングする事を吹雪は一切躊躇わないだろう。

怪我?大した事はない。火傷を負うぐらいだ。
それが吹雪の意見である。

警察や道徳倫理なんて恐れない。

一般的に普及されている罪や罰への恐怖感が少しでもあるのならば理性があるままこんな事はしないし、一応の名目上は恋人となっている人物との痴話喧嘩と呼べる域はとうに脱している。

吹雪は既に前科があった。


染岡の保険証は何度使用され、何回生命保険会社から質疑応答があった事だろう。

染岡は平凡で普通で一般的で平均ど真ん中の給料を貰う代わり映えのないただの会社勤めの男だったが、怪我の数は戦場に赴く歩兵隊より余程多かった。

右手を折ったと思えば左手に十数pの擦過傷を負い、瞼を切ったと思えば腹部に打撲痕が残る。

染岡の外見が外見なので、それこそ所属している組で抗争でもありましたか?と聞きたくなるような酷い有様だ。

しかし前述した通り染岡はただの会社員であり、高校卒業時にそういった先輩から多少のオファーはあったものの、勿論あちらの道とは一切繋がっていない清廉潔白の身だ。

ならば何故そんなに怪我をするのかと問われれば、染岡の恋人である吹雪が、ただただとてつもない人間だったからだとしか言いようがなかった。


「染岡君、僕言ったよね?今日休みだって。もし君が覚えてないって言うのなら僕が何月何日何時何分何秒何処でどういった会話があったが故の僕の発言か一言一句違わず言ってあげようか?それぐらいしないと解らないかな?染岡君は」

「いや、吹雪、覚えてる。覚えてるからそのフライパンを降ろせ。な?それはやべぇから。本当に、怪我じゃすまないからマジで」

「大丈夫死なずには済むよ。怪我と死の間にどれ程の距離があるか知っているでしょう染岡君は。それにそれぐらいの物事を覚えられない低能な人間の脳みそなんて僕にとってはどうでもいいし」

「それは付き合ってる奴に言う台詞か!?」

染岡は必死だった。
これまでの経験から言えば、確実にあの獲物は自分の顔面を狙う。

何故。何故吹雪が夕飯を作っているこの時間じゃなければ駄目だったのだろうか。

神様は意地悪だ。
もし時間がもう少し早かったり遅かったりすれば、掃除機の吸い込み口で殴られるか、風呂場に沈められるぐらいで済んだのに。

「吹雪、本当、止まれ。な?明日の朝刊で記事になりたくねぇだろ?」

「なる訳ないよ。もし新聞記者と警察がこの家に来たとしても、記事になるのは動けない染岡君だけだ」

暗に逃げると言っている。
いや、逃げるという表現自体が間違いか。

吹雪は動けるから、自分の行動にそぐわない目の前の人間は全て殺して行き、真っ赤な道をただ普通に、それこそスーパーの買い物袋でも引提げて歩いて行くだけだろう。


吹雪は一瞬だけくしゃりと表情を崩し、涙をこらえる様な、人を殺そうとする前ではおかしい仕草を見せた。

「――……染岡君のうそつき」

語尾とフライパンが動き出すのは同時だったろう。

吹雪の白く細い右腕が大きく振り被った瞬間までは見たけれども、そのフライパンが振ってくる瞬間は人間の反射作用のせいで見る事が出来なかった。

染岡は顔の前で腕を出し、目を瞑ってその熱い物体が振りかざされるのを待った。

しかし何時まで経っても衝撃はなく、吹雪のある声によって染岡はゆっくりと目を開ける。


「……大変、電話だ」

フライパンをテーブルの上に置き、パタパタとスリッパがフローリングを叩く音は、全く持って普通の光景だった。

染岡は我に返った後フライパンをすぐさま流し台に持って行き、油を拭う環境への配慮など放り捨てて水を思い切りかけた。

鉄に水がかかった瞬間悲しい程に白い水蒸気が踊り、あぁ自分は命拾いをしたのだと、染岡はシンクに手をかけてため息と一緒にへたり込んだ。


「染岡君、円堂君がね、これから一緒に食事に行かないかって。なんだか鬼道君の残念会みたいなんだけど、どうしよう、行く?」

「………行くって返事しとけ」

染岡は落ちている夕飯だった物を一瞬視界に入れてから、吐き出すように言葉を出した。

心労で足に思うように力が入らない。それとも恐怖故か。

吹雪はにっこりと微笑んで、じゃあ行くって返事するよ、と電話口に向かった。

染岡は肩を落として瞼を閉じる。

吹雪は先程とは打って変わって笑顔になりながら、廊下を歩いた。



(本当、染岡君はびくびく怯えた姿が一番可愛いよね)

一般的に愛情とか愛しさとか呼ばれている筈の感情を胸に抱きながら、吹雪は染岡を殴る。

感情表現が偏っている、とは思わない。それが吹雪にとって当たり前の事だからだ。

好きだから殴る。
行動に出る。

力加減が出来なくなるぐらい、染岡を前にすると好きだという気持ちが高ぶって、舞い上がってしまうのだ。


(大好き過ぎて困っちゃうね)

くすくすと口に指を添えて笑う。

吹雪が染岡を殺したくなるのはこーいう時だ。










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